「『孤独』からの救いのともしびが見えるように」
戦争や自然災害、世界的な新型コロナウィルスの感染拡大によって、聖書に書かれているような「諸国の民は恐れおののく。これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失う」ような現実を、まさにわたしたちは目の当りにしています。ですが主イエスは、わたしたちに「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいている」といいます。多くの方が苦しみのうちにある現実にあって、今まさに救いが近づいていると、わたしたちは言うことができるでしょうか。苦しみの只中に、救いのしるしが現れているということができるでしょうか。
今までに自分が経験したことのない出来事、できることなら起こってほしくない、そのような出来事が現実には起こります。そのような苦難の只中で、明日へと足を一歩前に踏み出すことに意味を見出せないときにも、呼びかける声がある。一歩踏み出す足を支えるものがある。そのような目には見えない、つながりや愛を、目に見えるものとしていく。わたしたちはひとりではない。孤独ではないことを、目に見えるものとしていく。それがわたしたちキリスト者であり、教会なのではないでしょうか。
主イエスは「ともしびをともして、それを穴蔵や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(ルカ11:33)といいます。わたしたちはそれぞれが生活する場で、救いの光が見えるように、この世にともしびをともすのです。救いのともしびをともすこととは、「人間の力の及ばないことが現実には起こる。その苦難のうちにあっても、わたしたちはひとりで歩むのではない。苦難の只中にあっても、孤独ではない。苦難の歩みを共にしてくれる人がいる。正しい答えを言うのでもなく、慰めの言葉をかけるのでもなく、ただ黙って、苦しむ人と共に歩んでくれるひとがいる」ということを行動で示すことでしょう。
聖パウロは、ローマの信徒への手紙12章15節で「喜ぶ人と共に喜び、泣く人とともに泣きなさい」といいます。わたしたちは、ひとりで孤独に喜ぶのではありません。ひとりで孤独に泣くのでもありません。わたしたちには、共に喜んでくれる存在がある。共に泣いてくれる存在がある。それを教会では「魂の同伴者」という言葉で言い表しています。「魂の同伴者」は牧師・聖職だけでなく、一人ひとりが「魂の同伴者」として、誰かと共に喜び、誰か共に泣くのです。そしてそれは自分ひとりですることではありません。わたしたちと共にいてくださる主イエス・キリストと一緒に、共に喜び、共に泣くのです。それこそが「孤独」からの救い・解放の目に見えるしるしとなるのではないでしょうか。
真理を伝えるため、仕えるため
キリスト教の暦では、今週が大晦日。次の日曜日から新しい一年が始まるのは、なんだか教会が伝統を無視しているように見えるかもしれません。日本には「昇る初日の出と共に、朝陽にキラキラ輝く新しい年を迎える元旦」といったイメージが元々あるのでしょう、新たな年が期待と希望でいっぱいになるように、また、不運は避けて通れるように、普段は神社やお寺に行かない人も、神仏に祈ったりします。新しい年の節目に人生を仕切り直そうという思う気持ちは、自然なことかもしれませんが、一方で不安を覚えるのは「幸運は当たり前であり、嫌なことが起きないよう排除する担当は神」なので、お詣りしておけば神をも操作できるだろう、という下心が透けて見えるときです。
でもそれは、他宗教あるいは無宗教の方々だけの話ではないでしょう。教会の中にも、そしておそらくわたし自身の心の中にも、似たような気持ちがあるかもしれません。神さまは私に便宜を図ってくれるに違いない、クリスチャンでない人より私の味方をしてくれるだろう、何故ならば教会を知らない人より、信徒である自分の方が神に近いし、大切にされているはずだからと。
ドキッとするのは、これはイエスさまが非難されている「ファリサイ派」や「律法学者」と同じ考え方です。「努力の足りない/できない」人々より自分は上等であり、神と親しいと自負しているところが同じです。でもここでイエスさまの生涯を、もう一度心に留めたいと思います。赤ちゃんのかたちをとって貧しい家庭に生まれ、なんの変哲もない苦労の多い人生を過ごし、最後の三年間を、支配者層の恐怖と憎悪の標的となって、ただただ十字架に向かわれた。それはなんのためかというと、「真理について証をするため」であると、イエスさまは言われます。
それは、都合の良い人生を送ることが、信仰深い人の裏付けではなく、不運に遭遇しないことが神に守られていることの証ではなく、辛いことにも悲しみにもどん底にも遭遇するけれど、どんな暗闇の中にも来てくださり、賞賛や感謝をされなくても、泥まみれになりながら一緒に立ち上がるまで、忍耐強く共に居てくださる神の存在に信頼してほしい、それが伝えたい「真理」なのではないでしょうか。そして神さまの言いつけをよく守る「良い子」だけに向けられたのではなく、神さまを信じていない人にも及んでいることを、わたしたちは常に心に留める必要があるでしょう。
一年の暦の始まりが、もっとも暗闇が深い季節から始まり、その闇が来ないように操作することが不可能なように、わたしたちの心に住む闇や暗さもまた、表面上いくら取り繕ってみても、無かったことにはできない性質があるのだと思います。しかし、だから諦めようということではなく、弱さと暗闇を切り捨ててから神の前に立てと言っているのではなく、そんなわたしたちを諦めきれないから、心から愛しているから、わざわざイエスさまを送ってくださった神の意思を知ってほしいと呼びかけておられる。神さまの愛を知ろうとすると、小さな不幸は自分のせいだとは思わなくなります。神さまに信頼すると、新しい力が湧いてきて「あなたは大切な人です」と伝えたくなり、そのように生きたくなります。これが、新しい年を迎える本当の準備ではないでしょうか。
不安に埋もれないために
人を動かす大きな要因として、不安という要素があると思います。最悪のシナリオを突きつけて、こうなってしまったらお終いだと思わせる。あるいは、あまり根拠はないけれど「きっとそうはならないよ」とささやき、考えるのを辞めさせる。巷に溢れる「広告」の中にも、なんとかして人々の目に止まり、不安を煽ることで、つい買い物をしそうに仕向けるメッセージが目につきます。
聖書の時代はテレビもネットもなかったけれど、いろいろな偽の情報は横行し、自称「メシア」や、自称「預言者」があらわれたようです。彼らが必ずしも不安を煽る目的ではなかったにせよ、人々が思わず「そうかもしれない」と信じそうになるくらい本物らしく振る舞う、というのはよくある話なのでしょう。
聖書の冒頭に出てくる「破壊者」は、特定の個人というよりは、キリスト教徒への憎しみの連鎖や迫害、圧政を強いる支配者層などを指しているのかもしれませんが、一方で、その後語られる、建物の一階よりは屋上に留まるよう勧める話や、独身女性や寡より当時の社会的地位が安定していた妊婦やこども連れが「不利になる」話を聞くと、津波や土砂崩れといった自然の破壊力も想い浮かべます。
生きている限り不安は常にあるので、それらを消し去ることはできません。しかし、人の目が必要以上に気になり、噂に振り回され、何が大切なことで、何がそれほどでもないことかわからなくなるような、不安を軸に振り回され続ける人生から、自由になることを、イエスさまは望んでおられるのではないかと思うのです。潰されるよりは、魂や心身が抹殺されるよりは、ひとまず「山にのがれ」自分を守ることを躊躇するな、と言ってくださっている。それは、不安に巻き込まれそうになっても、何が大切なのかわからなくなっても、真理であるイエスさまに、まず心の中心に居ていただくことで、わたしたちは右往左往した心の状態から解放され、すぐにではないにしても、少しずつ霧が晴れるように、何を一番大切にしていきたいのか、見えるようになる、そう言っておられるのではないでしょうか。
もちあげられたい人々
保育園のこどもたちは、振りむきながら「見て見て〜」とよく叫びます。得意なことや、うまくいきそうなことを、誰かに気がついて欲しい、うれしいことを分かち合いたい、そんな気持ちなのでしょう。「喜びを分かち合ってほしい」という呼びかけは、そこへ招かれた人をも幸せな気持ちにします。しかし大人になっても、それを少し歪んだかたちでやらなければ気が済まない人々がいます。この場合、彼らの目的は、喜びを分かち合うことではなく、力関係で上位にいることを誇示し、思い知らせることです。
長い衣は肉体労働には適しませんから、「高級な」仕事をしているという看板を背負っているようなもの。広場で挨拶されることは有名な学者である証拠だと思っているし、宴会でどうぞどうぞと上座を薦められなければ機嫌が悪くなる。こういう人々は、一時的に神さまから預かった特権ないし権力を、(上から目線で投げ与えることはあっても)必要としている人々と分かち合おうとはしません。力のない立場の筆頭である「やもめ」を「食い物に」(=利用してお金を取り上げる)し、中身もなくダラダラと祈ってみせると「さすが〇〇先生」と皆が感心すると思っている。ふつうに考えても、ただの“痛い人”ですが、困ったことに、権力だけは握っている。そして、社会的立場の弱い人々を抑圧することで、「見て見て〜」行動をしている律法学者たちを、イエスさまは人一倍厳しい裁きを受けると断言されます。
もっともイエスさまは、このような人々は「厳しい裁き」がやってきて仕返しを受けるから安心してほしいと言っているのではなく、人は少しでも力を帯びた途端に、この律法学者のように振る舞いがちであることを、弟子たちに警告しているのではないかと思います。
わたしたちの毎日の生活の中でも、身近に存在する体験かもしれません。そして残念ながら、こういう振る舞いの中にも、こういう視線の先にも、神さまの愛は存在せず、慈しみや希望もありません。自分には僅かでも力があるから、神さまはいなくてもやっていける。力を上手に使いながら、自分さえ良ければよい。そんなふうになってはいけない。諦めてはいけないと、イエスさまは心配そうにわたしたちを見つめておられます。
ひらかれている「神の国」
彼らの議論」という言葉でいきなり始まるのは、その前にファリサイ派やヘロデ党の人々、そしてサドカイ派の人まで出てきて、入れ替わり立ち替わり、イエスさまに質問をした場面がその直前にあるからです。はたして、この物語のようにまとまった時間の中で質問攻めにあったかどうかはわかりません。でも日頃から、イエスさまの言うことに居心地のわるさを感じていたであろう、ユダヤ教内のさまざまなグループの指導者たちの主張をまとめ、一括してひとつのお話にした可能性もあると思います。その流れのしめくくりが今日の福音書です。
ところでこの律法学者は「掟」と言っていますが、ユダヤ教の人々にとって最も中心的な掟は、いわゆる「十戒」です。旧約聖書の申命記(5章6節〜)と、出エジプト記(20章)に登場します。しかしイエスさまが、第一の掟として答えられた「神を愛する」話は、申命記(6章4節以下)に、そして第二の掟として「隣人を愛する」話は、レビ記(19章18節)にあります。つまり、わたしたちが当たり前に聞いている「神さまと人を愛する事が最優先」という教えは、十戒のようにまとまって成文化されたものがあるわけではなく、出エジプト記と申命記とレビ記に分散されたメッセージを、イエスさまが再編成したものとも言えるのでしょう。
それだけに、この律法学者の「神と人を愛することは供え物をするより大事です」という発言は、かなり画期的なことだったかもしれません。その学者が、自説やあるいは派閥の現状維持を第一としていたなら、このようには言わなかったでしょう。この人は支配者層であったにもかかわらず、それまでの神学以外は拒絶するという立場ではなく、真摯に神さまの前に立ち、限界や弱さを持った人間として、イエスさまに聞きます。「どうしたらもっと神さまのみ旨に添うことができるでしょうか」と。
「神と人とを愛する」ことは最上の捧げものであり、神さまがもっとも喜ばれることの一つであると、わたしたちは知っています。そして、この世的なかたちはどうであれ、このようなイエスさまの教えを受け入れ、従って生きようとする人は誰でも、「神の国」に近いのではないでしょうか。
何をしてほしいのか
わたしたちはふだん、何と祈っているでしょうか。ひょっとしたら、困ったこと、嫌なこと、痛みを覚えることを、とにかく「どけてください」とのみ祈っていないかと不安になります。もしわたしたちが、イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれても、どうなりたいかはともかく、今、困っていることを取り除いてください、それが神たるあなたの役目ではないか、と祈っているつもりになっていたら、そして、どうなりたいかについては、今はそれどころじゃないと思っていたら、それは何かが足りない祈りかもしれないと思うのです。
もちろんそれでもイエスさまは、耳を傾けてくださるとは思います。わたしたちが、何をどう願ったらよいかわからず、手当たり次第、文句や苦情や愚痴を言っていても、やがてそれらが整理され、わたしたちが道に立ち返り、確かに仰ぎ見るべき望みへと至るまで、諦めることなく、付き合ってくださることは、ちがいないですが、そこまででいいのでしょうかと疑問に思います。
その点、今日の物語に登場する男性は直球です。最初から「イエスよ、エレイソン(私を憐れめ)」と叫び続ける。お弟子さんたちは、ちょっと困ったにちがいないし、できればこの人に黙ってもらって、予定どおりの旅程をこなしたい、会うべき人に会って、早く落ち着きたい、そんな気持ちでいたにちがいないですが、イエスさまは彼を呼ぶように頼みます。
イエスさまの問いに対してこの人は、迷うことなく「目が見えるようになりたい」と答え、イエスの旅に加わったとあります。この人にとって、目が見えるようになることは、自由の獲得でした。またそれは、人々の輪から除外され、やっかい者として生きていくのではなく、自分も神さまから愛され大切にされているひとりである、という証拠でした。もはやこの人にとって、医学的に視力を取り戻したかどうかは問題ではなく、一人の人間として初めて尊重され、生きている苦痛が喜びに変わっていく瞬間でした。目が見えるようになるなら本気で祈ろう、ではなく、この人の場合は、イエスさまへの信頼がこの行動へと歩みを起こしました。望みが実現されることが「真の祈り」である証拠にはなりませんが、わたしたちもまた、本当の望みは何なのか、真剣に自ら問う必要はありそうです。
「ごほうび」を得たい
今日の聖書も、ついこの間聞いた話に似ています。もっとも以前は弟子たちが「誰が一番偉いか」と、激論を交わしていたことを恥ずかしく思い、イエスさまに何を話していたの?と聞かれて黙ってしまう姿が描かれていますが、今回はなんと「あの世では、わたしたち兄弟に、他の誰よりも高い地位をください」と、露骨にお願いしています。イエスさまがのけぞっている(あるいはガッカリ?)姿が目に浮かびます。でもイエスさまは親切にも「確かにあなたがたも、これからおきる十字架の出来事により、たいへんな苦難の道を歩くことになるだろう。その覚悟をあなたがたがしようとしているのはわかる。しかしそれと引き換えに、ごほうびが欲しいと言うのか。他者の上に君臨する、これがわたしと一緒に過ごした挙句のご褒美の中身なのか?それを保証すれば、わたしに従えると言うのか?」と諭しています。
ところで、「キリスト教に入ると、どんなご利益があるのですか」と聞いてくる人がいますが、ヤコブとヨハネのこの提案を思い出してしまいます。もちろんこの質問には、いろんな答え方があるでしょう。永遠の時の中で、この小さな「私」を、唯一無二の存在として、尊び慈しむ存在がいると信じることは、なんと素晴らしいことかと思います。それは、どんな時も最後まで私の「味方」として、生涯を一緒に歩き通してくださり、そしてどんなふうになっても見捨てない神が、最後には「骨を拾って」下さるからです。また「幸せな人生」についても明確です。それは、人それぞれに与えられた使命を全うすることであり、自分の使命と出会っている人は、他者と比較して卑屈になったり、他を羨んだりする必要がないことを心の底から信じ、進むことができるからです。
イエスさまの教えは、ギブ&テイクではなく、徹底したギブ&ギブですが、それはものを剥ぎ取られるといった物理的な話ではなく、徹底して人々に仕えることであり、その視点の先には神さまの存在があります。たとえ評価されなくても、皆から理解や賞賛を得られなくても、ご褒美がなくても、ちゃんと神さまが見守っておられることに信頼し、生きるべき人生をひたすら生きていく。そのお手本がイエスさまの生涯であり、イエスさまの答えなのではないかと思います。
ひとりじめの罪
今日の福音書に登場し、がっかりして去っていくこの人は、たぶん「いい人」なのだと思います。イエスさまに教えを乞うため、走り寄りひざまずいて尋ねていますから、イエスさまへの敬意も、「教えていただきたい」という謙虚な気持ちもあるのでしょう。しかも十戒は、「こどもの頃から守ってきました」とキッパリ答えるほど、恵まれた家庭環境に育ったようです。ところがこの人にとって、イエスさまの教えは、絶望的なものでした。「持ち物を貧しい人と分かち合いなさい」この人は、貧しくはなかったが、何らかの理由で分かち合いたくなかった、あるいはできなかったからです。
わたしたちが指定献金をしようとか、被災地を支えようと思うのは、このイエスさまの教えとも関係があると思いますが、外見では判断できないけれども、もし心の中で「余ったから」「かわいそうだから」という気持ちで何かを差し出していたら、真に分かち合ったことにはならない、と言われているのではないでしょうか。
一方、ここで言う「財産」は、お金や不動産とは限りません。食事ができること、水が飲めること、身体が動くこと、言葉が話せること、文字を読んで理解できること、医療機関にアクセスできること等々、その他ありとあらゆる、わたしたちが「当たり前」と思っている恵みがたくさんあります。しかしそれらに不足している人々と「分かち合う」のは難しい。その方法がわからないと、ついそのままになってしまいます。あるいは、自分の問題ではない、行政がなんとかすべき、と言う人もいるでしょう。
ところで、金持ちが神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に、弟子たちは驚いています。イエスさまと一緒に過ごしていても、「金持ちは神の国に近い」と思っているようです。しかし、金持ちという存在が敵なのではなく、どうも財産があると、「自分のものだから、分かち合うと減ってしまう」と思いやすい。もっと大切な恵みを見失う危険を心配されているのだと思います。
神さまからの一時的な預かりものに過ぎない恵みを「所有」している、「獲得」したと勘違いし、本末転倒となる的外れを指摘されているのでしょう。
分かち合い、それは大それたこととは限りません。気がつかれなくても、見返りは期待できなくても、心からの笑顔、小さな思いやり、困った人のための祈りなど、思いつくことから始めていきましょう。
誰も軽んじられてはならない
聖書の時代、たくさんの人々にとって今で言う「人権」の意識がかなり異なっていました。たとえばこども。労働力もあてにできない半人前ですから敬意を払う必要はなく、どんな気持ちでいるかなど、聞く価値はないとされていました。女性もまた一部の例外を除いては、父親か夫に所属する以外考えられない存在だったので、考えや意見を聞かれたり、たとえ当事者であっても証言や訴訟をしたりする権利はなく、また一般的には財産分与の対象にもなりませんでした。こどもにしても女性にしても、あるいは奴隷階層も彼らが属している「管理者」の一存により、人生が振り回されても仕方がない、というのが一般常識だったわけです。
一方、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」というイエスさまの理解は、創世記そのものよりさらに踏み込んでいます。家父長制を存続させるため「家」の一部となっていくことが婚姻ではなく、自分の家族から分かれ、1つの独立共同体を形成する、という考えは、当時の家族制度そのものを崩壊しかねないメッセージだったかもしれません。
この創世記の箇所は結婚式でも読まれますが、「神さまは男と女の2種類の人間しか造らなかった」と伝えるのが目的ではないと思います。たとえ当時の人々が、常識や慣習を絶対化しても、神さまは全く別の視点から、人間という存在を誰一人軽んじることなく受け止めておられる、それがイエスさまの一番伝えたいメッセージではないか、と思うのです。
そして、創世記の原文を読むと、以下のことがわかります。
「彼に合う助ける者」(18節)は、あたかも「アシスタント」のように長い間訳されてきましたが、補助者という意味ではなく、旧約聖書の中では、半分以上が神さまの形容詞として使われる言葉です。パートナーとなる人と出会ったとき、そこに神の力が働いて、他の人とでは見出せない自分と出会いこの人以外は誰も「助ける」ことができない、ということかもしれません。「あばら骨の一部」(21節)は、あばら骨一本をポンと取ったのではなく、あばら全体を真っ二つに分けたその片方、と書いてあります。少し奇妙な表現ですが、元々1つであったものを2つに分離させると、初めて他者との関係の中で自分を見出す、ということかもしれません。
力を帯びることの危険性
お弟子さんたちが「イエスさまのお名前を使っているけしからん団体がいましたので、勝手に使うなと禁じておきました!」と意気揚々と報告すると、必ずしも一緒に行動しないからと言って、敵対視するのは やめなさい、とイエスさまから言われてしまいます。でも、お弟子たちは良いことをしたと確信し、褒められることを期待して報告したのかもしれません。
ところが、誉められるどころか「小さな者のひとり」をつまずかせるようなことがあれば、「石臼を首に括られ海に投げ込まれる」方がまし、などと言われてしまいます。しかしながら、ウッカリ他者をつまずかせた人は誰でも彼でも、海に投げ込まれてしまえと言っているのではなく、イエスさまの力点としては「小さい者をつまずかせる」ところにあるのではないかと思います。つまり、力の差を利用した「いじめ」に近い行為について、海に投げ込む話や、手足や眼の話が登場するのではないかと思うのです。
でも、イエスさまご自身の社会的地位が、どうであったかは簡単には言えないでしょう。貧しい人に寄り添ってくださることを知っている人々からは、絶大な信頼があったでしょうが、当時の支配者階級や指導者たちからは排除されていたでしょう。そのイエスさまと行動を共にしているお弟子さんたちですから、支配者や指導者層に対して、もし彼らが「禁じておいた」なら、海に投げ込まれる話は登場しなかったかもしれません。しかしもし、お弟子たちが「イエスさまの名前を使う」ことを禁じさせても、被害をこうむることのない相手を選んでこの態度を取っていたとしたら、それは自分が優位にあることを知った上での確信犯であって、場合によってはいじめに発展する可能性のあることを、イエスさまは心配したのではないかと思います。
一人では何もしかけてこないのに、団体になった途端に吠え出すという行動は、自己保身を確保した上での、あまり誇れない行動ではないでしょうか。ことに相手が弱い立場にある人の場合、わたしたちはますます気をつける必要があります。それはその人の尊厳を守る目的もあるでしょうが、むしろわたしたち自身が、この世の権力や力関係に紛れてしまわないよう、気をつけるためでもあるのだと思います。
怖くて聞けない
皆さんもご存じのとおり、イエスさまのお弟子さんたちは、とても崇高な方々だったかというと、実はそうでもなく、聖書の中では、なかなかの情けない姿や行動を描かれてしまっています。今日の聖書でもイエスさまの語られた内容がなんだか怖く、聞きたくない知りたくないという気持ちが先行してしまった弟子たちの様子が描かれます。そして「よくわからなかったのですが」とは言わず、なんとなく聞き流してしまいました。続いて、歩きながらお弟子たちの中で何かを熱心に議論していた様子をイエスさまが知りました。何を話していたのか聞いたところ、「この中で誰が一番偉いのか」ということで熱くなっていたので、恥ずかしくなり黙ってしまった。そうするとイエスさまは幼子を抱き上げてこの幼児のような者を受け入れるのは、神さまを受け入れることになると語ります。お弟子さんたちにとっては、さらに???だったかもしれません。
当時は、幼児や子どもに人格があるとは考えられておらず、子どもに神さまが理解できるはずはない、そして神さまも子どもなど視界に入っていない、というような人間観がありました。かつては「女 子供」といった表現が日本にもあったように、社会の中で「一人前ではない」人々を作り出し、彼らの考えや意見など聞くに値しない、としていた価値観に似ています。
自分は一目置かれるに相応しい人間だと思われなかったらどうしようという不安や、イエスさまのお役に立ち、一目置かれたいという焦りが、やがて「誰が一番偉いのか」という、お弟子さんたちの中での議論になってしまったのかもしれません。
でもイエスさまは、誰が一番偉いかではなく、何かができるからではなく、どう役に立つかでもなく、どんな立派な過去があるかでもなく、徹底して「今、人を愛する」ことに生涯をかけられました。それは、何かができたり社会に貢献したりすることを「どうでもいい」と思っておられるからではなく、神さまの無条件の愛がどんなものであるか、をなんとかして伝えようとされたからです。今日の特祷に「あなたのみ心の思いを喜んで成し遂げることができますように」と祈ります。一番大事な「成し遂げる」ことの中身は、まず神さまの愛に信頼することではないでしょうか。
祈りとは自分を変える覚悟
昔、「エクソシスト」という映画がありました。少女に取り憑いた悪霊が悪さをし、家族も親戚も近所の人々も困り切って、司祭を呼びます。ところがその悪霊は、少女の身体から自分を追い出そうとする司祭の、精神的な弱みを握っていました。過去の思い出したくない傷に触れたり、どうしたらいいのか答えの出ない微妙な問題を突きつけたり、はたまた、亡くなった母親の声音まで持ち出して、なんとかして司祭の祈りをやめさせようとします。この悪霊の目的は、自分を追い出すのは無理だとあきらめさせ、これまで通り、少女の身体に安住することだったのでしょう。
今回の福音書に登場する息子の描写は、てんかんの症状のようにも見えます。父親は、息子の状態について大変心を痛めており、息子のために一生懸命なんとかしてやりたいと願っているのは本当でしょう。しかしこの父親の言動の端々から、「自分には問題がないが、問題を抱えている息子をなんとか“治して”ほしい、もしあなた(イエス)にそのような力があれば」という心中が感じられます。つまり、父親自身は変わる必要はない、しかし息子を変えてくれれば問題がなくなる、という気持ちです。
しかし、イエスさまとのやりとりの中で、変わる必要があったのは息子ではなく、父親本人でした。居心地の良い慣れ親しんだ自分自身に留まったまま、「あなたがなんとかしてください」とイエスさまにお願いしている姿勢を指摘され、この人は叫びます。「信仰のないわたしをお助けください」
お祈りはマジックでも超現象でもなく、また、イエスさまだけが持っている超能力でもありません。わたしたちが祈るとき、「どうか神さま、必要ならばわたしを変えてください」という覚悟が必要な気がするのです。厳しい言い方かもしれませんが、そうでないと、「祈る」というよりは、望む結果のため、自分の言うことを聴くよう神に要求している、という行為が「祈り」にすり替わってしまう危険があると思います。それを避けるために必要なのは、神さまに対する絶対的服従ではなく、信頼です。わたしたち一人一人の幸い以外、何も望んでおられない慈しみと愛の神を、真に信頼して祈る祈りは、変えられないものを変えていく、そんな力が秘められていると信じます。
共苦のコミュニテ
今週の福音は主イエスが、耳が聞こえず話すことのできない人を、耳が聞こえるようにし話すことができるようにしたという物語です。主イエスがなさった奇跡的な業や結果だけを見ると、わたしたちは驚いてしてしまいますが、主イエスのうちで働く神のはたらき、主イエスをそのように動かした神の力に注目することが奇跡物語においては重要です。
34節には主イエスが「天を仰いでうめき」(聖書協会共同訳)とあります。主イエスは、耳が聞こえず話すことのできない人のおもいを、その人の気持ちになって、「うめいた」のです。その人の苦しみを、一緒になって神に訴えようとした。それの行為は「共苦」と呼ぶことができるでしょう。主イエスが奇跡的な行いをするときには、いつも「共苦」されています。ここに神の働きかけが主イエスにおいて顕れています。「共苦」することから奇跡的な出来事が起こるのです。
新約聖書には、主イエスが痛み苦しむ人を見て深く憐れんだとの記述が12か所あります。(マタイ9:36他)。深く憐れむと訳された原語は、はらわたにあたる言葉です。主イエスは他者の苦に共振し、自らの内臓を打ち震わせたのです。このような主イエスの「苦しみの共有」の態度において、「共苦のコミュニティ」とでも呼ばれるべき交わりの輪が形成されていきました。それでは、わたしたちの教会はそのような主イエスの「共苦のコミュニティ」と呼べるものであるでしょうか。
人の中から出て来るものが人を汚す
言葉には出さなくても心の中で他者をののしるなど、神が不在であるかのような傲慢な態度をとったことは一度もない、と誇れる人はひょっとするといるのかもしれませんが、ここでは違うようです。別の聖書の箇所でも、イエスさまは言っておられます。身体から出る排泄物が回りをよごすのではなく、心の中のつぶやき、口から出る悪意の言葉が人を汚すと。
こういった言葉を、心の中でまた口に出して呟いたとき、わたしたちは、無意識だからしょうがないとか、ストレスを溜めるよりはいいなどと、上手な言い訳を用意しているかもしれません。でももしわたしたちが、弱さも不完全さも持った自分だ、ということを受け入れるなら、「口先でわたしを敬い、人間が作った戒めを(神の)教えとして教え、むなしくわたしをあがめる」のは矛盾しないか、そういうイエスさまの指摘なのでしょう。謙遜なようであり、法を守ることは神さまに忠実であるかのように装うが、実はみんながそうしているから、昔からの伝統があるから、というプレッシャーによるのでは、また、人がでっち上げた幻想「このように振る舞えば、神に喜ばれる」に従っておれば安全、というような自己保身が先行するのに対し、警鐘を鳴らしておられると思うのです。
「人にうしろ指を刺されない」「人にご迷惑をかけない」ことが、全てに優先する方もおられるでしょう。しかしキリスト教では、「人に」ではなく、心の中まですべてご存知の神さまの前にどうあるのか、そちらの方が大切なのだと思います。
期待を超えて働く神
「実に酷い話だ」(「酷い話」とは、先週の福音書の箇所で、イエスさまの 肉と血をいただくことで、イエスさまと共に生きることになるという話) と、多くの弟子たちが口に出して言っただけではなく、仲間うちでぼやき合い、多くがイエスさまを離れていった、そして、もはや共に歩むことはなかったと、今日の福音書は記します。肉や血を持ち出しただけで、イエスさまと決別するなんてと、「肉と血とは聖餐式のこと」とハナから知っているわ たしたちにとっては、この離別はむしろ疑問ですが、当時のユダヤ教の価値 観からすると、「血を飲む」などという表現は、到底ゆるし難いことだった のでしょう。
多くの弟子たちが離れ去ったあと、残った 12 人も去りたいかどうかとイエスさまは聞きます。のちに“鶏が鳴く前”にイエスさまを知らないと口走ったシモン・ペテロが代表して「そんなことはしない、なぜならイエスさまは神の聖者であると知っているし信じている」と答えます。この時、彼はどういうつもりで言ったのか聖書は記しておらず、勝手な想像に過ぎませんが、そんなに深く熟考しての発言だったとは思えません。
人々は、自分が期待することを実現してくれそうだと思い込むと、イエスさまのところに押しかけますが、期待はずれと見ると、「役に立たない」ので、一気に離れていく。そのさまは、まるで現代の人の流れのようでもあります。もちろん世の中には、怪しい宗教も存在しますので、おや?これは変だという違和感を感じたら、離れた方がいい場合もたくさんあると思います。しかし「期待はずれ」の中身が問題です。
自分の思い通りに動いてくれる神、自分に利益をもたらしてくれる神でなければ「期待はずれ」、ということであれば、それは自分の小さな枠の中に神を閉じ込め、ペットのように飼育しうる神、ということになってしまうのではないでしょうか。
わたしたちが信頼し、生き方について真摯に相談したい神は、あれこれと指示を与える神ではありません。また、わたしたちの想定する範囲内に納まる神でもありません。神の豊かさ広さは、無条件の「愛」ということに尽きるでしょう。そのことだけを見つめて歩みたいと思います。
神さまと共に生きる
聖餐式の中に「近づきの祈り」(祈祷書181ページ)と呼ばれるお祈りがあります。信徒であるなしにかかわらず、「なんともグロテスクな表現、なんとかならないの?」と言われることもしばしば。確かに「キリストの肉を食し、その血を飲み」という表現は唐突過ぎ、キリスト教の外から見たら、一体どういうカルト?と恐怖されるかもしれません。しかし今日の福音書(ヨハネ6:53〜59)では唐突どころか、これでもかというほど繰り返し、肉と血の話をイエスさまはなさいます。
ここまで肉と血について繰り返される理由の一つは、イエスさまの話を聞き議論していたのが、正統的ユダヤ教の指導者であると自負していた人々だったことにもあると思います。彼らにとって人として正しく生き永遠の命を保証されるのは、律法と呼ばれる旧約聖書に書かれた掟を、どれだけきちんと守れるかにかかっている、と本気で信じていました。皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、「血を食べてはならない」(レビ記17:10〜)と書かれた掟は絶対であり、そのタブー視されている掟に、イエスさまは踏み込んででも伝えたいことがあったのではないでしょうか。
また別の箇所で「死んだ者の(ための)神ではなく、生きている者の神」と言われたように、死んだ後もずっと続く「永遠の命」の保証についてここで語っているのではなく、神と共に「今」を生きること。それは繰り返しご聖体をいただくことによって、「(あなたは)いつもわたしの内におり、わたしもまたいつも(あなたの)内にいる」ことを、ぼやっとではなく、なんとなくでもなく、本当にそうなのだと、わたしたち一人一人が確信し、心に留めてほしいと求めておられるのだと思います。
聖餐式においてイエスさまは、ああよかったとホッとする「儀式」を提供されたのではなく、与えられた時間を十全に生きようとするわたしたちを支えるため、たとえその果実を実感できなくても、必ず最後の瞬間まで、神は共にいてくださることを信じて進み続けてられるよう、また、神が「共に生きておられる」ことを、目に見え、手で触ることのできるかたちとして、聖餐式を残してくださったのではないでしょうか。
聖餐式の意味
わたしが食べたものでわたしの身体はできている、これは某食品メーカーのCMだったと思います(あまり正確ではない)が、聖餐式にも当てはまるかもしれません。イエスさまがわたしたちに与えてくださった、究極のおもてなしである聖餐式ですが、そのようには思えない人にとって、パンはただの薄いウェファースであり、ワインは大して美味しくもない「食品」なのでしょう。それらの吹けば飛ぶような食品を、有難がって受ける集団は、外から見ると異様かもしれません。そしてそれをいわばカルト集団のイメージから、「洗脳」や「鵜呑み」「依存」といったことと結びつけられることがあるのかもしれません。
しかしながら、それは現代に始まったことではありませんでした。イエスさまが天に戻られたのち、直接、イエスさまと聖餐式を分かち合った弟子たちは、ことあるごとに「パンを裂」いていた様子が、使徒言行録にも登場します。ユダヤ教の過越の祭りの一部分のアクション(動作)であったとは言え、パンとワインを食する部分のみを抜き出して特化するこの「おもてなし」は、ユダヤ教内部だけではなく、外から見ても、たかがパンとワインで何をしているのか、何をそんなに大切ぶっているのか、ということだったかもしれません。聖餐式に連なる人々にとって、それはたかがパンとワインではなく、「イエスさまと共にいる」ことを実感する唯一のそして最も深い「方法」だったのだと思います。しかし一方で、聖餐式に「依存」し、パンとワインさえあずかっておれば、あとは何もしなくてよい、という考え方もありますが、わたしたち聖公会では、そのようには教えていません。
イエスさまと共に歩みたい、その生涯にならいたいと願うとき、ありとあらゆる方法で、何とか自分の道をまっすぐしたい、そして自分の弱さや情けなさに直面しても、そばに居ていただきたい、この苦しみをわかっていただきたいと感じます。イエスさまがパンとワインに宿ってわたしたちの胃袋に収まってくださるということではなく、一緒に食卓を囲み、対等の立場で理解してくださろうとする、そのしるしなのだと思います。
まことのパンをいただく
わたしたちの食生活での主食が、ご飯なのかパンなのか、あるいはうどんなのか蕎麦なのか、もはやわけがわからなくなっているところはありますが、食するとは胃袋のためというより、精神的な充足感を求める心と深く結びついているように思います。心身の健康維持のため、昔、医療断食を定期的にしていたことがあるのですが、「何か食べたい」と食卓あたりをうろうろするのは、(私の場合)最初の日だけで、それよりも「食事」という儀式がない長い一日が節目なく続く、そのことの方が、キツかったことを思い出します。
一方、「食べる」ことによってなんとかして身体と心の緊張を解こうとしていることもあるのだと思います。お腹が空いたと感じる前に必要でもない食物を、さらには美味しいとも感じずに、自動的に口に運んでしまう。しかも、気がつくと一袋全部食べてしまっていて、なんとも言えない惨敗感に打ちひしがれる。これは、自分を甘やかしてしまったという後悔もありますが、「疲れただの、苦しいだの言わずに、早く働け」と、カロリーを放り込み、アクセルをふかし続けようとする姿なのではないか、とも思うのです。高価なものを大量に食べても、そこには満たされた心はなく、胃が疲弊するだけという、なんとも寂しい現実です。
そんなわたしたちに、イエスさまは最高の食卓を残してくださいました。疲れ果て消化できない課題が澱のように溜まっているわたしたちの必要を、神さまは覚えてくださっているというメッセージが込められ、心や身体が、どんな状態であってもわたしたちを大切にしたい、受け止めたい、つまりわたしたちの幸いしか求めていない、と語りかけてくださる聖餐式です。神さまはわたしたちがたとえ忘れていても、日々「命のパン」をもって養ってくださり、それを言葉だけではなく、目で見て手で触れることのできるかたちも残して下さった。そのことを覚えながらご聖体を受けて呑み込むとき、わたしたちの心と身体全体は「神さまはわたしと共におられる」という確信が感謝に変わり、今週もう少し頑張ってみようという力を与えられるのではないでしょうか。
<説明:教会の日曜日の礼拝では、「聖餐式」と呼ばれる、信徒の皆さんがパン(と言っても薄いウェファースのようなもの)と、葡萄酒をいただく式を行います。洗礼を受けていない方々には、パンと葡萄酒ではなく、頭に手を置いて祝福のお祈りをさせていただきます。>
見当ちがいの中で迷う
お祈りをしようと座って目を閉じても、なんだか身も心もざわざわして、何を祈ったらよいのか心が定まらないときがあります。何が正しいのかと考えているうちに心が散漫になり、日常の些末な出来事を振り返ってみたりします。時には、未解決の課題をあれこれ持ち出し、過去の自分の失敗を必要もないのに掘り下げて、身動きできなくなったりもします。
今日の福音書(マルコ6:45〜)の、何をしようとしているのかよくわからないお弟子さんたちの行動は、自分自身の祈りを思い出させます。これから日が暮れるというのに、イエスさまを残して湖に舟を漕ぎ出し、逆風の中むやみやたらに漕ぎまくるけれども、結局は立ち往生。そこへ、イエスさまが心配して近づくと幽霊だと怯える。そして「パンの出来事(この直前の物語)を理解せず、心が鈍くなっていた」とあるように、お弟子さんたちは、何をすべきかよくわかっておらず、善意かもしれないが、見当ちがいの行動を一生懸命していた、と聖書は記します。
わたしたちは祈るとき、このような見当ちがいをしているのかもしれないと思うのです。「そうだ!祈ろう」と、にわかに思いついて舟を漕ぎ出し、でもどっちに行ったらいいのか見失う。そして、努力はしないわけではないが気がついたら逆風の中。しかし、どうやってそこから脱すればよいのかもわからない。心配したイエスさまが近づいてきてくださっても、イエスさまだとは認識できず、むしろ怯える。
祈りは、「祈らなければならない」というものではなく、人間に与えられた特権だと思うのです。どの宗教でも祈るという営みはあるし、一方、どんな宗教とも関わりたくないと思っている人でも、困ったときや切羽詰まる状況では、自然と祈ってしまうものだと思います。
見当ちがいの方向に向かい、自分だけでなんとか解決しようと意地を張る、そんな「逆風の中を虚しく漕いでいる」ようなわたしたちのところに、イエスさまはまっすぐに近づき、舟に乗り込んでさえくださる。それは、わたしたちが獲得した能力なのではなく、ひたすら一歩的に与えられる恵みなのでしょう。わたしたちに出来ることは、やって来られるイエスさまを、お迎えすることだけなのだと思います。
聖餐式の奇跡
イエスさまは5千人以上の人々を養った。この物語はすべての福音書に登場しますが、マルコでは、イエスさまのお話を聞こうとついて来ている人々が行き倒れたり、暴動がおこしたりすることを防ごうとするお弟子たちが、気をきかせて解散をすすめている様子からスタートします。
確かに人が生きていくためにはまず衣食住が必要。「心の充足」などむしろ贅沢なことだとする考えもあります。お弟子さんたちの言葉から、「いつもまでも人のお世話ばかりしていられない。実際、おなかがすいている人々の優先課題は、まずパンだろう」と言っているような気もします。
わたしたちが毎週捧げている聖餐式の原型は、いわゆる「最後の晩餐」です。イエスさまがお弟子たちと、ユダヤ教の「過越の祭」としての食事を一緒にされた出来事だったと言われていますが、そこでは、十字架上で犠牲となるイエスさまと、食事のために屠られた羊が重なります。そして、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と、イエスさまからわたしたちは言われていますが、具体的にどうすることが「記念する」ことになるのか。その答えが、この物語にあるのではないかと思うのです。
イエスさまは、パンと魚を手にとり「天を仰いで賛美の祈りをとなえ、パンを裂いて〜配らせ」た。これは、聖餐式そのものです。大した資金も人手もなく、世の中に痛みと苦悩と不足ばかりが見えるとき、わたしたちは気落ちし、どうせ何もできないと絶望しかけます。しかし、持っているものすべてを神さまの前に差し出す。差し出す内容は、具体的/象徴的両方かもしれませんが、いずれにせよ、考えもしなかった展開を迎える。それは今で言うクラウドファンディングかもしれないし、趣旨に心底賛同する人が手を挙げることかもしれない。そのすべてを包括している聖餐式は、イエスさまが招いてくださる最高最大の歓迎式でありお別れ会であり、そして何よりもおもてなしです。心と魂が感謝で満腹になる最高の食卓です。その大きな恵みをいただくわたしたちは、人々の間でその愛と恵を分かち合うとき、あり得ない程たくさんの人々の疲弊した心を癒し、前へ進む活力をもたらすはずです。それが奇跡でなくて何でしょうか。それを信じて、今日も5つのパンを差し出していきたいと思います。
ありのままで従う
40数年前、聖公会神学院の2年生には、臨床牧会訓練というプログラムがありました。それは、約1ヶ月に渡り、来る日も来る日も入院患者さんを訪問し、お話を聞く。途中、たまに医師や看護師などのレクチャーも入りますが、とにかく訪問した時の会話を逐語録にまとめ、それをグループディスカッションの中で、他の参加者から滅茶滅茶に叩かれる(と感じた神学生も多かった)というものです。
そうなると人間、自己防衛に固執します。なんとかして人から突っ込まれないよう、落ち度のないよう、考察まで完璧にしようと、自信満々の会話逐語録を報告するようになります。でもそうすればするほど、「自分第一」がはっきりと透けて見え、頑張れば頑張るほど、弱さが露呈する、そんな悪夢のような訓練でした。向き合いたくなかった自分の歴史、思い出したくない傷、そして自分の足元を見ると「上げ底」以外の何ものでもなかった真の姿が明確になる。しかし、傷に苦しみ、怒りと悲しみに喘いでいる人の傍に立つには、まず自分の傷を受け止める必要がある、それを思い知らされた期間でした。
自分の弱さを認められるようになるのは、諦めではなく成長です。知識を開陳すると歓迎されることもありますが、単に理論武装で壁を作っている場合もあります。完璧を目指せば目指すほど、完璧でない自分は赦せなくなり、存在の価値を疑います。
そんなわたしたちにイエスさまは、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持た」なくてよい、と命じられる。その意味は、「あなたが生きていることは、わたしが命じたからだ。あなたは、もうそのままで大丈夫だ。自分の付加価値を探してウロウロする必要はない。あなたのそのままが、すでに尊い真価なのだ」とおっしゃっているように思うのです。自分の身を守るための最大限の必要は満たしても、本当に神さまが守ってくださるのかどうか不安になるのではなく、不安に駆られて鎧を身につけ、兜を被り剣を手にして身動きできなくなるのではなく、神さまに信頼し、その姿こそが人を変え、状況を変えていく力となるのではないでしょうか。
弱さとつまずき
生まれる前から教会の礼拝に出席していると、教会に行っても親戚のおじさんおばさんに囲まれているような気分になります。それは親しんだ環境ではあるものの、折あるごとに「あの頃はおしめをしていた」など、理由もないのに、わざと笑いの種にすることによって、「よく知っている」感を強調される感じ。話の中身は違えども今日の福音書で、イエスさまに対し「石切り労働者なのに」「(父親がわからない)マリアの息子なのに」「兄弟姉妹は極めて平凡なのに」とつぶやく人々と重なる気がします。偉そうなことを言っているけれど、おまえのことなど小さいときから知っている、大したことはないんだと言いたがる人々です。
当時と今の「石切り工」や「シングルマザー」の立場は違うかもしれません。でもこの話の共通点は、こんなもんだと決めつけていたこどもが、いつのまにか変遷し、自分の知らない世界を持っている、それが不安の原因になります。なんとかして不安を払拭するために「自分の知っている昔の」イエス坊やへ引き摺り下ろさずにはいられない。それを聖書は「人々はつまずいた」と記します。自分を変えないで済むために、知らないこと、理解できないこと、わからないことを否定する、その弱さを指しているのでしょう。
これまでの経験や蓄えた知識が脅かされるときも、この弱さが発動するように思います。イエスさまを拒んだユダヤ教の指導者層、ここに登場する故郷の人々も、イエスさまの言動によって、今まで守ってきた何かを壊される不安を感じたのでしょう。そしてイエスさまの伝えようとされている中身よりも、まずこれまで守ってきたものにすがりつく。今保っている安心な日常を変えたくない、それを最優先させたのだと思います。
イエスさまによる「よい知らせ」は、わたしたちを今まで行ったことのない世界へと導きますので、ワクワクするような冒険とは限らず、不安や迷いでいっぱいになることもあるでしょう。不安になること自体がわるいのではなく、その不安の処理の仕方の問題なのだと思います。他を貶めるのではなく、逃げ出すのでもなく、たとえスッキリとした結論が出なくても、神さまの真意の前に立とうとすることができますように。
神の手の中にある
この手の奇跡の物語は、なかなか素直には読めないときがあります。人が亡くなることそのものが、果たして「避けるべき悪」なのかどうかという疑問、そしてイエスさまに生き返らせていただいても、必ずいつかは亡くなる。そうするともう一度、別離の痛みと悲しみをやり直す体験も待っている。イエスさまがおられたから甦ったのであって、立ち会うことの叶わなかった人々、戦乱や飢餓によりこの瞬間も命を奪われている人々は、この物語をどう理解すれば良いのか。そんなふうに考えると、死から命へと戻された、この特異な少女の物語を、「良い知らせ」として、わたしたちがどのように受け止め得るのか、難しいと思ってしまいます。
しかしながら、この物語はそもそも「イエスさまのスーパーパワーが効いて、少女が蘇ったというありがたいお話」ではない、という気もしています。わたしたちは大切な人を送ったとき、そうでない場合もありますが、「ああするべきだった」「自分がこうしていたら結果が違っていたのに」「自分が足りないせいで死なせてしまった」という自分を責める声に繰り返し悩まされることがあります。一見、亡くなった人を想う気持ちが、そうさせるということなのでしょうが、この声の危険なところは「命の時間を私は変えることができたかもしれないのにそうできなかった」という想いへの誘惑です。
戦乱の中にある国々の人々は医療へのアクセスも難しく、栄養の行き届かない状況の中では寿命が短い、という現実は確かにあります。しかし、「寿命が長いことが善」「死ぬのは避けるべき悪」というこの世の常識に縛られて生きる必要はない、というイエスさまからのメッセージなのかもしれないと思います。もちろんお別れは辛いし悲しい。それでも、失ったものではなく、預かっているたくさんのものを、明確に認識できるようなわたしたちでありたいと思います。自分自身の命も、親しい方々の命も、そして遠い国で苦悩する命も、身近で深い悲しみから抜け出せない状況にある人々の命も、世の常識を超えて、神の手の中にある。その真実を忘れないでいたいと思う次第です。
目に見えるしるし
ゲラサ(ガダラ)という町にある墓場に住み、自分の身体や心を石で傷つける。山々にこだまするような恐ろしい声で叫び続け、人々が彼の手足をしばって押さえつけようとしても、じきにくさりをちぎり、町の中や外を歩き回る。その情景を想像するだけで、この人の心の痛みが伝わってくるようです。人々を物理的に傷つけたとは聖書の中に書いていませんが、町の人々は彼を持て余し、活かすでも殺すでもなく、その生命が尽きるまで縛り付けておく、そしてかかわらない。そんな対処の仕方だったことが想像できます。どうしたらいいのか途方に暮れていたことでしょう。
一方、その人にとってはどうだったでしょうか。何らかの理由で人とのコミュニケーションスキルを失ったのかもしれないし、町の人々の扱いに傷つき、言葉を用いることを諦めていた可能もありますが、イエスさまに叫ぶことはできたようです。わざわざ遠くからイエスさまに走り寄り、「おまえは関係ないだろう。神の子イエスよ、わたしを苦しめないでくれ」と大声で叫びます。次の展開で、そうなった理由がわかるのですが、イエスさまはその人と目を合わす前に、彼の中に居る「汚れた霊」に対し、出ていくよう、すでに言っていたからです。そして「主があなたの苦しみをわかってくださったことを他の人に知らせてやりなさい」と伝えます。
なぜ大量の豚を死なせる必要があったのかという疑問は残ります。カトリック教会には、エクソシスト(悪魔祓い)という専門的なお役目がありますが、人間と同様、霊や悪霊にも人格のようなものがあり、また感情もあるようです。彼に取り憑いていたレギオン(軍団)たる悪霊たちは、イエスさまに対抗できないことを悟りつつも、持って行き場のない怒りを持て余します。せっかく得た安住の地(取り憑かれた人)を失い、その人を使って実行しようとした計画を破壊され、行き場のない激怒を向ける矛先として、2千匹の豚の群れを溺死させることに出ました。可哀想ではありますが、そこは豚を食べないユダヤ教文化ではやや冷たいあしらい、豚は飼っておく必要のない動物です。たくさんの収入を生む2千匹の豚よりも、あなたの方が大切というメッセージも、イエスさまは伝えたかったのではないでしょうか。
神の国となるからしだね
「からし種は小さい」という話はよく耳にします。聞くところによると、「種」という印象よりは、「粉」に近いと人は言います。手のひらに載せると、わずかな風が吹いてもあっさり飛び散ってしまう。その形態からすると、いのちが秘められているようには見えず、そして大きな力が潜んでいるようにも見えない。しかしあえて、このからし種が「神の国」のたとえとして用いられていることに、意味があるのでしょう。
まずここでいう神の国ですが、いわゆる亡くなってから行く場所(天国)のことではないと思います。というのは、種を植え、成長したのちは、野菜として収穫するようなイメージが描かれているからです。つまりわたしたちが今、生きている現代という地上に、神の国という野菜を収穫する話ではないかと思うのです。では一体、神の国とは何か。ひとつは、目に見える力に過剰に寄り頼む重圧からの解放された世界でしょう。全然なくても困りますが、まずお金。そして権力、社会での優位性、他人からの期待。これらを得ることに必死になり、これらを得ようとしない人はさらに生きにくくなる。こんな現状の中、種を植えて「神の国」の収穫を待つ。先が見えないだけに、なかなかハードルは高いです。想定した実りが得られないことが続くと、神の力に信頼するより、何が間違っていたのかと振り返りはじめてしまうかもしれません。
種の外側からは見えなくても、その中に命や力が秘められていることを信じるのは第一歩なのでしょう。しかし人間の勝手な思いにより、深く埋めすぎても芽は出ず、水をやり過ぎれば根を腐らしてしまう。太陽の光は不可欠ですが、日照時間が多すぎても枯れてしまう。こちらのやりたい作業を実行して、それを種に押し付けるのではなく、神の計画は何なのか、この種はどうなりたいと思っているか、思い巡らすことは、想像以上に難しいのかもしれません。
月島聖公会の教会報のタイトルは「からしだね」です。種に力と命を与えて下さった神に、本当の意味で信頼するとはどういうことか、これからも探し求めていきたいと思います。
ゆるされない間違い
初めてこの箇所を読んだときはギョッとしました。父なる神でもイエスさまでもない「聖霊なる神」を、知らないうちに「冒瀆」(ボウトク)していたら、どうなるのかと。それにしても、三位一体の「聖霊なる神」は、人々の間にまだ下ってきてはいないのではなかったかと。
ものの本によると、あの膨大な旧約聖書の中では、イザヤ書に2回だけ「聖霊」に相当する言葉が出てくるとのこと(新約聖書は93回)。しかも元々、風や空気振動を表す言葉だったのに、人間の息や命をも指すようになり、やがて霊魂や神の霊を意味するようになっていったということです。しかも、神ご自身を意味しているのか、それとも神の働きの一部なのかも不明確。同じ「霊」でも、良い行いをする場面がある一方、「サウル王が霊の働きによってご乱心」という記事があるように、霊を神と一体化した絶対神聖なもの、という意味では使っていなかったかもしれません。これが新約聖書になると、超自然的なこと、そして「病」との関係で、「霊」の存在がぐっと出現してくるように思います。
今日の福音書に登場する群衆や身内、そして律法学者たちは、聖霊なる神がどうこうではなく、イエスさまの行状や教えを見聞きして「気が狂っている」「悪霊の力で、人々を癒しているので取り押さえねば」という判断をしています。悪霊の力を使って悪事を働いているのなら、ぜひ取り押さえていただきたいですが、ポイントはそこではないように思います。つまり、彼らにとってのイエスさまは、権威を失墜させる存在。彼らの主張とは異なる視点を持ち込んでくる脅威。情報や知識にアクセスできないたくさんの人々を作り、その状況を強化することで、揺るぎない「正しさ」を保管しようとしてきた彼らの中には、謙虚さや神の前に立っているという畏敬の念はまるでありません。自分たちを「神」の座に置き換え、他の主張は全て間違いという主張に対し、「永遠に赦されない」と言われているのではないでしょうか。イエスさまの教えがどう間違っているか議論しようというのではなく、「あの人は頭がおかしい」というスタンスで、自らを絶対化し、他を裁いていくこと。これに対して警鐘が鳴らされているのだと思います。
何のためか考える
むかしむかしある修道院では、1日7回の礼拝が捧げられていました。美しい讃美歌と荘厳なお祈り、修道士たちの捧げる礼拝は、とても美しいものでした。ところがある日、修道院に1匹の子猫が迷い込みます。やがて子猫は、修道士たちに慣れ、どこへでもついてきます。食堂や作業小屋、そして礼拝堂も一緒です。お祈りの間は、ゆったりと毛繕いをしたり、聖歌に合わせてみゃあと鳴いたり、みんなもそんな子猫を見て微笑みました。しかし、成長して鳴き声も図体も態度も大きくなった猫は、今度は「礼拝の邪魔になる」と言われ始め、礼拝前にその猫を玄関外に繋ぐことにしたのです。この修道院では、猫が玄関外に繋いであることで「礼拝中」のサインとなり、皆もそれに慣れました。年月が過ぎ、猫を繋ぎ始めた経緯を知らない人も増え、やがて猫も天寿を全うし、繋ぐ必要もなくなりました。しかし「礼拝時間に、猫が繋がれていない」ことに動揺した人々は、今度は「繋ぐための猫」を探しに出かけたということです。
今日の福音書では、麦の穂を摘むお弟子たちを見て、ファリサイ派の人々が非難をします。それは、他人の畑の麦の穂を盗んだからではなく、安息日、つまり神さまの日なのに「麦の穂を摘むという労働をした」ことがルール違反だ、という主張です。なんのために安息日のルールが定められたか、ということは忘れてしまい、マスク警察ならぬ「労働警察」をしているファリサイ人です。ルールを守れることが正義で、何のためのルールだったのかを忘れ、込められたメッセージの核心には興味がない。繋ぐ猫がいない、と動揺する修道士たちの滑稽さを笑ってはいられません。
笑い話のような猫の話も、ファリサイ派の人々の滑稽さも、他人事ではないかもしれません。かたちを踏襲さえしていれば安心という気持ちが、わたしたちの中にもあるからです。何のために今日の命を与えられているのか、どうして今日人々と出会っているのか、そこには神さまにとっての必然があるはずです。たとえすぐには理解や納得ができなくても、わたしたちのすべての言動を、振り返ってみる必要があるのではないか。自分の心の安定に留まるのではなく、イエスさまの愛と慈しみから出発している今日というかけがえのない時間を十分に生きることができますように。
「自分で生きていける」ニコデモ
ニコデモというユダヤ人社会の指導者であり、議員でもあった人は、どうしてもイエスさまに直接会ってお聞きしたいことがあったのでしょう、人目につかない夜を選び、会いに出かけます。
皆さんもご存知のとおり、イエスさまはユダヤ教の「本流ではない」というより、むしろ「異端者」と見なされていた時代です。そんなとき、イエスさまの言動が気になる、ひょっとしたら新しいタイプの預言者かも、いろいろと議論をしたい、お聞きしたい、と思っても、指導者たる者がそんなことを提案しては、全体の秩序が乱れることが目に見えていました。それは忖度ということではなく、ニコデモの立場の人がイエスさまに接近したことを皆が知ったら、思いがけず「それも良い」ということになってしまうかもしれない、そんなことを心配したのかもしれません。
ニコデモとイエスさまの議論は、「新たに生まれる」ことを軸に展開していきますが、ニコデモはあくまでも「母の胎内から生まれる」以外のイメージを持つことができないでいます。それは、ニコデモの立場から来る固執もあるかもしれません。しかしそれは、どんなに組織の中で立派な位置にある人々も、イエスさまが日頃接している貧しく、まるで存在しないかのように扱われている人々も、神さまの前には全く等しいのだと。「愛され大切にされ慈しみ」を受けるに相応しい存在なのだということが、どうしても納得できないニコデモの姿勢が浮き彫りとなっていきます。
そういう意味では、地位や名誉や財産を持っていて、それらを守ろうと必死になっている人よりも、何もかも失った人、最初から何も持たない人の方が、神さまの愛を受け入れやすいのは仕方がないことかもしれません。
「独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得る」つまり、イエスさまの教えを信じることこそが永遠の命へと至ると、明確に伝えています。しかし、そのシンプルな良い知らせは、ニコデモのような人には伝わりにくい。それは、何もかも失った人と自分は違う、そんなことに頼らなくても自分で生きていけると思っているからです。わたしたちの中には、ニコデモとそうではない人とが同居しているかもしれませんが、どちらの声を聞くことにするのかは、わたしたちに委ねられているのではないでしょうか。
「聖霊」がわからない、、時もある
この世を創造された「父なる神」はわかる。2千年前に、神でありながら完全な人としてこの世に降り、人々の間で生きた「子なる神」イエスさまも、わかる。でも、「聖霊なる神」となるとピンとこない。果たして必要なのか、父なる神とイエスさまで十分じゃないか、こんな声も耳にします。
今日の福音書は復活節第5主日に聞いたばかりなので、聖霊なる神についてはもう2回も聞いた、いまだにわからないけれど、こんなもんだろうと深追いせず、季節の節目としての聖霊降臨日をお祝いすることで、満足してしまっているのかもしれません。
にわかに「聖霊なる神を理解した」となるのも、怪しいかもしれませんが、ひょっとすると「客観的に納得したい」という気持ちが、わたしたちに先行し過ぎているのかもしれません。「理性」を一つの特徴としている聖公会ですから、それもわるくはないのですが、きちんと説明がつかないと気持ちがわるいというだけではなく、どのように聖霊なる神が私の毎日の生活に役に立つのか、利益があるのかないのか、というあたりで「納得」しようとしていたら、それは少し「理解する」こととは違うと思います。
ところでイエスさまは、今日の福音書の中でわかりやすいネーミングをしています。聖霊なる神を「弁護者」(「協力者」という訳もあります)「真理の霊」と呼ばれました。まもなく地上を離れ、肉体を持った人間としては、一緒にいられないご自分の代わりとしての存在、人々と永遠に一緒にいてくださる存在として、聖霊なる神を送ると言われました。その存在は、孤高から神の価値観を基として、人類を裁いたり評価するために居るのではなく、わたしたちの側に立ち、神の栄光が地上に現れるために、人々の間に神の愛が広がるために、真理を分かりやすく示し、共に協働する存在、ということなのでしょう。
わたしたちは、そんな聖霊の働きを邪魔しないためにどう生きるのか、思い込みと偏見を拭いつつ、なんのために神がこの地に教会を立て、何を伝えるよう促されておられるのか、聖霊降臨日が「教会の誕生日」と呼ばれることとともに、思い巡らしましょう。
彼らを守ってください
ここで言う「彼ら」とは誰のことか、という疑問が浮かびます。聖書の流れとしては、十字架はまだこれから。弟子たちに対して直接にたっぷり語ったのち、今度は、天を仰ぎ、弟子たちの前で、父なる神に向かって祈られた言葉です。一見すると、「彼ら」とは、弟子たちを指しているようにも思えますが、「世は彼らを憎みました」「彼らを〜悪い者から守って下さる」「真理によってささげられた者」と続くと、「それは、まだこれからなのに」と感じるのは、私だけでしょうか。
弟子たちが世間から本格的に「憎まれる」のも、「悪い者」が皇帝やユダヤ宗教者の支配階級を指すのだとしたら本当の迫害も、そして、イエスさまの言葉の意味を、弟子たちが本当に理解し、みことばを伝えるために遣わされていくのも、まだあとのことだと思うからです。それらすべてを、既成事実のように表現されるということは、すでに世から憎まれ、今すぐにでも抑圧者から守られる必要があり、そして人々の目には隠されているが、真実を生きざるを得ない人々、つまり弟子ではなく、当時のもっとも抑圧された人々を「彼ら」と言っているのではないかと思うのです。
つまり、最も身近にいて行動を共にし、苦楽を分かち合った弟子たちを、身内感覚でもって「守ってください」と父なる神に頼んでおられるのではなく、イエスさまが最も心を砕いた、当時の世界では顧みられなかった底辺の人々のことを「彼ら」と呼び、守って下さるようお願いしているのではないかと思うのです。実際の「彼ら」の中には、体制におもねり、仲間を裏切り、利権をむさぼるような者もいたことでしょう。しかし自分の努力や力ではどうすることもできなかった階級社会の中で、底辺に生きざるを得ない人々と共に有ろうとしたイエスさまは、「そこへ行木、一緒に立とう」と、弟子たちを励まされたに違いないのです。
「彼らを守ってください」これは、わたしたちへのイエスさまからの呼びかけでもあり、わたしたちの祈りでもあります。彼らを守ろうとする神さまの働きに手を添えるため、わたしたちは何をしていきましょうか。祈りつつ、来週の聖霊降臨日を迎えたいと思います。
愛の存在を信じる
美しい言葉を思いつかなくても、気の利いたことをしてくれなくても、その人から自分を大切にしている気持ちが溢れてきて、心も魂も温まる。何もしてくれなくても、その人がそこにいるだけで、なんだか心の中があたたかくなる、そんなことを感じられたら、なんと幸せなことでしょう。
もっとも社会一般では、そのような目に見えない力については、存在しないものだ、価値がないのだとする風潮もあります。役に立つ、なんでも同意する、耳が痛いことは言わない、そんな人のことを「あの人はいい人だ」と言っている声を聞くと、何だか残念な気がします。大切にしているからではなく、「都合がいい」から、いい人だと言っているに過ぎないからです。
昔、ある大学でチャプレンをしていたとき、「親が自分の言動について注意してくる、私は嫌われている」と悩んでいた学生がいました。親御さんのモノの言い方にも問題があったのかもしれませんが、この学生は褒められることが愛されることの証であり、批判やダメ出しは悪意の表現だと思っていたのです。どうして彼女がそう思うに至ったかは忘れましたが、相手を大切にしようとするとき、快適で耳障りの良いことばかり並べていては、伝わらないこともあります。相手に嫌われても、また誤解されても、聞きたくないことも伝えねばならないというときもあるでしょう。
そして「愛」の最大の特徴は、見返りを求めないことです。相手から感謝される、認められることも、時には「見返り」に相当します。誰でも感謝されれば嬉しいですが、もし喜ばれなかったことに腹を立てるなら、それは「感謝される」という見返りを期待していないかどうか、自分に聞いてみる必要があります。「愛」に生きることは、「よい子」「理想の人」という評価を得ることを求めていては、なかなか見えてこない到達点かもしれません。しかし、ひたすら神さまのみ旨を探し求めること、それはすなわち、イエスさまが教えてくださった愛に信頼する生き方を選ぶことです。そうしていれば、自然に自分を大切にし、人々を大切にする生き方へと至るのだと、イエスさまは言っておられるのではないでしょうか。
いちばん大事なこと
早いもので、イースターから数えてもう5回目の復活節を迎えました。この5週間、復活されたイエスさまは、繰り返し弟子たちのところに現れ、十字架の出来事は敗退と絶望ではなく、神さまの愛を伝える道が、まっすぐに備えられた、そのことに信頼するように、と語ります。イエスさまとの再会を果たし、さらに短い3年間の活動中、聞いていたのに悟ることのなかった弟子たちが「愛」の本質を理解できるようになると、もうそろそろ本当のお別れのときが迫っています。
来週には、昇天日(今年は5月9日)を迎えます。復活して肉体を持ち弟子たちと一緒に過ごしたイエスさまは、天に戻っていきますが、別れの前に繰り返し語られる内容は、「神の愛」についてであり、イエスさまが言われる「掟」の内容でもあります。イエスさまの語られる「掟」(愛)はあまりにも大きく、執着や愛着、あるいは情熱といったカテゴリーをとっくに超えていて、さらにはそれこそ把握しきれないほど豊かで遠大なものであることを実感として知ると、いったいどうしたら「愛に生きる」ことになるのか、途方に暮れる気持ちにもなります。
実践不可能な気持ちにもなりますが、しかしそれを自分一人で取り組まなくてよい、ちゃんと「弁護者」(「協力者」「聖霊なる神」ととらえることもある)を、あなたのために遣わすからと約束されます。愛に生きることは、「協力者」がいてくれても、決して簡単な道のりではないですが、それでも愛に生きるよう、招かれているわたしたちです。
神さまは、自分が祭り上げられることは望まず、ひたすらわたしたちの幸いを求める方。わたしたちが救いに至り、人生を取り戻す様子を見て、それだけで満足する神です。わたしたちが不自然に自分を曲げ、社会規範の「よい子」「理想の人」になってみせることが必要なのではなく、愛に生きる地味な努力をひたすら積み重ねることこそが、大切だと思うのです。この地味な努力を重ねることにより、わたしたちは、神の中で生かされていること、神は今もわたしたちの内で働かれていること、を少しずつ見い出していくのではないでしょうか。
あなたをまもる
イエスさまは、ご自分と人々との関係を、羊飼いと羊に例えました。今日はまず、イエスさまの時代の羊と羊飼いについて思い起こしたいと思います。
羊は反芻動物。草、樹皮、木の芽、花を食べ、聴力に優れ、視力も周辺視野270–320°あり、頭を動かさずに自分の後を見ることができることから、背後の危険も察知します。また、人間や他の羊の顔を何年も記憶でき、顔の表情から、心理状態を識別する知能もあるとのこと。毛の色は、白に始まり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色、斑模様など、さまざまです。ところで、危険察知の能力には長けているのですが、気が動転しやすく、群全体が一気にパニックになることも。そうなってしまうと、初心者の手にはおえず、危険行動を止めることも難しいようです。ひとことで言うなら、臆病で、頑固で、自分勝手。
一方、羊飼いです。聖書の中で、「油注がれる」前のダビデが羊の群れの番をしていた、という記述があるように、こどもや老人など「お留守ばん」的な仕事から、何百という大きな群れを管理する場合までさまざまでしたが、いずれにせよ、古く(紀元前3000年頃〜)からある仕事の一つでした。羊は家畜ですが、小屋の中で飼うことはできず、常に牧草地へと移動するので、羊飼いも常に移動を強いられる宿命。しかしその存在は、人間が生きていくための生命線なのに、「いなくても大丈夫」とみなされ、共同体の中では軽視され、いつ来ていつ去っていくのか誰も関心がない余所者、というポジションです。
今日の福音書では、狼に羊を奪われても他人の財産だから適当にやればよい、個々の羊には関心がないというスタンスの「雇われ羊飼い」と、羊を守るために命まで捨てる「良い羊飼い」との対比が描かれます。通常、羊は自分の羊飼いを選べませんが、良い羊飼いは、個々の羊を熟知し、声を聞き分ける、そして羊も自分の意志でその声に従っていきます。またイエスさまは、「囲いに入っていないほかの羊」のためにも命を投げ出す、と言っておられます。
羊は私有財産であり生活のためには不可欠、だから守らなければならない、という主張ではなく、羊は臆病で、頑固で、自分勝手だが、それを受け止め理解している本物の羊飼いであるイエスさまは、何があっても命がけで羊を守り、そしてイエスさまと羊のつながりは、どんな力でも破壊することができない。そんな神さまの意志を、なんとかして伝えようとされているのではないでしょうか。
わかってほしい
イエスさまの逮捕と十字架の出来事は、弟子たちにとって、考え得る限りの「最悪」でした。裏切りと嘘、そして信仰の薄さと自己保身が露呈しました。それは見たくなかった己の弱さが明るみで出たこと。我こそはイエスさまに従っている、と思い込んでいたのは、イエスさまの威を借り、あたかも「イエスさまのようになった」気分を味わっていただけだった、何もわかっていなかった。神さまは本当におられるのだろうか、と思っていたかもしれません。対人関係なら、危機に瀕した時に慌てて逃げるような友だちは、二度と信用されないでしょうし、信用を失った側としては、いったいどんな顔をしてお詫びを言ったらいいのか、亡くなったイエスさまの魂の平安を祈る言葉さえ浮かばない、そんな状態だったのだと思います。
そんなどん詰まりでしたが、意気消沈している弟子たちを励ますために、イエスさまはよみがえった後、何度も彼らに現れます。弟子たちの不甲斐なさに小言を言うでもなく、裏切ったことを怒るでもなく、ただ「うろたえる必要はない、わたしはよみがえったのだから」と、一生懸命知らせます。まず謝罪する、まず懺悔する、などしか思い浮かばなかった弟子たちは大混乱したことでしょう。
十字架の出来事は「失敗」だったのではなく、成し遂げられた「完成」の出来事なのだと、イエスさまは教えてくださいます。十字架が失敗でなかったことをまだ信じられない弟子たちのために、その後もイエスさまは何回も現れて、そして肉も骨も伴って復活した実感を弟子たちに感じてもらうため、傷を触りなさいとまで言います。まだ不思議がっている弟子たちの目の前で、魚までバリバリと召し上がります。イエスさまは、難しい解釈や、神学議論でわかるように説得しようとしているのではなく、わたしたちが「信じる」ためなら、何でもする姿です。それは理屈ではない、科学的説明でもない、どんなに神さまがわたしたち一人一人を気にかけていらっしゃるか、そのことだけを受け取ってほしい、という姿です。
地位や名誉や権力によって、神の国を実現するのではなく、わたしたち一人ひとりが神さまの愛を受け入れ、今度はわたしたち自身が、神さまの愛を分かち合う人間に変えられていくことが神の国の実現に他ならないのです。イエスさまに再度出会い、別人のように変わっていった弟子たちが「証人」として派遣されていくように、わたしたちもまた、愛を伝える証人としてこの世に遣わされています。
シャローム
明らかに息を引き取られたイエスさまが、再び肉体をもって「復活された」。それがどういうことなのか、わたしたちの理解と想像を超えます。家の扉という扉、窓という窓すべてに鍵をかけ、ローマ兵士の足音を恐れ、同胞のユダヤ人たちに見つかることを恐れ、息をころして潜伏していた弟子たち。身が安全ではなかったことに加え、生きる理由のすべてだったイエスさまを殺されてしまい、何をしたらいいのかわからない、茫然自失という言葉がぴったりの状態だったに違いないのです。しかしそれだけではありません。イエスさまが仲間を一番必要としている時に、裏切り見捨てて逃げた、という恐ろしい事実がありました。イエスさまがたとえ神の子であっても、背負いきれない重さで呪うだろう、決して赦してはもらえないだろう、生きてはいられないだろう。罪悪感という言葉では表現しきれない重圧に押し潰されていた弟子たちですが、まるで昨日まで一緒にいたかのように、イエスさまが「シャローム」と言って家の中に入ってきます。
まるでサプライズパーティのようでもありますが、呆然としている弟子たちに、イエスさまは釘打たれた傷跡や、槍で突かれた脇腹などを触らせてまで、本人であることをわかってもらおうとします。いつもと変わらないイエスさまの態度に、弟子たちはどうこの事態を受け止めたらいいのか、最初は混乱したことでしょう。
しかしイエスさまは、弟子たちの弱さを指摘するでもなく、嘘までついて保身を図ろうとしたことを非難するでもなく、「信じなさい」とだけ言われる。それは、何かを鵜呑みにする信心ではなく、裏切っても弱さが露呈しても逃げ出しても、神さまは変わることなくあなたを大切にする、愛しておられる。それを「信じなさい」というメッセージだったのだと思います。さらにイエスさまは、この不甲斐ない弟子たちに、大切な役割を委託します。聖霊を受けて、罪を赦す権限を預かり、そして人々の間に遣わされ、主による平和を宣べ伝えるよう命じられます。
わたしたちも、もっと立派な信仰を持つようになったら、内外に主の平和を宣べ伝えてもよろしいということではなく、弱さと不完全さと情けない現実をもったままで、その大切な役割を預かり、この世に派遣されています。ひとりで出来ることには限界がありますが、わたしたちが神さまの愛を共に信じ、一緒に祈るとき、わたしたち自身の小ささを超えて、遣わされていくのではないでしょうか。
イースターの喜びが皆さんとともに!
「クリスマスとイースターでは、どちらが大きなお祭りですか」と聞かれると、思わずペンテコステの話もしたくなりますが、この人は「キリスト教の三大祝日」について情報を得たい訳ではないでしょう。クリスチャンが「重要だ」と力説するイースターは、教会の外から見ると、クリスマスに比べてむしろ地味。せいぜいウサギやひよこ、チョコレートに茹で卵くらいが、明るい楽しいイースターのイメージであり、クリスマスの華麗なイルミネーションや、ホテルのディナショーには負けてる、そう見えるのかもしれません。
ところで、聖書を読んだことのあるわたしたちは、イエスさまが十字架上で亡くなられても、すぐに復活すると知っているので、十字架の死と復活という出来事は、結末を知りながら見ている映画のようでもあり、弟子たちが追い詰められた切迫感は、なかなか感じることが難しい、ということもあるのでしょう。その一方、十字架という処刑方法が、あまりにもむごく、つらいので、意識的に心の距離を置きたい、という事情があるかもしれません。
十字架は、身体的な苦痛に加え、精神的にも「見捨てられ、誤解され、軽蔑され」る刑罰。神さまに信頼していても、本当にこれでよかったのか、何かの間違いではなかったか、という恐怖と捉えどころのない不安に包まれたことでしょう。イエスさまにとって、あえて引き受けられた十字架だったものの、死ぬまで続く苦痛と恐怖は、詩篇22篇を暗唱しなくては正気でいられないようなものだったのでしょう。そして、イエスさまを理解し、その姿勢に賛同して一緒に生活も活動も共に過ごしてきたはずの弟子たちは、一人残らず逃げ出し、イエスさまのどこが「神の子」だったのか、どこに「全能の神」がおられ見守っておられるのか、すべて否定される暗闇に追い込まれていた十字架の出来事でした。
それから3日後、墓の石(蓋)がころがしてあって、イエスさまの遺体が消えていた、そして弟子たちの隠れ家に現れた、と聖書は語ります。弟子たちの中に現れたイエスさまは霊体だったのか実体だったのか、そこは詳しく書かれていません。そして、どうしてそういう展開になったのか、何のためだったのか、わからない部分はありますが、明らかなことが一つあります。イエスさまを捨てて逃げ出し、嘘までついて身を守ろうとした弟子たちが、別人のように変わっていきます。イエスさまは無駄に殺されたのではなく、今も生きて「わたしのために」復活された。そのことを知った弟子たちは変えられていきます。しかも、弟子たちが考えていたような「神の世界の実現」をするためではなく、自分の味方として矮小化された神を確保することでもなく、心の底の底の暗闇まで降りてきて、わたしたち自身が少しずつ変わっていくことに寄り添う神に初めて出会っていきます。それは生前、イエスさまが繰り返し伝えてくれた神の姿と出会うことであり、今までの価値観がひっくり返るような奇跡の物語だったに違いないのです。
わたしたちも時には、教会の華々しい成功物語や、人々の賞賛を受ける信仰生活を妄想するかもしれません。しかし、そこに神はおられず、空っぽのお墓と同じなのだと思います。神さまがもたらす「救い」、それは深い苦悩や悲しみを分かち合うために地上においでになった神、人類一般ではなく、わたしの労苦と孤独と痛みを理解し受け止めるために来てくださった神、そして、変えられることを諦めているわたしたちに対して「奇跡は起こる」と告げてくださっている神、その本当の愛の底力を、わたしたちが真剣に受け止めることができますように!
さあ、そのときが来た
イエスさまが地上に生まれ、マリアやヨセフに育まれて成長し、家の手伝いや、妹や弟の世話をしながら、「普通の人」として時を刻んできたのは、十字架に向かう人生のプロセスだったと思うと、正直切ない気持ちになります。今日のイザヤ書にあるように「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負」う人となった。それは、わたしたちの痛みや、密かな裏切りや、神に対する背信行為を変えられない弱さを、「捕らえられ、裁きを受け、命を取られ」ることによって、担ってくださるためだった、と書いてあるからです。
ユダヤ教の世界では、男の子の成人の儀式として、旧約聖書を読み上げ、暗誦する場面があります。イエスさまもそうされた、と聖書に書いてあるわけではありませんが、こどもの頃から立派なユダヤ教徒となるべく、旧約聖書を読まされ、その習慣の中で成長してこられたのだと思います。そして、ご自分が何かとても特別な役目を担っていると感じたとき、救い主としての使命があると確信したとき、イザヤ書のこの言葉を繰り返し、ご自分の胸に留めたに違いないと私は思うのです。それは、悪には近寄らず、遥か離れたところから人々を見下ろし、世界に君臨して罰を与える神ではなく、もっとも「低いところ」つまり、わたしたちの弱さや過ち、見捨てたくなるような暗黒の心さえ切り捨てず、とにかく共に歩いてくださろうとする神。理解されなくても、誤解さえされても、無視され続けても、わたしたちが救いに至りさえすれば、それで「満足する」という神の姿です。
このイエスさまの生涯を知り、そして救いの道を選ぶかどうか、それは、自由意志と責任とを持って、自分の人生を歩もうとするわたしたちひとりひとりに託されているのだと思います。
自分のいのちを「愛する」
ヨハネ福音書は全体の半分以上が、イエスさまの十字架の物語で占められています。今日の福音書は、イエスさまがエルサレムにやって来た、と始まり、ご生涯の最後の1週間が語られる冒頭部分です。エルサレムにやって来たイエスさまに、一目会おうとする人々の中に、ギリシア人もいたというから驚きです。それは礼拝の中に突然、袈裟を着たお坊さんたちが混じっているような光景だったことでしょう。どういう背景の人か、ということに関係なくイエスさまは、「一粒の麦」の話をします。
「自分の命を愛する者はそれを失う」と言われてしまうと、自分を大切にするのはいけないような印象を持ちます。しかし、ここで使われている「愛する」はアガペではなく、どちらかというと「好む」「いつも用いたい」「親しい間柄」という意味で使い、ことに「神を愛する」ときには決して使わない語だそうです。つまり自分の考えやこだわりに執着し、自己中心的な世界から出られない人は、やがて自分で自分を滅ぼす、と言っておられると思います。一方、「この世で自分の命を憎む人は〜永遠の命に至る」も、自分をないがしろにすれば天国へ行く、などと読んでしまうかもしれませんが、この「憎む」は、「選ばない」「軽視する」という意味です。つまりこの世の価値観優先ではなく、常識に縛られている自分を自覚し、神との関係を守ろうとする人は救いを得る、という意味でしょう。
イエスさまは、「わたしに仕える者」は誰であっても父なる神はその人を大切にする、と言われていることに注目しましょう。この話を聞いているのが、冒頭に登場したギリシア人なのか、あるいは取次をした弟子たちだけなのか、詳しくは書いてありませんが、いずれにせよ、イエスさまの言われたことに賛同し、その生き方に倣おうとする人は誰でも(たとえ袈裟を着て頭を剃ったお坊さんであっても)、神はその人を大切にしてくださる、愛してくださる、ということなのではないでしょうか。それは外国人でも他宗教の人々でも、あるいはわたしたちが良い子のときも、悪い子であっても、取り返しのつかない失敗を隠していても、自慢することがあってもなくても、「イエスさまの生き方に倣いたい」それこそが、自分のいのちを真に愛することだ、と言われていると思うのです。
5つのパンと2ひきの魚
5つのパンと2ひきの魚は、わたしたちがそれぞれ、神さまからお預かりしている「タレント」の事だと思うのです。その「タレント」は、神さまの目から見ると、かけがえのない唯一無二の輝くような尊いものですが、世界や社会の価値観では、気にも留めなかったり、評価されなかったりします。軽視されるので、自分でも価値がないような気がして、他人の持っている「タレント」が羨ましく、勝手に妄想を掻き立て、思わず比べて落ち込んだりします。
最初に大麦のパン5つと魚を差し出した男の子は、そんなことは考えていなかったのでしょう。みんなに喜ばれ賞賛されるかどうかあるいは「こんな不味いものなんて!」と馬鹿にされるかも、そんなことは全く心配していない様子です。一生懸命イエスさまのお話を聞いていて気がついたらもう夕暮れ。そしてみんな空腹。この男の子の荷物の中に、貧しい人がふだん食べているボソボソの大麦のパンと干した小さな魚が、たまたま入っていた。それをみんなで食べればいいじゃないかという極めて素直な話なのでしょう。
その男の子が、素朴な食事を差し出すと、それを見ていた大人たちも、自分にできることを思い出したのかもしれません。昔ポケットに入れたのにすっかり忘れていたタレント。自分の利益のためだけに用いようと隠してきたタレント。そして「こんなものじゃ駄目」という烙印を押し、恥ずかしく思ってきたタレントなど。しかし、人々は「そうか!神さまの前では率直にシンプルに、どうかお用いください」と差し出せばいい。そのことをこの男の子から学んだに違いないのです。すると、それらはやがて12のカゴに溢れ,皆が心の充足感を味わった、そんな話なのではないかと思うのです。
神さまは、わたしたちに必要なものをよくご存じで、すでに与えてくださっています。でもそれが「自分だけ」で完結する仕組みなのではなく、お互いに補い合い、支え合ったとき、カゴから溢れるほどの豊かな恵みを知ることになるのではないでしょうか。
不必要さとの対峙
教会が長い間守り続けてきた制度を、ある日突然、イエスさまがおいでになって壊しはじめたら、“びっくり”を通り越して、恐怖すら感じるかもしれません。制度だけではなく、「利用する人にとってその方が便利」「お互いにたすかる」などの理由をかぶせ、必死に守ってきた習慣や行事、みんなが「あって当たり前」と思ってきた事象なども、そこには含まれるかもしれません。今日の話は、通常のイエスさまのイメージからかけ離れ、読み方によっては恐怖すら感じるような話。一体何を「良い知らせ」としてこの話を読んだらいいのか、少々迷うところです。
それにしても、暴力や腕力の誇示を推奨しているのではなく、また、神殿に供える鳩を売ってやっと生活を成り立たせている庶民や両替商の下働きの今日のパンを奪ってもよい、そういう話ではないでしょう。今日の福音書は、その暴力的な行為が焦点なのではなく、現状に至る長い歴史があるとは言え、いつのまにか人の便利のため、より大きな利益を得るためには、聖なる場所も利用できるだけ利用してもかまわないという意識に対して、イエスさまは否を伝えなければと思われた気がするのです。神殿の境内が商売の餌食になっている状態は、当時の人々にとって当たり前過ぎる情景であり、全く無意識ではあるものの、神さまとの対話を軽んじる無感覚、神さまを無視してもかまわない、という心の表れだったかもしれないと思うのです。
表面だけの「敬虔さ」や「謙遜」を求める神さまではないことは、わたしたちは百も承知です。また、綺麗事やうわべだけの重々しい態度も、神さまは見抜いておられます。そして、わたしたちは「大切にすべきことを大切にしている」と思いたいですが、本当に本質的な事柄なのか、神さまの声を聞こうとしている行動なのか、それは問われることでしょう。
神さまとはかけ離れている言動であるにもかかわらず、変えることができないでいる状態を、もしわたしたちが抱えているなら、羊や牛を追い出し、両替商が得た利益を撒き散らしたように、イエスさまは前に進むことを手伝ってくださる。そしてそれは呪いや裁きではなく、わたしたちを、是が非でも救いへと導きたい、解放したい、という行動の表れではないでしょうか。
いのちを救え
大斎節に入って、まだ2回目の日曜日ですが、今日の福音書は、十字架へまっしぐらです。「自分の十字架を背負って、ついて来なさい」と言われるイエスさまの、その十字架とわたしたちのそれぞれの十字架はケタ違いですが、一方で「自分の命を救おうとする者はそれを失う」と言われたそのすぐ後に、「自分の命を損なって何の得があろうか」とも言われる。「いのち」がかかっているだけに、イエスさまはわたしたちにどうしろとおっしゃっているのか、不安にもなります。
「十字架」という現実を耳にしたとき、人の思いとして自然かもしれませんが、聞きたくないことを言うイエスさまを、ペトロは止めようとします。そんなことがあなたの身に起きてはならない、自分の身を犠牲にしてでもそれは回避します、くらいのことを言ったかもしれません。でもそれは、イエスさまを大切にしている人の発言のようでいて、実は「そんなことは聞きたくない」という自分の安心を最優先した、不安感を回避する言動だと、イエスさまは指摘されたのではないでしょうか。
わたしたちもまた、自分の背負いたいものだけを選んで背負い、こんな大変なことを自分は背負わされている、という気分になります。イエスさまを大切にしているようでいて、実は自己保身のための発言や行動をしていることがあります。わたしたちの聖書日課では、「自分の命を救いたいと思う者」とありますが、別の翻訳では「自分自身を救おうとばかり思う人は自分を滅ぼす」となっています。つまり、神さまが優先ではなく、他の人を思いやるためでもなく、(本人は気がついていないかもしれないけれど)自分の立場や気分の安定第一のため、あたかもイエスさまを大切にしているような行動をとって見せること、それに対してイエスさまは「サタンよ、引き下がれ」と言われたと思うのです。自分の命を守ろうとすることがいけないのではなく、命を守るフリをしながら、実は自己保身を優先する欺瞞について、イエスさまは指摘しているのではないでしょうか。このみ言葉に留まり、わたしたちが真に神さまと人々を大切にすることができるよう、願い求めましょう。それこそが、神さまからいただいた「命を守る」生き方なのではないでしょうか。
イエスさまの生涯のはじめ
大斎節の最初の日曜日は、イエスさまの洗礼と荒野四十日間の話から始まります。マルコによる福音書では、極めて簡潔に描かれていますが、イエスさまはまずヨハネから洗礼を受け、そして次に、荒野で「サタン」から試みられる四十日間を過ごされた(他の福音書では、3つの誘惑についても書かれています)とあります。
ところで「最後の誘惑」というずいぶん昔の映画がありました。その中でイエスさまにとって、荒野の四十日間の中の最大の誘惑は石をパンに変えることではなく、「十字架は本当に意味があるのか」という悪魔の囁きでした。イエスさまはそれを聞いて、一種の幻覚に陥ります。十字架に向かう生涯を抜け出し、家族を持ち、穏やかな生涯を送り、最後にこどもや孫に囲まれて大往生、というシーンでハッと我に返る、そんなドラマになっていました。
わたしたちには何となく、イエスさまは何の迷いもなく、すべてを見渡しつつ、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩んだようなイメージがあるかも知れません。不思議な出生、そのあり得ない展開を受け止めるマリアとヨセフ、そして12歳の時の宮詣などです。しかし、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた、ということは、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったのではなく、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないのです。
つまりこれから起きることについて理解はしていても、イエスさまはどうしても洗礼を受ける必要があった、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞く必要があった、そして荒野での四十日間を過ごす必要があった、そういうことなのかもしれません。
この四十日間の直後からイエスさまは、福音(良い知らせ)を語り、ご自分とともに働く仲間をつくり、人々を癒し、神の国がどんなところかを伝え、そして最後には裏切られ見捨てられる十字架への道が待っている「公生涯」へと向かいます。
理解できないことの前で固まらない
夏にも登場する「変容貌」(姿かたちが変わる)の話で、この物語はヨハネ以外のすべての福音書に登場します。現代のわたしたちにとっては難解でも、当時の人々には、どうしても外せないことだったのかもしれません。それにしても、説明もなしに突然エリヤとモーセが現れ、イエスさまと何事か語り合う。そうかと思うと眩しいほどの白さが強調される。そしてあわてふためくペトロが「小屋を3つ建てる」と口走り、イエスさまの洗礼のときと同じような「これはわたしの愛する子」という声が響く。なんだか疑問や不可解なことばかりが目につきます。
しかし、そもそもイエスさまの誕生も、その死と復活も、客観的には不可解なことです。そしてわたしたちに聖書が与えられているのは、よくわからないことを鵜呑みにするためではなく、その中に込められた「神さまがわたしたち人間に伝えたいこと」のエッセンスを受け取るためです。「不思議なこと」のエピソード一つ一つは文字通りそうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。でもわたしたちがすべきことは、よくわからない事柄の前で固まって進めなくなることではなく、神さまが伝えたいことの核心を読みとることなのだと思います。
イエスさまがこの世に来たのは、「十字架にかかる」ためでした。充実した青春を送るためでも、家族との楽しい時間を過ごすためでもなく、十字架の上で死ぬために来たのです。その特別な出来事は、ひとりの人間としては「惨敗」ですが、そこには1ミリのブレもなく、神さまの計画が実行された、何ひとつ間違ったわけではない、とはっきり告げる必要があったのでしょう。
わたしたちの毎日の生活の中でも、何のために起きているのか、よくわからない出来事があるかもしれません。とくに、何故だか事がうまくいかないときは、自分を惨めに感じたり嫌な気持ちになったりします。でもそれは自分の基準だけが大きく支配している決めかもしれません。ずっとあとになってから「ああ、こういうことだったのか」と納得することも含めて、神さまの大きな計画の中で、その出来事が何だったのかと俯瞰する視点を失わないでいたいと思います。
イエスさまの癒し
いろいろな病気を抱え困っている人のために、イエスさまが祈ってくださると、病いが治っていく。発熱も、その他の故障も、そして取り憑いた悪霊も去っていく。これが確実に起こる出来事なら、こんなにうれしいことはないでしょう。しかし2千年前とはちがい今、ここにはイエスさまはおられない。そうなると、どこか遠い昔の話であり、自分とは関係がないかな、という気持ちになります。まして、自分の大切な人が今、病に苦しんでいても、イエスさまが手をさし延べて癒してくださるわけではない、と思うからです。
「病気が治る」奇跡の物語をどのように読むかは簡単ではないでしょう。神のスーパーパワーを悟る、信仰を深めた人にはこのような超能力が与えられる、などという理解もあるかもしれませんが、それで心からの慰めと元気が与えられるのでしょうか。神さまへの愛が深まるでしょうか。石をパンに変える奇跡をたとえ実行いただいても、翌日にはすぐにお腹が空くのと同様に、病いがひとつ治っても、翌日には別の病気がやってくるかもしれないのです。
皆さんもご存知のように、聖書の時代では、病気になること自体が罪の証拠でした。つまり過去に犯した「悪いこと」が、人々の目に見えるようなかたちをとって現れたのが病気だったのです。しかしイエスさまは、そのように受け止めませんでした。イエスさまの「癒し」は、医学的な治癒(場合によってはそれもあったかもしれませんが)よりも、社会が罪人だと決めつけている重圧からの解放、病いを負う人も神からの呪いではなく祝福を受けているのだと告げる「回復」だったのではないかと思うのです。病気や麻痺、痛みや苦しさが増すと、人は誰でもへこたれ、気持ちも下向きになりますが、たとえ不便や辛さと共に生きなければならないとしても、「あなたは神と共に生きる人、神さまにとって大切な人」という福音を、告げた物語なのだと私は思います。
「汚れた霊」の不得意なこと
カトリック教会には、ちゃんと免許を交付されたエクソシスト(悪魔払い師)という人がいるそうですが、今日の福音書のイエスさまはまるでエクソシストです。会堂で教えておられると、汚れた霊の方からイエスさまに近づいてきます。イエスさまを自由にさせておくと、我が身の安全が図れないと察知したのか、「関わらないでくれ」とわざわざ言いに来て、整合性のないことを次々語ります。
電車の中や公共施設でも、こういった人を見かけることがあります。「汚れた霊に取り憑かれている」かどうかは、外見からはわかりませんが、問題は中身です。精神疾患あるいは障害があるということとは別の、しかし本人がどうすることもできない何か大きな力に支配されていて、最初は窮屈だと感じている様子です。しかしながら、怒りや妬みなどのネガティブな支配力にせよ、普段の自分にはないパワーが存在する感じに慣れてくると、今度はそれを手放したくなくなってくる、そしてさらに闇の力に支配されていきます。
イエスさまは「黙れ」と、怒鳴り声で威圧した訳ではなく、悪魔祓いによく用いる「静かになりなさい」という言葉で、汚れた霊に語りかけられた。しかし心を「静かにしている」ことができない悪霊は、そこに居られなくなり出ていってしまったという事の次第なのでしょう。別の聖書の箇所に、部屋の中に悪霊が住みついたので、綺麗に掃除をして出て行かせた。しかし掃除をしただけで、中身については何の対策もしなかったのでそれを見つけた悪霊は、さらにたくさんの仲間を引き連れて住み着き、前よりもっとひどい状態となった、というお話があります。悪霊が居場所を探して、言い方を変えればわたしたちの心の雑音を探して、いつもうろうろしているのは、特殊なことではないでしょう。常にあれもこれも、より便利な、有利な、得する日常をゲットしようと、雑音をたくさん抱えている人は、ひょっとすると大きな危険に晒されているかもしれません。わたしたちに必要なのは、権力や他を圧倒する支配力ではなく、神さまの存在に耳を澄ませ、そこから聞こうとする「静かにしている」心です。
神の目に「人」であること
マルコによる福音書の冒頭部分についてお話しします。ヨハネから洗礼を受け、そして荒野で40日間断食しつつ悪魔の誘惑にさらされたイエスさまは、その直後に子ども時代を過ごしたナザレも含む、ガリラヤ地方から、最後の3年間をスタートします。
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」、この言葉は壮大過ぎて、手に余る気持ちにもなりますが、「イエスさまは何のためにこの世に生まれ、人々の間で生きたのか」という問いに対するまとめ、ではないかと思うのです。人々と共に生きる最初のアクションとして、ユダヤ教に精通した律法学者や祭司ではなく、土地の有力者でもない。字が書けるかどうかも怪しい4人の漁師に「私について来なさい」と最初に声をかけます。
ところでシモンとアンデレは、「人間をとる漁師にしよう」と言われたことになっています。しかし、魚を獲って売りさばく代わりに、営利目的で人を駆り集め、日々の生活を成り立たせよう、というお誘いではないことは明らかです。なぜなら、原文には「人間の漁師」と書いてあるのであって、「人間を獲る」とはどこにも書いていないからです。
では「人間の漁師」とは、どういう意味なのでしょうか。当時の漁師という職業は、あまり好まれない仕事でした。危険を伴う割には収入が良いわけではなく、社会的にも尊敬される対象ではなかった。つまり、神の国を語っても、愛や慈しみを教えても、「漁師ごときが何か言っている、余計なことはしないで、魚だけ獲っておれ」とあしらわれがち。イエスさまは、そんな漁師たちを、まずお弟子さんになさいました。イエスさまの目には、彼らは尊厳あるひとりの人間以外の何ものでもなく、「あなたも神に愛されるのにふさわしい大切な人なのだ」という、神さまの真実を述べ伝える役割を担う者としてふさわしい、と心に決められたのでしょう。
わたしたちもまた、神さまの御用をそれぞれ預かっています。それは、社会的にどうこうとか、知識がどうこうという次元を超えた、神さまの計画の中にあります。「わたしごときが」という声が心の中に響くとき、何を怖れているのか、自分の心に聞いてみましょう。そして、何を大切にして生きるのか、自分とじっくり向き合えるといいですね。
主よ、どうぞお話しください
サムエル記という書があります。サムエルは人の名前で、ダビデという王さまの時代に活躍した預言者です。元々は1つの書として編纂されましたが、現在は、上・下2巻に分けられて、旧約聖書の中に納められています。サムエル記上は、サムエルの生い立ちから話が始まります。
昔々(紀元前千年頃と推定されています)、エフライム山中にエルカナという一家が住んでいて、ハンナ(「恩恵」という意味)と、ペニンナ(「真珠」という意味)という二人の妻がいました。ハンナにはこどもがいませんでしたが、エルカナからとても大事にされていました。その様子に、社会的優位(こどもが多い)にもかかわらず、自分より尊重されるハンナを妬み、ペニンナは機会あるごとにハンナをわざと傷つけました。シロという場所へ礼拝をしに行く恒例の家族旅行でも、毎年ハンナを苦しめました。ハンナは耐えきれず、会食の席を立って、礼拝所の入口で祈りながら激しく泣いているとき、祭司エリと出会います。ハンナは、男の子が生まれたなら、その子は神に捧げる、と祈りの中で神さまと約束します。
それから数年経って、ハンナに男の子が生まれました。乳離れすると、約束通りその子を連れてシロへ行き、祭司エリに預けます。その幼児がサムエル(「神は聞かれる」という意味)です。祭司エリは神に仕える人でしたが、その息子たちは祭司であるにもかかわらず、ならず者でした。人々からの神への捧げものを横取りし、その他諸々神を軽んじる行動を恥じない人たちだったのです。エリは、口頭での注意はするものの、息子たちから祭司職を剥奪するなどの行動はとりませんでした。
そんなことが常態化し、数年が過ぎた頃の話です。いつものように、神の箱が安置されている主の宮で、夜の眠りについたサムエルを起こす声が聞こえます。サムエルは、祭司エリが呼んだのだと思い、走ってエリの部屋に行くと「私は呼んでいない」と言われてしまい、また自分の寝床に戻ります。そんなことが数回あってから、祭司エリははたと思い当たり、その声がまた聞こえた時は、「お話ください、僕は聞いております」と答えるよう指導します。さて、サムエルがそのように応答すると、その声はエリ一家に対して裁きを下すことを予告します。エリにお世話になっているサムエルとしては、それはとても辛い内容で、伝えることをためらいます。なぜなら、エリの祭司としての苦悩と、息子たちの行状を止められない父親としての苦しみと、しかしそれをどうにも変えられない痛みを知っていたからでしょう。しかしエリに促されてその内容を伝えます。
やがてサムエルは、必ずしも真実を聴きたいとは思っていない人々に対し、聞くこともためらわれ、伝えることもためらわれるような、しかしどうしても神さまが伝える必要のある言葉を預かり、それを告げる「預言者」となっていきます。わざわざサムエルが言葉を預からなくても、直接、本人に伝えればいいのではないかとも思いますが、このエリのように、「わかっていても、どうにも止められない」「このままではいけないと知りながら、どうしても変えられない」状況もあるのだと思います。そんなとき、諦めて放置するのではなく、預言者を用いてでも何とかして伝えようとする神さまのあたたかさを、裁きの中でさえ感じます。
わたしたちもまた、聴きたくないこと、避けて通りたいことは、たくさんあるでしょう。たとえ時が止まったように、そのまま事が流れていたとしても、神さまは決してわたしたちを諦めたり放置したりならさないことを覚えたいと思います。そしてわたしたちにできることはただひとつ。「主よ、どうぞお話ください。しもべは(辛いけれど)お聞きします」と応えることではないでしょうか。
あなたはわたしの愛する子
バプテスマのヨハネと呼ばれる人は、自分の存在理由を「イエスのために道を備える者」であると理解していました。そして「わたしは屈んでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と言います。ずいぶん謙遜した言い方だなと思いますが、外出から戻った家人の履物の紐を解き、足を洗うのは、その家の使用人の仕事でした。バプテスマのヨハネは、この世的にはイエスさまの従兄弟なのに、あえてそのような言い方をしています。これは、「親戚だから」とか、「知り合いだから」ということは、ヨハネの行動の根拠ではなく、人の思いとは別次元の存在であるイエスさまが、神から遣わされたものである、とのヨハネの宣言なのでしょう。それにもかかわらず、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。しかも、洗礼は当時のユダヤ教の伝統的な慣わしではありませんでした。
ところで、わたしたちにとって「洗礼」とはどういう出来事なのでしょうか。神さまは、わたしをかけがえのない存在としてこの世に送り出してくださった、そしてぜひ幸せな生涯を全うしてほしいと心から願っている。そのことを信じているから、自分の持つ「罪」(的外れ)を告白し、弱さも痛みも含めて神さまが受け入れてくださっていることに信頼し、そしてこの世での務めを果たしたい。そんな自分の決意ではあるけれども、迷い、先が見えなくなるときもあるので、教会のみんなとその決断を共有したい、祈ってほしい、そんな意味が洗礼の根幹にあると思います。
イエスさまの洗礼に話を戻すと、改めて決心をしたからヨハネから洗礼を受けた、ということではないでしょう。しかし、伝統的なユダヤ教の教えや習慣や皆が信じている「かたち」ではなく、いよいよその真髄に生きようというスタートを切る決断をするということは、大きな痛みと苦しみが伴うことをご存知だったのでしょう。そしてそれは人々のため、神さまの本当のみ旨を知らせる、という大きな舵切りだった。それは、私欲のためでも、人々の評判のためでも、様々な期待のためでもなく、「召命に応えて生きる」というイエスさまの決意の表れだったのではないでしょうか。