今週のお話

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「愛の原理」

2025年2月9 日(日)顕現後第5主日(ルカ5:1-11)

 きょうの福音では、主イエスが弟子たちを召し出す様子が描かれています。師匠に弟子入りするということを考えますと、自ら師匠に志願して、それを許可されて弟子入りするというのが一般的な流れではないでしょうか。ですが、イエスが弟子を選ぶ。これがキリスト教の特徴、イエスとの出会いの特徴だといえます。

 それでは、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちのほうが、主イエスの素晴らしさを知って主イエスに従っておこう、そう思ったという面も確かにあるでしょう。しかし、イエスがこのわたしを呼んでくださった、そのように思い当たるところはあるでしょうか。

 主イエスは「わたしのことばに従って、やってみなさい」とわたしたち一人ひとりに呼びかけています。「あなたがそういうなら、やってみましょう」といって、行動を起こしてみる。イエスのことば通りにすると、大漁になる。それはきっとイエスを信じて歩みを起こすと、予想を超えた多くの人との出会いがあり、想像もできないほどに人生が豊かになるということなのでしょう。

 よって、クリスチャンになるとか、キリスト教を信じるということは、単に神が存在すると信じればそれでいいというものではないのです。また誰かに言われたから信じるというようなのでもないのです。わたしはイエスに呼ばれた。このイエスとの直接的な関係が信仰です。イエスの伝えた神の国の到来というよろこびの知らせは、自分に関係のないところで、神の国が実現していくというメッセージではありません。わたしたち一人ひとりが、自分へのイエスの呼びかけを聞くかどうかなのです。

 イエスの弟子として生きる上で基本となることとは何か。それはイエスの「呼びかけを聴く」ことです。このわたしを呼ぶイエスの声に耳を傾ける。わたしたちが自分に与えられた使命、役割、人生の進路を知るのは、「呼びかけを聴く」ときなのだと聖書は教えています。どういう道を進むべきか。どう生きるべきか。それは自分の能力によって、自分の選択によって決めることだと、普通は考えます。しかし聖書は、「このわたしに呼びかける声を聴く」ことによって、自分の使命や生きる意味を知るというのです。イエスの呼びかける声というのは、何かイエスの肉声のようなものが突然聞こえてくるというようなものではありません。わたしたちの日常の出来事を通して、また誰か人を通して、イエスの呼びかける声が聞こえてきます。「ちょっと手を貸して」「助けて」「あなたが必要です」と自分に呼びかける声が、日々の出来事を通して、また日々出会う人を通して聞こえてくるでしょうか。「これはきっと主イエスがわたしに呼びかけている声だ」と受け止めて、行動を起こしてみる。すると、自分の使命や役割、生きる意味がこれだったんだ、と見えてくるようになる。行動を起こす前には想像もしていなかったよろこびに満たされる。そう主イエスはわたしたちに教えてくださっているのではないでしょうか。

「愛の原理」

2025年2月2 日(日)被献日(ルカ2:22-40)

 主のご降誕から40日目にあたるきょうは、被献日、生まれたばかりの主イエスがマリアとヨセフによって神にささげられたことを記念する日です。この出来事はユダヤの伝統的な儀礼を描くとともに、そこにいる人物に目を向けるようにとわたしたちを招いています。神を自分のうちに迎え入れ、神に自らの人生を差し出した、すなわち神への奉献生活を送った人々、マリア、ヨセフ、シモン、そしてアンナです。

 わたしたちも、主イエスとともに、神に自分自身をささげるようにと招かれています。しかしながら、注意が必要なのは、神に自分をささげるということが、命令や義務、努力目標になってしまうことです。イエスさまがそうされたのだから、自分をささげなければならない。自分をささげて清い生活を送らなければならない。貧しい人や困っている人に奉仕しなければならない。このように考えてしまうのは、わたしたち人間の罪性、罪の傾向であるということができるでしょう。聖パウロも、そして宗教改革者マルチン・ルターも、自分を神にささげる生活を送ろうと懸命に努力しました。けれども、どうしてもそのようにはできなかった。完璧にはできない自分の弱さ・限界を知ったのです。

 自分の限界に当たって、自分を動かす源となる力となるのは、外側からきめられた命令や義務や報酬ではないことに彼らは気づきました。すなわち自分が動かされるのは、神の恵みによるのだ。すなわち自分は聖霊の導き、神の愛の力によって内側から動かされて生きる。神の愛の力に動かされるとき、自分が真に生きているといえるのだ、とパウロも、ルターも気づいたのです。自分の外側から決められる、義務や目的や努力目標によって自分が動かされる。すなわちキリスト者として自分をささげなければならない、自分をささげることが正しい。自分をささげたらその結果として何か神から報いが与えられる。この発想はいわゆる律法主義、つまり罪の原理です。しかしわたしたちは、主イエス・キリストがわたしたちの罪を贖ってくださった、罪から解放してくださった、と信じています。それは、自分の外側から決められる、命令、義務や努力目標によって自分が動かされる、罪の原理から解放されたということです。

 主イエスを動かしていたのは、神からの命令や義務や報酬ではありません。神の愛に動かされて、すなわち、主イエスは愛の原理に動かされていたのです。それではわたしたちの働き、わたしたちの奉仕は、愛の原理に基づいているでしょうか。聖霊に導かれて生きること、愛の力に動かされて生きること、これが自分を神にささげることなのでしょう。

「生の充溢」

2025年1月26 日(日)顕現後第3主日 (ルカ4:14-21)

 顕現節第2主日である今週の福音は、ヨハネ福音書の主イエスがガリラヤのカナにおいて行われた、最初のしるし・奇跡物語です。このカナの婚礼の物語は、主イエスが水をぶどう酒に変えたこの行い・しるしを通して神の栄光が現わされたと伝えています。この栄光という言葉ですが、わたしたちが栄光と聞きますと、光輝いているさまや、神々しい、後光が差しているさまを思い浮かべますけれども、ヘブライ語では「そのものの重さ」や「そのものの価値」という意味です。すなわち神の栄光が現れるというのは、神そのものの重さや神そのものの価値が現れるという意味です。主イエスが「わたしの時はまだ来ていません」というように、主イエスが栄光を受ける時とは、十字架と復活の時です。その時に、神の重みが十全に現れます。そう考えますと、主イエスの驚異的な力において、神の栄光が現れているのではないでしょう。

 主イエスは清めのための水を、良いぶどう酒へと変えたのです。旧約の預言者は、メシアの時代には大量のぶどう酒で満ち溢れると語っていました。この大量のぶどう酒は、神の国の宴の豊かさ、神の恵みの豊かさを現していると理解できます。すなわち主イエスによって、神の恵みが豊かにもたらされる、とこの物語は伝えようとしているのでしょう。

 わたしたちの信仰の母であるマリアは、わたしたち一人ひとりに、「イエスの言いつけるとおりにしなさい」といいます。それぞれの仕事場で、また家庭において、この仕事が本当に主イエスの言いつけられることなのだろうか、と思うときがあるでしょう。また、なぜこのようなことをしなければならないのか、何の意味があるのか、と思うことがあるでしょう。しかしながら、わたしたちの働き、わたしたち人生、わたしたちのすべてが、主イエスに祝福され、豊かな恵みへと変えられるのです。

 そして、主イエスは、主に仕える者であるわたしたちに対して「水がめに水をいっぱい入れなさい」といわれます。ではこの水とは、わたしたちにとって何を意味するでしょうか。清めの水をいっぱいにしなさい。すなわち掟や義務でわたしたちの身をいっぱいにしなさいと主イエスはいわれているのでしょうか。いえ、決してそうではない。主イエスは私の水、すなわち主イエスのいのちの水で、わたしたちのかめ、すなわちわたしたち自身をいっぱいに満たしなさいといわれているのでしょう。

 カナの婚礼の物語を文字通り読みますと、水がぶどう酒に変わった不思議な話だね、イエスさまってすごいね、で終わってしまいますが、丁寧にそこにどのような意味が込められているのかを聴いていきますと、そこには豊かな意味が込められています。これが聖書に聴く豊かさ・よろこびなのだと思います。

「イエスのいのちの水で満たす」

2025年1月19 日(日)降誕後第2主日(顕現後第2主日 ヨハネ2:1-11)

 顕現節第2主日である今週の福音は、ヨハネ福音書の主イエスがガリラヤのカナにおいて行われた、最初のしるし・奇跡物語です。このカナの婚礼の物語は、主イエスが水をぶどう酒に変えたこの行い・しるしを通して神の栄光が現わされたと伝えています。この栄光という言葉ですが、わたしたちが栄光と聞きますと、光輝いているさまや、神々しい、後光が差しているさまを思い浮かべますけれども、ヘブライ語では「そのものの重さ」や「そのものの価値」という意味です。すなわち神の栄光が現れるというのは、神そのものの重さや神そのものの価値が現れるという意味です。主イエスが「わたしの時はまだ来ていません」というように、主イエスが栄光を受ける時とは、十字架と復活の時です。その時に、神の重みが十全に現れます。そう考えますと、主イエスの驚異的な力において、神の栄光が現れているのではないでしょう。

 主イエスは清めのための水を、良いぶどう酒へと変えたのです。旧約の預言者は、メシアの時代には大量のぶどう酒で満ち溢れると語っていました。この大量のぶどう酒は、神の国の宴の豊かさ、神の恵みの豊かさを現していると理解できます。すなわち主イエスによって、神の恵みが豊かにもたらされる、とこの物語は伝えようとしているのでしょう。

 わたしたちの信仰の母であるマリアは、わたしたち一人ひとりに、「イエスの言いつけるとおりにしなさい」といいます。それぞれの仕事場で、また家庭において、この仕事が本当に主イエスの言いつけられることなのだろうか、と思うときがあるでしょう。また、なぜこのようなことをしなければならないのか、何の意味があるのか、と思うことがあるでしょう。しかしながら、わたしたちの働き、わたしたち人生、わたしたちのすべてが、主イエスに祝福され、豊かな恵みへと変えられるのです。

 そして、主イエスは、主に仕える者であるわたしたちに対して「水がめに水をいっぱい入れなさい」といわれます。ではこの水とは、わたしたちにとって何を意味するでしょうか。清めの水をいっぱいにしなさい。すなわち掟や義務でわたしたちの身をいっぱいにしなさいと主イエスはいわれているのでしょうか。いえ、決してそうではない。主イエスは私の水、すなわち主イエスのいのちの水で、わたしたちのかめ、すなわちわたしたち自身をいっぱいに満たしなさいといわれているのでしょう。

 カナの婚礼の物語を文字通り読みますと、水がぶどう酒に変わった不思議な話だね、イエスさまってすごいね、で終わってしまいますが、丁寧にそこにどのような意味が込められているのかを聴いていきますと、そこには豊かな意味が込められています。これが聖書に聴く豊かさ・よろこびなのだと思います。

「神のいのちに浸される」

2025年1月12 日(日)降誕後第1主日(ルカ3:15-17、21-22)

 主イエス洗礼の日に、わたしたちは主イエスが神の子であることが明らかになった。そして主イエスが神の愛を宣べ伝えていく活動をスタートされた。このことを記念します。そして洗礼を授けられた者が、聖霊、すなわち神のいのちに浸され、神の子とされた。そして神のつながりのいのちを日々の生活の中で現わしていくようにと呼ばれた。これらのことを確認することが、主イエス洗礼の日の意味です。

 ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教は、『キリスト者として生きる』という本のなかで洗礼について次のように述べています。「洗礼はわたしたちを他の人々と区別させる特別な地位を与えるものではありません。『私は洗礼を受けた』と言えることは、特別な威厳を主張することではなく、ましてや、他の人々から選り分けられ、優越性を与えられることでもありません。それは、他者との新しい次元での連帯を主張することなのです(17頁)」。主イエスが洗礼を受けられたのは、「他者との新しい次元での連帯」を主張するためでありました。すなわち主イエスは、罪びとと同じ列に並び、共に洗礼を受けた。この行為を通して、罪びととともにある、神のいのちのつながりの次元を示されたのです。主イエスは、父なる神の愛を知っているので、みなと同じ地平に立たずにはいられなかったのです。

 主イエスは、すでに現実となっている「神の国」、すなわち神のつながりのいのちの現実が、目には見えないけれども、今ここにあることに、わたしたちが気づき、それを認めることを求めておられるのでしょう。洗礼を受けることによって、神のいのちに浸され、神のいのちにつながっている。それを目にみえるものとするのが、教会なのです。

 神のいのちのつながりの次元、これは目ではっきりと見ることはできないものです。しかし、主イエスが洗礼を受けられた。このことにおいて、そのいのちのつながりの次元が目に見えるもの、明らかなものとなりました。そして、わたしたちが洗礼を受けるということにおいて、目には見えないけれども、ここに確かにある、神と人とのいのちのつながりの次元が、目に見える形として、現わになるのです。

 違う言葉で言えば、洗礼を受けるというのは、主イエスによって明らかにされた、神の恵みを受け止めてこれから生きていきます、という宣言だといえるでしょう。これまで自分の力で何とかしよう、自分の行いによって周りのひとに認めてもらおう、と条件付きの愛を求めて生きてきた者が、回心する。生き方を変える。自分はつながりにおいてある、かけがえのないいのちであること、このことを信じてこれから生きていきます、と神の前で、そして教会のみなの前で、わたしは「神の恵みを受け止めて、新しく生まれ変わります」と公に表明すること、それが洗礼なのでしょう。

「先立つ神のおもい」

2025年1月5 日(日)降誕後第2主日(ヨハネ1:1-18)

 きょうの福音であるヨハネ福音書の序文は、非常に美しく整えられた表現をもって、神がわたしたちの日常の只中へと入ってこられたこと。神が弱く脆い人間の身体において現れたこと、そしてイエスが何者であるのかを伝えています。

 しかしながら美しすぎるがゆえに、このヨハネ福音書のみことばがスッと自分のなかに入ってこない。なにか遠いところの出来事のようで、分かったようで分からない。そういう印象を与える面がこの箇所にあることは否めないでしょう。そこで理解の助けとして、山浦玄嗣さんの訳した東北地方の方言、ケセン語で訳した聖書を読んでみたいと思います。

 はじめにあったのは、かみさまのおもいだった。おもいはかみさまのむねにあった。そのおもいこそかみさまのもの。はじめのはじめにかみさまのむねのうちにあったもの。かみさまのおもいがこごって あらゆるものがうまれ、それなしにうまれたものはひとつもない。

 山浦さんの訳したヨハネ福音書の序文を読むと、ずいぶん印象が変わるのではないでしょうか。初めにあるのは、人間のおもいではなく、神のおもいなのです。目には見えない神の胸のうちにあるおもいを、見えるかたちにしたのが主イエス・キリストです。主イエスのおもいは、かみのおもいであり、主イエスのことばと行い、主イエスの存在自身が「ことば」でありますが、イエスを見れば神のおもいが分かるのです。

 そして、「かみさまのおもいがこごって あらゆるものがうまれ、それなしにうまれたものはひとつもない」とあります。わたしたち人間は、そして地球上のすべてのものは、神のおもいがこごって、神のおもいが込められてできた。「あなたに生きてほしい」そういうおもいが凝ってわたしたちは生まれたとヨハネ福音書はいうのです。

 わたしは「はじめに神のおもいがあった」ということが、キリスト教の特徴であると考えます。わたしたちは、努力して、頑張って頑張って、清く正しく生きる。修行して、悟るから神に認められる、天国に行くのではありません。先に神のおもいがあるのです

 わたしたちは自分に力があって頑張れるときには、一生懸命頑張れます。しかしながら、頑張れない時もあります。頑張りたくても、もうこれ以上頑張れない人もいます。でも「頑張りたい。でもこれ以上頑張れない」そういう自分の思いに先だって、神のおもいがあるのです。あなたは頑張るから、あなたなのではない。かみさまのおもいが凝って、あなたなんだ。あなたという存在があるんだ。そこから生き始めなさい。これが、新しいいのちを生きる、神のおもいを生きる、神の恵みを生きるということではないでしょうか。

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