「孤立しないための秘訣」
日本において生活するわたしたちは、「水」に困るということはなかなかないでしょう。しかしながら主イエスの生活したイスラエルやその周辺の地域は、日本のように沢山雨が降るわけでも、水が豊富なわけでもありません。イスラエルの人たちにとって、水はとても大切なものなの、いのちの水なのです。それでは、「その貴重な水を分けてください」と知らない人にいわれたら、どうでしょうか。自分の大切な水を簡単に、はいどうぞ、と知らない人にあげることができるでしょうか。水だとイメージしづらいかしれませんので、もし今自分の大切なものをくださいといわれたら、どんな気持ちになるでしょうか。「いやだよ、あげたくないよ」と思いませんか。
ですが主イエスは、自分にとって大切なものを与えることのできる人、大切なものを手放すことのできる人こそ、活き活きと生きることができる。豊かに生きることができるといわれるのです。自分だけで独り占めすることはよさそうにみえるけれど、実はそうではない。自分にとって大切なものを与えるとき、活き活きと、豊かに生きることができると主イエスはいうのです。
先週は、この世のものさしと、神の国のものさしについて、ご一緒に考えてみました。これまでわたしたちが生きてくるうえで身に着けてきたこの世のものさし、それは効率や生産性のものさしです。そのこの世のものさしと、主イエスの伝えられた神の国のものさし、それはつまり一人の人間がそこに生きて存在することに価値があるというものさし、この両者には大きく異なります。わたしたちはこの社会において、効率や生産性のものさしで自分の価値が測られる。それは、互いがひとりの人間としてではなく、ひとつのモノ、ひとつの機械として、互いの性能を比較されるということです。そのように互いの性能が比較されることによって、人間が孤立していく。これがわたしたちの生きる今の社会における大きな課題でしょう。ですが人間が孤立していたのは、主イエスが生きられた社会においても同じでした。人が、社会の常識や社会の正しさによって測られました。神の掟である律法によって、人が測られる。この世のものさしによって、病者、障害者、外国人、徴税人、娼婦、女性、子どもは測られ、孤立していたのです。
そのような社会において、主イエスは義務でも、命令でもなく、孤立しないための秘訣として、自分の持っているものを与える・手放すという生き方を示したのです。自分のいちばん大切なものは、なかなか与えること、手放すことはできません。イエスさまよりも父や母や息子や娘が大切であると考えるのもある意味当然です。
けれども、「自分の大切なものさえも、つながるため、孤立しないために手放すこと」が、自分が生きるうえで最も大切なことになったらどうでしょうか。与えること、手放すことは損をすることのように思えますが、与えると、手放すと、関係は豊かになる。これが、主イエスが教えてくださった最も大切なことなのです。
「神の国のものさし」
今週の福音で主イエスは「人々を恐れてはならない」といいます。恐れるなと主イエスがいっている意味は、主イエスのこと、主イエスが伝えた神のおもいを伝えることを恐れるなということです。主イエスは、神のおもいをみなに伝えるために弟子たちを派遣したとき、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(マタイ10:16)といいました。それぐらい神のおもいを伝えることには、危険を伴うというのです。
主イエスは、当時の社会の常識、社会の正しさに対して疑問を投げかけました。そして、病気や障害、あるいは仕事の事情で、神の掟を守ることができなかった人たちのところに主イエスは行って、「あなたたちは神の掟を守っていないからみんなから『罪びと』だとさげすまれているみたいだけれど、決してそんなことはない。あなたがたも神に愛されている、かけがえのない一人の人間存在なのだ」と神のおもいを主イエスは伝えました。それは人間の価値というのは、社会の常識や社会の正しさを守っているということによって判断されるものではない。人間の価値というのは、神にいのちを与えられて、今ここに生かされて、存在していることによるのだ、という神のおもいを伝えたということです。つまり、この世とは異なるものさしを主イエスは示したのです。
生産性のあるなしによって、人間が判断される。効率性のあるなしによって、人が測られる。これが今の社会、この世のものさしです。能力や生産性のあるものは、一人の人間として生きている意味や意義があり、生産性のないものは、生きている意味や意義がない。そんなことおかしい。能力や生産性をものさしにして人を判断するのはおかしい。そのように言葉でいうことは簡単です。しかし、この社会で生きることに適応出来ている者、生きづらさを感じながらも働いたり、生活することができている者は、無意識のうちにこれまで生きてくる中で、「能力や生産性のある者に価値があるというもの(、、)さし(、、)」を身に着けてきているのです。そのようなものさしが自分の身体に染み込んでしまっているということに、みなさんはお気づきになられているでしょうか。
もう少しいえば、社会に適応できている、路上生活をすることなく、一食の食事を貰いに来ることなく生きることができているのは、ある種の「特権」を持っている。当たり前に社会で生きているということ、社会に適応できているということは、当たり前ではない。「『できる』という特権」を持っているといえるのです。やりたいことを選択し、好きなことが出来る。自己決定できる。教会に行くことができる。それは当たり前のようで当たり前ではなく特別なことであり、そのように「『できる』状態にある」からこそいえるのです。わたしたちが身に着けてきた効率や生産性のものさしは、主イエスの伝えられた神の国の現実とは大きなへだたりがあります。わたしたちは、この世のものさしとは異なるものさしがあることを、恐れずにいうことができるでしょうか。
「共苦のコミュニティ」
きょうの福音には、主イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。「憐れみ」、これこそが主イエスを町や村を残らず回り、諸会堂で教え、ありとあらゆる病気や患いをいやす行いへと突き動かした源となったものです。「憐れみ」、英語でいうとコンパッションですが、コンは、共にという意味で、パッションは苦しむという意味です。つまり、共に苦しむことが、憐れみであり、いつくしみなのです。神はわたしたちと共に苦しむ神である。このことを主イエスはことばと行いを通して示されました。
そして主イエスは、苦しみを共に担うという態度をとることによって、他者とつながっていきました。主イエスは、病人や障がい者、女性や子ども、徴税人や娼婦たちのような当時の宗教的また社会的価値観によって周縁に追いやられ、孤立し、最底辺に生きていた人びとのもとへと赴きました。そしてその人たち苦しみを共に担い、その人びとを共に生きるつながりへと招いたのです。そして、ご自身も十字架刑で政治犯として殺されることによって、主イエス自ら苦しみを被る者となったのです。このような主イエスの「苦しみの共有(com-passion)」によって、「共苦のコミュニティ」と呼ぶべき交わりの輪が形成されていったのです。
新約聖書には、主イエスが痛み苦しむ人を見て、深く憐れんだとの書かれているところが12か所あります。深く憐れむと訳された原語は、「はらわた」にあたる言葉です。主イエスは目の前の人の苦しみに共鳴し、自らの内臓を打ち震わせました。主イエスのCompassion(共に苦しむこと)は、支援者が困窮者に対して抱く、上からの目線の感情ではありません。互いが持つ人間の限界や脆さにおいて、主イエスは内臓を打ち震わせたのです。脆さや傷つきやすさを持つわたしたち人間が、人生を生きる上で被る苦しみに、主イエスは、はらわたを痛めたのです。
人間として互いの持つ弱さや脆さが、となりびとへの通路となり、となりびとと響き合う接点となります。普通に考えれば、苦しみを分かち持つことに希望など見出すことはできません。しかしながらそのときには、人は孤独であり、孤立しているのです。けれども、人間誰しもが持つ弱さや脆さが、人と人をつなぐ通路となる。そこに身体や苦しみにおいて通じた関係性、つながりが生まれるのです。天に向かうことに救いを求めるのでなく、わたしたちの生きるこの現実の只中で、苦しみ、痛み、傷つく人間が苦しみにおいて通い合うときに現れる共同体。その共同体が、困難な状況を生きることを可能にする場となる。このように苦しみを分かち持つ場こそが、教会というコミュニティなのではないかとわたしは思います。
「いつくしみの注がれるところ」
きょうの福音は、徴税人マタイを弟子にする箇所と、指導者の娘とイエスの服に触れた女性のいやしの奇跡物語が選ばれています。これらの箇所からわたしたちは、主イエスが伝えた神のおもいはどこに向けられているのかを知ることができます。それは、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」という言葉に表れています。聖書における罪びとという言葉は、何か犯罪を行った、悪いことをした人というよりも、根本的には神との関係・つながりから離れてしまっていることを意味します。つまり神との関係・つながりから離れてしまっている者に、神のおもい、神のまなざしは向かっているということです。
主イエスの時代においては、徴税人、娼婦、病人、障害者、貧しい人たちは、神に見捨てられた、神から切り離された、神から遠く離れた存在であるとみなされていました。そして本人たちもそう感じざるを得ませんでした。そのような罪びとと呼ばれる彼らに、神のおもいは向けられている。神のまなざしは注がれている。神のいつくしみが注がれている。そうきょうの福音は伝えているのです。
それでは、このようにきょうの福音を聴く現代を生きるわたしたちに、きょうの聖書箇所は何を語りかけているのでしょうか。「あなたもひとりの罪びとであることを自覚しなさい」そう語りかけているのでしょうか。確かにきょうの福音から、わたしたちが神と人との関係をどう生きているのか、と問いかけられているでしょう。けれどもここで大事になるのは、「わたしが求めるのは、慈しみであって、いけにえではない」というみ言葉です。
自分が神に背く罪びとであるということを自覚するということは、これまでに自分がした何か悪いことを反省することではありません。また自分は罪びとだからと悔い改めて、神の言いつけ通りに、道徳的に正しい人になるように努力することでもありません。大切なことは、自分が神のいつくしみから離れているというのは、いったいどういう状態のことなのか、を深く考えてみることです。
神にまた人に認めてもらうために、正しい人間になろうと、またできる人間になろうと必死に努力する。頑張る。これは一見正しいように見えても、実は自分で自身のことを傷つける、犠牲にする、自分自身をいけにえにすることであるかもしれません。いけにえという言葉は、ささげるとか、切り取る、燃やし尽くす、殺すという意味です。神はいけにえではなく、いつくしみを求めている。それではいつくしみとは何でしょうか。それはかわいそうに思うことではなく、きょうの福音で主イエスが示しておられるように、「目を留めること、まなざしを注ぐこと」です。自分はまだ足りない、もっともっと頑張れ、ということは、自分に無理強いをする、自分をいけにえにすることです。そうではなくて、自分の足りないところや、弱いところ、ずるいところに、目を留めること、まなざしを注ぐこと、自分にはそういう部分があると受け止めることが、いつくしむということなのでしょう。
「あなたと共に主イエスはおられる」
きょうの福音は、マタイ福音書の結びの部分、大宣教命令とも呼ばれる箇所です。主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」といわれます。それでは、いま信徒の減少、高齢化、財政のひっ迫という課題を抱えるわたしたち教会は、主イエスの「すべての民をわたしの弟子にしなさい」ということばをどのように受け止めたらよいのでしょうか。
ご存じのように、日本のキリスト教人口は1%未満ですが、ミッションスクールなどを通じて、多くの人がキリスト教に接する機会があります。これまでのキリスト教への入信のモデルは、洗礼を「ゴール」とする一本道でしたが、洗礼を受ける人が少ない日本においては、このモデルをそのまま適用することがはたして本当によいのかと、という議論があります。たとえ洗礼を受けていなくても、礼拝に参加することを肯定的に捉え、教会活動に関わっている人もいます。ですから、洗礼というゴールに到達しないことを「失敗」と見なすのではなくて、洗礼を受けなくてもキリストの教えと共に歩む人々を肯定的に受け止めるべきであるということです。よって入信を一本道ではなく、「遠回りや、休息をも含む多様な道のり」として理解する。そして、教会はその長い旅路を急かさずに、忍耐強く伴走し、サポートしていく姿勢が重要ではないかということが議論されています。
わたしたちは、自分たちのしている働きや教育を、いつか実る働き、「種まき」だと考えてはいないでしょうか。さきほど申した長い忍耐の道のりも、いつか受洗してクリスチャンになるための「種まき」である。では、「種まき」は、何を期待しているのでしょうか。実を結ぶという結果です。キリスト教に入信する。洗礼を受けるという未来、ゴールです。このように、表面上はあなたに忍耐強く伴走しますという態度を見せていても、わたしたちの心のなかにある、洗礼を受けさせたいゴールに導きたいという思惑を、未信徒の方、またみなさんのお子さんやお孫さんは、敏感に嗅ぎ取っているのではないでしょうか。もちろん、幼い日、若い日の経験や記憶は、のちに活かされるという側面を持っています。しかし、実を結ぶという結果やゴールばかりが意識され、主イエスのことを伝える目的を、未来のこととしてしまうことに、わたしは違和感を覚えます。
きょうの福音で主エスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といわれます。それは、世の終わりに、またわたしたちが世を去るときに共にいるようになるということではありません。今、ここで、わたしたちと共におられるということです。よって、わたしたちは、日々関わる人びとのなかに、こどもや学生のなかに、未信徒の方のなかに、みなさんのお子さんやお孫さんのなかに、共におられる主イエスを見ることができるか、と主イエスに問いかけられているのではないでしょうか。それは相手の、今、ここに在る生を、いのちを尊ぶことができるか、ということだとわたしは思います。そしてそれはきっと自分の努力によるものというよりも、自分の思惑や意図を超えた聖霊という愛の力によって可能になるのです。すなわち、「種まき」や「未来の結果」という思惑をわたしたちが手放したときに、わたしたちのうちに聖霊の息吹、いのちの息吹が吹き込んでくるのではないかとわたしは思います。
「キリストの『道』を生きる」
復活日から50日目である聖霊降臨日の聖書箇所、使徒言行録2章、ヨハネ福音書20章は、異なる角度から「宣教する教会の誕生」を伝えようとしています。どちらも、弟子たちが恐れることなく、聖霊によって、すなわち自分の思いを超えた力や促しによって、イエス・キリストについて、イエスの伝えた愛とゆるしについて宣べ伝えるようになったと伝えています。
みなさんは、宣教や伝道という言葉をどのように理解されているでしょうか。1960年代以降、個人的な回心という色彩の強い「伝道」という言葉に代えて、社会的な広がりを念頭に置いた「宣教」という言葉が意識的に用いられるようになりましたが、わたし自身は道を伝える者、また教えを宣べ伝える者の「在り方」というものが、わたしたちの生きる現代において、問われているのではないかと考えています。宗教は怖い、あやしい、うさんくさい。宗教に対して、このような感覚を持っている人が多くいます。このような風潮が広まったのは、1995年のオウム真理教の地下鉄サリン事件や、2001年9月11日のアメリカでのイスラム過激派の同時多発テロ事件が転機となったのかもしれませんが、それ以前から「宗教はあやしい」と思わせるような伝え方を、宗教教団はしてきた側面はないでしょうか。
わたしは、キリスト教は一つの「ライフスタイル」であると捉えています。つまり、わたしがより生きやすい、より豊かに生きることができると考えている「生き方」であるということです。日本聖公会の初代主教のウィリアムズ主教の有名な言葉で、「道を伝えて、己を伝えず」という言葉がありますが、キリスト教はそもそも「道」である。キリストを生きる「道」こそが、キリスト教である。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」といわれました。しかしながら、宗「教」であり、キリスト「教」、であり、「教」会、「教」派、牧師の説「教」、宣「教」。このようにキリスト教会においては「教」という言葉が、ふんだんに使われています。この「教」、「教え」という言葉は、一方に教える者がいる。知っている者がいる。他方に教わる者がいる、知らない者がいるという構図を連想させます。つまり教えを知っている者が正しい、えらい、上にいる。教えを知らない者は間違っている、かわいそうである、下である。このような印象を与えないでしょうか。
弟子たちが、主イエスに愛され、ゆるされたと深く悟ったことを他の人に伝えようとしたとき、自分たちは失敗を繰り返す弱く、不完全な人間であるということを隠さずに、ゆるされた、弱い人間として、もう一度主イエスと共に生きようとしているのだと、生き方としてのキリストの「道」を実践していこうとしたのでしょう。ですから、わたしたちの教会の宣教は、大きさや高さや強さやを求めることではなく、主イエスのご生涯がそうであったように、わたしたちが、小ささや低さや弱さにおいて、どうやって他者にひらかれていくかということではないでしょうか。
己がひらかれて、他者との関係、つながりが回復される。それは、それは自分の思いを越えた、神の働きとしか表現できないような体験ではないでしょうか。このように自分の思いを超えた促しによって、自分がひらかれる、他者とつなげる働きのことを、聖書では「聖霊」と表現しているのでしょう。
「キリストのおもいと一つになる」
きょうは教会の暦においては、主イエス・キリストの昇天を記念する「昇天日」という祝日の後の主日になります。主の昇天という出来事は、弟子たちにとって、肉体的なイエスとの決定的な「別れ」の出来事でした。すなわち「死別」にも似た悲嘆の始まりであったともいえるでしょう。
これまで数年にわたって共に歩み、教えを受け、主イエスのさまざまな働きを目にしてきた弟子たち、そして十字架と復活の出来事を経験してきた弟子たちは、今や主イエスの姿を見ることができなくなり、この世の旅路を、弟子たちだけでこれから先も続けていくことになりました。しかしながら、主イエスは弟子たちに対して「さようなら」とはいいませんでした。きょうの福音は、ヨハネ福音書の十字架の受難を前にした主イエスが神に祈り始めた場面ですが、主イエスは弟子たちに別れを告げたのではなく、「父に弁護者である聖霊を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいてもらう」、そして「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためにこの世を去る、神のみもとへ行く」といったのです。
弟子たちが天を仰ぎ、呆然としていた時間、そして主イエスの姿が目で見ることができなくなった事実と向き合うようになったというのは、まさに彼らが自分たちの喪失と向き合い、新たな現実を引き受けていくための「喪の作業・グリーフワーク」の始まりでした。
そのようにして「喪の作業・グリーフワーク」の時間を過ごしていくなかで弟子たちは、主イエスの姿を見ることができなくなったこと、つまり、主イエスが天に昇られたことは、「単なる別れではなかった」と受け止め、意味づけるようになったのでしょう。主イエスの姿は直接見ることができなくなった。けれども、主イエスと弟子たちの関係は切れることなく、新たなかたちへと変わった。
主イエスが弟子たちに語りかけた言葉、主イエスの意思というのは、主イエスの姿を見ることができなくなった後も、弟子たちのなかに生き続けていました。主イエスが語った言葉通りに、主イエスが生きたように、主イエスの意思を弟子たちが生きようとするとき、そこには目には見えないけれども、主イエスが共におられる。そう弟子たちは実感するようになった。そして主イエスのことばを生きる。主イエスの意思を生きることにおいて、弟子たちは一つになろうとしたのでしょう。
主イエスは、さまざまな背景や、境遇や、考え方を持つ弟子たちが、自分の伝えた神の意思を生きるようになってほしい。主イエスの示した神の愛を行なうことおいて一致してほしい、そう主イエスは望んでいたのでしょう。そしてそこにわたしは共にいると。
主イエスの意思がわたしたちの中心にまで届く。わたしたちの中心に主イエスがある。主イエスがわたしたちひとりひとりを動かし、それゆえに主イエスにつながる。これが、わたしたち人間が、人間らしく、活き活きと生きるすべなのです。そして、それぞれお互いのうちに生きておられる主イエスを見出す。その人が、主イエスを生きようとしている、その姿を見出し、祝福する。これが、わたしたちが、キリストにおいて、一つになる。わたしたちがキリストのからだにつながっていたことを、再発見するということなのではないでしょうか。
「わたしたちのうちに働きかける力」
きょうの福音は、ヨハネ福音書における最後の晩餐の席での、主イエスの言葉です。この世を去るにあたって、主イエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉でありますが、主イエスは、「わたしは去っていくが、何らかのかたちでわたしはずっとあなたがたと共にいる」と告げます。何らかのかたち、というのは、聖霊というかたちであなたがたと共にいるということを約束されたのです。
キリスト教においては、三位一体の神、父なる神、子なる神、聖霊なる神を信じますと告白します。わたしたちは神のことも、主イエスのことも、そして弁護者である聖霊のことも、目で見ることはできません。しかし、確かにわたしたちのうちで、わたしたちに働きかける力、自分の思いを超えた、自分のものではない「神の働き」としか表現できないものが、自分のうちに働きかけている。そのように感じるとき、その働きかけは聖霊によると、キリスト教会は表現するわけです。これがきっと主イエスのなかで働いていた、神の働きではないか。主イエスを突き動かしていたのは、虐げられ疎外されていた人たちのところに主イエスを向かわせたのは、この力のことではないか。そのようにおもわせてくれるもの、それが聖霊です。
キリスト教においては、神のことを知るのは、主イエス・キリストを通して知ります。直接主イエスに出会うことのできないわたしたちは、聖書を読んで主イエスのことを知ろうとするわけですが、きょうの福音で主イエスは、わたしたちと共におり、そしてわたしたちのうちにいる聖霊によって、神のこと、主イエスのことを知ることができるといっているのです。そもそも「霊」という言葉は、風・息を意味する言葉です。古代の人々は「目に見えない力」を感じたとき、それを「霊」と呼んだのです。そしてその力が神から、すなわち自分の考えや思いを超える働きや力であるならば、それを神の力、すなわち「聖霊」というふうに言葉で表現したのです。
聖霊は、わたしたち自身を新しく造り替える働きや力のことです。よっていのちの息吹とも表現されます。息というイメージで聖霊が表現されるのは、吹きかけられる、働きかけられる。心の奥底からの「促し」を受ける。つまり、人間を活き活き生かすいのちの働き。生の働き。生命エネルギー。このようなイメージを「聖霊」という言葉で表現しているのでしょう。このような聖霊の働きを、ヨハネ福音書は「愛」という言葉で言い表しています。すなわち、わたしたちが「愛の力」にうごかされて行動するとき、それを聖霊がわたしたちのうちに働いている。神がわたしたちのうちではたらいている。神が共にいてくださる。主イエスが共にいてくださる、と言い表すのです。
「道すがらに見えるもの」
きょうの福音で主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれます。このことばを用いて主イエスがいっておられるのは、人生で大切なことというのは、最終的に目的地に到着することというよりも、道を進むその途上にある。人生の道を進むという、そのこと自体に、人生の意味を見出すということを主イエスはいっておられるのだと、わたしは受け止めたいと思います。
復活節第3主日で読まれました、エマオという村に向かう道すがら、復活のイエスが弟子たちと共に歩んでくださったように、わたしたちは肉体の死をむかえたのちにやっと復活のイエスに出会うわけではなく、人生の道のなかばで、復活のイエスと出会うのです。
人生の道を歩むとき、自分で決めた目標だけを見て、わき目もふらずにそこに直進していくという方法もあるでしょう。しかしながら、主イエスがいわれているのは、目的地に到着するまでの道のりにおいて、何が見えるのか、何に出会うのかを注意深く見て進んでいきなさい、ということなのではないでしょうか。
哲学者のショウペンハウエルという人は、『読書について』(1859年)という本で次のようにいっています。
「紙に書かれた思想は、一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが、歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」
聖書には、主イエスが残した足跡が記されています。主イエスのたどった道を見ることはできます。しかし、主イエスが社会に排除されていた人のところに向かった、その道の途上で何を見ていたのか、十字架へと向かう道の途上で何を見ていたのか、それをわたしたちが知るためには、自分自身の目を用いる必要がある。すなわちそのことが意味するのは、聖書に書かれている事柄をそのまま信じればいいということではなく、主イエスが道の途上でいったい何を見ていたのか、それを想像しながら読むということです。そして私たち自身の置かれている状況に照らし合わせながら、聖書を繰り返し咀嚼することによって、わたしたち自身が主イエスの生き方を、自らの血肉としていくのです。
よって、父なる神のことを知る、救いを知る、キリストの復活を知るというのは、単に聖書を読み、礼拝に出ていればそれでよいというものでもなく、教義を信じればそれでいいということでもないわけです。実際にわたしたちが主イエスの道を歩いてみる。するとその道の途上で新しく見えてくるものがあるということなのでしょう。
「今、ここにある豊かさ」
きょうの福音は、復活して今このとき生きておられる主イエスとわたしたちの「かかわり」について、思いめぐらすための箇所が選ばれています。「わたしを通って入るものは救われる」というのは、主イエスを通って神の国に入る。そして「門を出入りして牧草を見つける」というのは、主イエスがわたしたちを豊かないのちに導かれる。そのことを示しているのでしょう。それではみなさんは、復活して今このとき生きておられる主イエスに出会って、どのようにみなさんご自身の生活が、ご自身のいのちが、豊かになったとお感じになられているでしょうか。
わたしは主イエスに導かれ、人との出会いにひらかれました。また人生におけるよろこびというのは、苦しみや悲しみと分けることができないということ、自分の思い通りにはならない苦しみや悲しみを避けようとするならばよろこびを味わうことができないということを知りました。このような豊かさというのは、キリスト者にならなければ味わうことのできなかった豊かさでなかったか、とわたしは感じています。わたしは妻の死というものに直面して、人間とは有限であり、老いや病に対して無力で、弱く痛む存在である、という視点からものごとを見るようになりました。その視点から見ますと、あって当たり前の日常の中には、実は新しいものがあると思えるようになります。このように日々の日常をみる見方が変わる。当たり前が当たり前でなくなるというのは、「今、ここにある豊かさ」に目が開かれることなのだとわたしは思います。
しかしながらわたしたちは、肉体の死が近づかなくとも、豊かないのちの牧場へと導いてくれる羊飼いの声を知っています。けれどもこの羊飼いの声というのは、大声で叫ぶ声ではありません。わたしたちの耳に届く大きな声というのは、「過去を後悔しなさい。明日のことを心配しなさい。明日を思い煩いなさい」という声です。ですからわたしたちは主イエスの声を聴き分ける必要があるのです。人生のあらゆるときに、主イエスの声を聴き取る機会が与えられていることに気づく。そのことがとても大切なのです。主イエスの声はとても静かで小さな声です。耳を傾けなければ、愛の声はわたしたちに聴こえません。わたしたちは、祈りのうちに静けさのなかに留まって、「あなたはわたしの愛する子」という声を聴くのです。静けさのなかで、今ここにあるいのちを感じるのです。わたしたちはその声に信頼して、その声に従うことができるでしょうか。静けさのなかで耳を傾けるならば、わたしたち一人ひとりの名を呼ぶ声は、次第にはっきりと聞えてくるようになり、「今、ここにある豊かさ」を感じ取ることができるようになるのだとわたしは思います。
「主イエスのみことばに触れる」
復活節第3主日のきょうの福音も、「復活のイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。きょうのルカ福音書の物語は次のようなものです。二人の弟子が話し合い、論じ合いながら、エマオ村へと向かっています。とても落ち込んでいた二人は、主イエスが傍らを共に歩いてくださっているのにもかかわらず、全く気がついていません。そして声をかけられると、暗い顔をして立ち止まりました。このとき二人の目はまださえぎられたまま、復活のイエスとの出会いには至っていません。そこで弟子の一人のクレオパが事情を説明しました。イエスこそ自分たちをローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれるメシアだと期待していた。けれども、そのイエスが十字架刑で殺されてしまった。そして三日後の早朝に墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と伝えた。それを聞いて弟子の仲間が行ってみたが墓は空だった。これらの「情報」は、二人を困惑させるだけで、このように「情報」を知るだけでは、復活のイエスとの出会いは起きないというのです。
すると主イエスが、旧約聖書全体に基づいて、メシア救い主の受難と栄光(復活)についての解き明かしをしました。これは、実際に弟子たちが、旧約聖書を読みながら、イエスとはいったい何者であったのかを、旧約聖書のなかに探し求め続けたということが物語に反映されているといえるでしょう。つまり、苦しみを受けて栄光を受ける、すなわち受難を通って新しいいのちにいたることを主イエスご自身から聴く。そして主イエスと共に一緒に食事の席に着く。するとその人が復活のイエスであると分かる、ときょうの物語はいうのです。
不思議な物語に聞こえますが、この物語がわたしたちに伝えたいことは、わたしたちが復活のイエス、すなわち今このとき生きておられる主イエスに出会う。主イエスが今わたしと共にいてくださると気づくのは、聖書に聴くときである。また主イエスと共に食事の席に着くときである。すなわち聖餐に与るときに、今このとき生きておられる主イエスが共にいると気づくというのです。いかがでしょうか。みなさんのこれまでの体験の中で、このような主イエスとの出会いがあったでしょうか。みなさんの人生の旅路において、絶望しているとき、悲しんでいるとき、孤独を感じているとき、聖書のみことばが、心の奥に入ってきて、光が自分のうちに灯る。そのような体験があるでしょうか。また福音書の主イエスの受難物語、そして復活物語を通して、主イエスが今まさにわたしと共におられる、と腑に落ちた体験はあるでしょうか。
わたしは妻が亡くなって、彼女にしてあげられることが何もなくなり、お祈りならばできると思い、聖ルカ礼拝堂の夕の礼拝に行くようになりました。そこで耳にした聖書の言葉、復活とか、魂とか、霊とか、永遠の命とか、死んでも生きるとか、そのような聖書の言葉がわたしの心にとまりました。そんなことが本当にありえるのか、これらの言葉は何を意味しているのか。そのようにして聖書の言葉に引き付けられて、気づけば聖職を志し、今に至っています。わたしは正しい答えや、自分の納得のできる答えを聖書に提示されたから、この道を進むようになったというよりも、むしろ何がなんだかわけがわからなくて、聖書が何をいっているのか、分かりたい・理解したいと思って探求してきた「過程・プロセス」が、知らぬ間に今に至らせてしまった。答えが与えられたから、みことばによって平安が得られたから、というよりも、探求すること、そのプロセスに集中すること、それによって他のこと、絶望とか死ぬこととか余計な事を考えなくて済んだ。だから前に進むことができました。ですから、聖書には正しい答えが一つありますという形ではなく、聖書は問いに開かれているということ、そして答えや救いにいたるまでのプロセスそのものこそが人生の旅、信仰の旅である。聖書に尋ね、求めるそのプロセスそのものに、神は、そして復活のイエスは共におられるだとわたしは思います。
「ゆるされた弱い人間として」
主イエスの復活の物語で特徴的なことは、復活のイエスに出会ったのはイエスの弟子たちだけであったということです。主イエスはピラトにも、ヘロデにも、大祭司や議員たちにも、ファリサイ派や律法学者たちにも復活の姿を現してはいません。つまり復活のイエスとの出会いとは、特別に弟子たちだけが体験した出来事だったのです。誰の目にも、はっきりとした姿で、大勢の群衆の前で、姿を現し続ければ、すべての人が主イエスの復活を簡単に信じたのではないでしょうか。けれども、そうではなかった。ということは、復活のイエスとの出会い、今このとき生きている主イエスとの出会いの体験とは、イエスの弟子たちだけにとって「意味のあるもの」であったということができるでしょう。
十字架にかけられるイエスに失望し、またイエスについていくことができなかった自分にも失望し、絶望していた弟子たちにとって、復活したイエスとの出会いとは、「ゆるしの体験」であったときょうの物語は伝えます。主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちは、主イエスに従わなかったのですから、イエスの弟子であることにおいては失格者でした。しかし、現れたイエスは弟子たちを全く責めなかったのです。責めるどころか、彼らを再び弟子として受け入れ、「自分たちがゆるされたように、人をゆるすように」という使命を与えて、弟子として新たに派遣したのです。
ですからわたしたちが復活のイエスに出会うというのは、わたしたちが「ゆるされた存在である」ことを受け止めるということでしょう。見ないで信じるとは、「わたしたちは主イエスにゆるされた」このことを信じることです。それではわたしたちは何をゆるされたのでしょうか。それはわたしたちが、苦しむイエスを見捨てて、自分を守るために逃げてしまうこと。すなわち隣で苦しんでいる人を見過ごしにして自分のことを優先させてしまう、そういう人間としての「弱さや脆さを持つ者である」ということをゆるされた、ということでしょう。ゆるしとは、過去を全くなかったことにするのではありません。人間は罪びとである、すなわち人間は過ちを犯す。完璧ではない。わたしたち人間は神ではない、ということをゆるすということです。人をゆるすというのは、相手が自分の思い通りに、こちらの期待通りにしてはくれないことをゆるすということです。
復活のイエスに出会った弟子たちは、自分を開いて素直に語り合い、自分もあなたと同じ人間である。自分も弱さや限界を持ったひとりの人間であることを互いに認め合うようになったのです。こうして弟子たちが復活したイエスと出会った出来事を伝えようとなったときに、起こった出来事の事実性だけを伝えようとしたのではありません。自分たちがどんな失敗をしたか、どんなにみじめで絶望的であったか、その体験を包み隠さず、ありのままに語ったのです。それにもかかわらず、そんな自分たちだけれども、いまはこのように、ゆるされた者として、主イエスがわたしたちをゆるしたように、我々もゆるしを生きようとしている。我々がゆるしを生きるときに、わたしたちは復活のイエスと共にいる。そう弟子たちは伝えたのでしょう。
「復活の証人として」
マタイ福音書28章1節から10節は、豊かなイメージを用いて、主イエス・キリストのご復活の出来事を伝えています。地震が起こり、稲妻のように輝き・雪のように白い衣を着た天使が天から降ってきて、主イエスは墓の中にはおられない。復活されたことを告げます。このような象徴的な言葉や表現によって、神の力の現れを伝える。すなわち当時の黙示文学とよばれる文学表現を用いて、マタイ福音書は主イエス・キリストの復活を伝えているわけですが、復活を信じるということは、このように福音書に描かれた出来事が文字通り起こったということを信じるというよりも、「主イエス・キリストは今このときわたしたちと共に生きておられる」ことを信じるということなのであります。キリスト教における復活信仰の重要な点というのは、「主イエスは生きている、そしていま私たちと共にいる」という現実・リアリティを言おうとしているということです。今わたしたちと共に生きている主イエスは確かに十字架にかけられて死んだのだから、何らかのかたちで死の状態から立ち上がった、復活したと表現せざるを得ません。ですからよく「死んだ人はわたしたちの心のなかにいる」と表現されるような、心のなかによみがえるというような内的な体験以上に、リアルに、今このときを主イエス・キリストと共に生きている。このことを福音書は伝えようとしているといえるでしょう。
主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」といいました。つまり復活というのは、死後の世界で具体的にどうなるのかということではなく、神と主イエスとのつながりのいのちを、今も、そしてこれからも、肉体の死を迎えた後も、生きることなのです。主にあって、主につながって生きる。それは今このときから、そしてこれからも、また肉体の死を迎えたのちも、主につながって、主とのかかわりを生きる。これが復活です。
よって、わたしたちは2000年前に起こった不思議な出来事に驚くためにここに集っているのでもなく、肉体の死を迎えたら天国という具体的な場所に行くということを信じるためにここに集っているのでもありません。新しい生活を生きる。新しい人生を生きる。新しい現実を生きる。新しい関係を生きる。そのために、わたしたちはここに集い、心を新たにしようとしているのです。ですからきょう主イエス・キリストのご復活を祝うわたしたちは、主イエス・キリストの復活の証人として、「いまこのとき生きておられる主イエスとわたしたちは共に生きている」このことを生き方、生き様によって伝えるようにとここに集められているのです。
「死をみつめるとき、神をみる」
きょうは復活日の一週間前の主日にあたり、主イエスのエルサレムの入城と主イエスの受難を記念します。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどであった主イエスの受難の姿を伝える物語を、わたしたちは「目覚めながら」聴くことができるのでしょうか。むごたらしく処刑される主イエスの姿を見つめることができるのでしょうか。それとも弟子たちと同じように、目を背け、この場から逃げ出すのでしょうか。
救いは十字架を受け止めることによってくる、と福音書は伝えています。苦しみから目をそらし、死に目をつぶるのではなく、苦しみや死と向き合いながら、苦しみや死をみつめながら人生を歩むとき、神を見る。苦しみや孤独のどん底にいるとき、誰からも見捨てられた、そうとおもうときに、いやそういうときにこそ、「あなたはひとりではない。わたしがあなたのその苦しみを、その孤独を、死を、共に持ってあげよう」といってくださる十字架にかけられた主イエスとわたしたちは出会う。そう福音書は伝えているのではないでしょうか。
この苦しみから逃げ出したい。自分の死は見ないでおきたい。そのように思うのは当然のことだと思います。しかしながらわたしたちは、苦しみや死にひとりで向き合うのではないのです。それがどれだけ辛く、大変なことか。信用していた人から見捨てられるのがどんなに悲しいことか。主イエスは、わたしたちに先立って、骨の髄まで味わわれました。わたしたちの辛さ、痛み、悲しみを主イエスは知っておられるのです。
苦しみや死を明らかに見る態度・姿勢は「愚か」なことであり、すぐに苦しみからの解放を求めないのはおかしなことかもしれません。しかし、目の前の苦しみを、世の知恵によって受け止めるのか、神の知恵によって受け止めるのか、をわたしたちは問われているのです。避けることのできない、何でこんなむごいことが起こるのか、神なんていないではないか、ということが現実には起こります。そのような中にあっても、思い通りにならない苦しみ、死をも含むわたしたちの人生をなんとか生き抜いていく。そのための知恵を主イエスは示してくださったとわたしは信じています。
苦しみを苦しみとして、死を死として明らかに見ようとする態度こそが、キリストに従う者となることだとわたしは考えます。なぜわたしたちは、苦しみや死と向き合うのか。それは、一人だけで苦しみや死を明らかに見るのではないからです。苦しむ人と共に苦しみ、共に苦しみのなかに光を見出し、共に喜びのなかで喜ぶという、つながりにおいて、活き活きと生きる人間らしさ・人間性を生きるためなのです。
「主イエスに生きるいのち」
キリスト教信仰の中心は、主イエス・キリストが十字架上で死に、そして復活したことです。しかしながらこの復活信仰は、「肉体的な死からの蘇生」を信じるものではありません。よって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という主イエスのことばの解釈が重要になります。
きょうのラザロの物語のなかで、一言も発することなく、ただ主イエスの呼びかけに応えて、墓から出てくるラザロに自分自身を重ねあわせてみましょう。主イエスによって死からいのちへと呼び出される。きょうだいの愛と祈りに支えられ、主イエスを信じる者として、死からいのちへと呼び出されるのは、わたし一人ひとりなのです。死からいのちへと呼び出されるというのは、肉体的な死から息を吹き返すという意味ではなく、神と人、あるいは自然や被造物とのかかわりが断絶している状態から、神と人、自然や被造物とのかかわりが主イエスによって回復される。これを主イエスは、「いのちを得る」「永遠のいのち」と言い表しているのでしょう。よって「生きていてわたしを信じる者は決して死なない」というのは、この世の命に終わりがないという意味ではありません。主イエスを信じることを通して与えられる神のいのちとのかかわりは、この世の命の終わりによって途切れることはないという意味です。そしてこのことを信じることが、神のいのちへと復活した主イエス・キリストを信じることでしょう。
きょうのラザロの物語には、主イエスとマルタとの生き生きとした関係、対話が描かれています。マルタは、主イエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といって、主イエスに自らの悲嘆をぶつけています。これは主イエスに信頼しているからこそ、心からの嘆きをあらわにできたのでしょう。しかし、イエスはこの信頼を試すかのように対話を続けます。そして最後に「生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問いかけるのです。するとマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、ここで主イエスへの信仰を告白します。
彼女はラザロの復活を見たから信じたのではありません。ラザロは死んで墓に葬られている現実を目の前にして、マルタは主イエスへの信頼を告白したのです。すると主イエスはそのマルタに、ラザロの復活というしるしを示した。つまり主イエスがしるしをなさったのは、それを見て人々が信じるようになるためではない。見ないで信じる者に対して、主イエスは救いを示してくださる。そのことを伝える物語なのです。
「孤独(ソリチュード)に目がひらかれる」
主イエスの生きていた当時のユダヤ社会においては、「病気や障害は罪の結果である」という理解がありました。もしかしたら、わたしたちが生きる今の社会においても、これに似たような考え方があるかもしれません。弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないので、「それでは両親の罪の結果なのだろうか」と考えたのです。しかし主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」といいます。「え、障害は、神の業が現れるためなのか」「自分の力を見せつけるために神はそんなことをするのか」とお思いになるかもしれません。「ため」というのは原因や目的を説明しているのではありません。主イエスはこれからその人に起こる出来事、つまり未来に目を向けています。主イエスの関心は、これから先、神はこの人に何をなさるのか、というところにあるのです。
生まれつき目の見えない人は、暗闇のなかにいました。孤独のなかにいました。しかし、主イエスに「目が見えないのは罪のせいではない」といわれ、主イエスに触れられました。これまで自分はずっと暗闇のなかにいると思っていた。孤独だと思っていた。けれどもそうではなかった。「自分は孤独に見えるが、実は孤立しているわけではない」ということが見えるようになった。言い換えるならば、孤独を見る見方が変えられた、と解釈できるとわたしは思います。孤独の中で、自分の脆さや限界を見つめながらも、実は暗闇のなかに、孤独のなかに、いのちの光があることが、見えるようになった。そのように言えるのではないでしょうか。
カトリックの司祭で霊性の指導者として知られるヘンリ・ナウエンは、孤独をlonelinessロンリネスとsolitudeソリチュードと使い分けて表現しています。日本語でいえば孤立と孤独と訳し分けられます。つまりそれは孤独というものを異なった見方で見ているということです。ナウエンは、独りきりになること、ソリチュードの大切さを強調しています。ナウエンは「ソリチュードがなければ、霊的な生活つまり神と共に生きる生活は事実上不可能である」といいます。わたしたちの生きている社会は、競争社会です。できる者が生き残り、できない者は排除されていく社会です。競争社会はわたしたちを孤独に追いやります。わたしたちは孤独に直面しないためにあらゆる手段を講じて、孤独から逃げようとします。孤独を見ないものとしているのです。孤独を見ないようにするために、懸命に仕事をし、友人と食事をし、テレビを見、スマホをずっと見ています。
わたしたちはこれから主イエスの十字架の道行を黙想していきます。主イエスが死刑宣告され、弟子たちに見捨てられ、茨の冠をかぶせられ、十字架を負わされ、身ぐるみはがされて、十字架に釘で打ち付けられる。この歩みを黙想していますと、主イエスはどんなに孤独であっただろうか、と感じます。しかし、主イエスは孤独のうちにあっても、自分の深いところに呼び掛ける、神の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴こうとしていたとわたしは想像します。暗闇のうちに、孤独のうちに、われわれには見ることのできない光を、孤独のうちにも神が共におられることを、主イエスは見ようとしていたのではないでしょうか。
「『いのちの可能性』という水」
主イエスは旅に疲れて井戸に腰をおろされ、サマリアの女性に「水を飲ませてください」といいました。主イエスは奇跡をおこす超人ではありません。主イエスもわたしたちと同じで、疲れるし、喉も渇くのです。そのような主イエスが、彼女に水を飲ませてください、つまり主イエスは、サマリアの女性に「水をください」といって、ファーストコンタクトをとりました。あなたをわたしが救ってあげよう、といって主イエスは近づいたのではなかったのです。すなわち何かを与える者として近づいたのではなく、主イエスは何も持たない者として、サマリアの女性に近づいたのです。つまり自分が与えられる者として、ケアを受ける者として、この女性とかかわろうとしたのです。
ずっと満たされないおもいでいた。みんなからさげすまれ、避けられていた。そんな自分に目を留めて、呼びかけてくれる人がいた。そして自分のことをサマリア人としてでもなく、5人と結婚した女性としてでもなく、誰かに水を与えることのできる、誰かを助けることのできる一人の人間として、主イエスに見出された。みなさんがサマリア人の女性であったとしたら、どのようなきもちになるでしょうか。
主イエスは、そこで出会った人を、サマリア人としてでも、女性としてでも、誰かの妻としてでもなく、そこに「生きて在る」一人の人間存在として、目を留められた。そして、一人の人間存在として、すべての人間のなかにある(眠る)「可能性」を主イエスは見ていた。その可能性というのは、すべての人のなかに眠っている「いのちの可能性」、誰かに何かを与えることのできる可能性、誰かの役に立つことができる可能性、かかわりを生きる可能性、愛を生きる可能性、これを主イエスは、このサマリアの女性のなかに見ていたのではないか、とわたしは思います。あなたが何かを与えることが、つながりをつくる。そのかかわり、つながりこそが、わたしたち人間を活き活きと生かす「いのちの水」となる。このことを主イエスは、かかわりにおいて、サマリアの女性に気づかせようとしたのではないでしょうか。
サマリアの女性は、「自分の存在を認めてくれる人がいた。自分の心の奥底に触れてくれる方と出会った」と実感した。このような出会いのよろこびが、サマリアの女を変えることになったのでしょう。主イエスは、サマリアの女性とのかかわりにおいて、いのちの可能性を引き出しました。わたしたちのうちにも、そのいのちの可能性が眠っています。そのことにみなさんは気づいているでしょうか。それは、病を負っている状態であっても、年をとっていても、いのちの可能性は花開く。主イエスにわたしたちの存在が受け止められることによって、「いのちの水」がわたしたちのうちに豊かに湧き出すようになるのです。
「『いのち』の次元で響き合うコミュニケーション」
当時の宗教的指導者であったニコデモは、主イエスのことを「神のもとから来られた教師」であると考えていました。それは主イエスが教師以上の者であるとは理解していなかった。つまり主イエスのうちに働く神の霊を、ニコデモは感じ取れていなかったのです。それは、文字、律法の次元、すなわち人間の外面的な次元に留まっていた。人間を外側だけで判断していた。人間の思いを越え、人間の内側に働く、目には見えない聖霊、すなわち神の愛の働きを、主イエスのうちに見出していなかったということです。
主イエスを生かし動かしていたのは、内なる神の霊でした。聖書の霊という言葉には、風、息という意味がありますが、思いのままに吹く風に身をまかせるように、主イエスは父なる神のいのちの息吹、すなわち互いをつなぐいのちの働きに身をまかせていたのです。
文字、律法は、掟を真面目に守ることに専念させます。いわば文字の囚われとなり、「こうしなければならない」「このようにしているわたしは正しい」と、神と自分との関係だけしか見えなくさせます。そして他者を排除します。自分の殻に閉じこもっているので、決して傷つくことはありません。しかし、永遠に自分自身だけで楽しむ孤立者なのです。それは生きていても死んでいる。つながりのいのちを生きてはいないのです。
主イエスのうちに働く神の霊は「いのち」に呼びかけます。主イエスと出会った人たちと主イエスとの関係は、何を持っているか、何ができるかという人間の外面的なところでのかかわりではなく、「いのち」における対話、「いのち」が響き合うコミュニケーションがあったのです。つまり、掟や常識を守るか、正しさを生きるか否かで人を判断しなかったということです。「いのち」の次元を見つめ、すべての人がかけがえのない存在であると認めたのです。そしてその主イエスの「いのち」へのまなざしによって、主イエスに出会った人は、外面的な次元ではなく、神と人との「いのちのつながりの次元」を生きるように生まれ変わったのです。
このように、人の外面にとらわれることなく、深い「いのち」の次元にわたしたちをひらき、互いを通いあわせる神の愛の霊が、わたしたちのうちにも働きかけています。みなさんはそれを感じるでしょうか。もうわたしは年を取りすぎている。そのような外面的な次元に留まって、神のいのちの息吹の働きを妨げてはいないでしょうか。
人間の外面的なことに固執する自分に死に、外面的なものを脱ぎ捨て、「いのち」のつながりの次元をわたしたちが新たに生きるようになるとき、「霊によって生まれ変わった。肉によらず霊によって生きている」と言えるのではないか、とわたしは思います。
「十字架に隠された神を見る」
主のご復活のよろこびへと導く40日間の大斎節の期間は、古代教会においては洗礼志願者が、復活日の洗礼に向けて準備を行うために特別に与えられた期間でした。ですがこの大斎節は苦行の期間、厳しい修行の期間ではなく、恵みの時です。聖パウロが「今こそ、恵みの時、今こそ救いの日(Ⅱコリント6:1-2)」というように、キリスト者の人生観においては、すべての時は恵みの時、毎日が救いの日なのです。よって大斎節において重要なことは、「何をやめるか」という禁欲的に過ごすことによって賞を得ることではなく、「自分がどう変わるか」ということなのです。
目の前には「今や恵みのとき、今こそ救いの日」とは到底思えない現実がある。それにもかかわらず、「今こそ恵みの時、今こそ救いの時」である。このように気づく恵みが、この大斎節中に与えられるということなのです。
きょうの福音では、ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされた主イエスが、その霊によって荒れ野に導かれ、40日間悪魔から試みを受けます。荒れ野とは、見捨てられた孤独な状況、人間の無力な場をも意味します。この無力な場で、試みは一層強力になります。そこで「あなたは何者であるのか」「あなたは何によって生きるのか、自分の力によって生きるのか、それとも神によって生きるのか」と問われるのです。ですから荒れ野とは、自分が何者であるのかが問われ場であると同時に、神と出会う場、神の恵みに気づく場でもあるのです。
主イエスが退けた悪魔の3つの試み、それは神から離れて生きよ、すなわち自分の欲望を優先し、自分の必要や自分の関心事のみを生きよ、自己保全、自己顕示のために生きよ、という試みです。すなわち悪魔は容易な道を選ぶのか、それとも困難な道を選ぶのか、を試みたのです。主イエスが神の子であるのは、自分自身のために奇跡を行い、権力の座に着くからではない。神の意思を生きるからです。十字架への道がいのちへの道であることを示すから、神の子なのです。
大斎節の40日間は、主イエスと共に荒れ野に出かけ、試みに直面し、自分が何者であるのか問われ、苦しみと死に向き合う道です。このような道をみなさんは進みたいと思うでしょうか。キリスト教がこの現代社会を生きる人に受け入れられないのは当然です。なぜなら、一見全然良さような道ではないからです。信じればすぐにいいことがある、そういうものではないからです。ですから、苦しみのなかにあっても他では得られない豊かさやよろこびがある。苦しみの只中で、自分が何者であるかに気づく。これらのことを伝えなければ、クリスチャンが増えることはないのではないか、とわたしは思います。
「ヴァルネラビリティ(脆さ)が響き合う場」
きょうの福音は、主イエスの変容の物語です。主イエスの姿が光り輝いたというのは、主イエスが受難と死を通ってお受けになる、その栄光の姿が、前もって示されたことを意味します。つまり、輝きと受難は、表裏一体であるということです。
しかしながら、ペトロは主イエスのことを十分に理解していませんでした。主イエスに「あなたはわたしのことを何者だと思うか」と聞かれて、ペトロは「メシアです」と応えた。しかし主イエスが受難のことを話されると「主よ、とんでもない。そんなことがあってはなりません」といった。すると「わたしの邪魔をする者。神のこと思わず人間のことを思っている」という厳しい一言を主イエスにいわれてしまうわけです。
わたしが聖書ってすごいなと思うのは、このような弟子たちの理解の至らなさ、弱さ、失敗、人に話すには恥ずかしいと思うようなことが赤裸々に書かれているということです。のちにペトロは、主イエスに「はっきりいっておく。あなたは、三度わたしのことを知らないというだろう」と言われて、ペトロは「たとえ一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなんていいません」という。けれども主イエスが捕えられ、「あなたはイエスと一緒にいたでしょう」といわれると、「そんな人は知らない」といってしまう。
しかし後に復活のイエスとの出会いによって、ペトロは福音とは何か。メシア、救い主とはどういうお方であるのかをようやく知ることになりました。復活のイエスのペトロに対するまなざしは、告発するものでも、戒めるものでもありませんでした。「ペトロ、わたしはあなたがそういう者であると知っていた。そのように知りながらも、わたしはあなたを慈しみ、愛してきたのだ」とイエスはペトロにまなざしを注がれるのです。
ですからペトロは、「わたしは最初からイエスさまのことをよく分かっていた。イエスさまにいわれたことをすべて守ってきた模範弟子だからあなたたちにいうのだ」と高みから福音を伝えたのではないのです。主イエスはどんなときにもダメだと切り捨てなかった。わたしたちに関わり続けてくださった。だから主イエスと共にもう一度生き直そう。これがペトロの宣教の原点であり、福音のよろこびであったに違いありません。このように見てきますと、教会の原点というのは、人間の持つ弱さや脆さ、不完全さに自覚的になった者の集まりであるといえるのではないでしょうか。近年、社会福祉分野においてヴァルネラビリティ(Vulnerability)という概念が注目されてきています。ヴァルネラビリティとは「脆弱性、可傷性、傷つきやすさ」などと訳される言葉です。わたしは「ヴァルネラビリティの響き合う場所」、「弱さや脆さにおいて共に在るところ」が教会なのではないかと考えます。
「『すでに在る』から始める」
主イエスは、自分に従ってきた弟子たちに、また取り囲む群衆に、「あなたがたは地の塩となるだろう、世の光となるだろう」、あるいは「地の塩となりなさい、世の光になりなさい」といったのではありません。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けというのではありません。むしろ、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然である。つまり、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」このことばは今ある事実の宣言であって、予定でも命令でもないのです。
『「能力」の生きづらさをほぐす』などの本を書かれている、組織コンサルタントの勅使河原真衣さんという方がいらっしゃいます。勅使河原さんは2人目のお子さんが産まれてから、ご自身に乳がんがあることがわかりました。それまでバリバリ働いてこられたけれども、ご自身の人生を見つめ直すことになった。そこで「能力主義」というものを深く問い直すことになったというのです。
わたしたちは、努力しているとか、能力があるという価値観、勉強ができるとか、仕事ができるとか、コミュニケーション能力があるとか、そういう出来る・出来ないという評価軸によって測られる。このような「能力主義」である限り、「競争」というものは止まらず、人が「ただそこにいてくれるだけで、ありがとう」といった世界観で暮らしていくことができない。「能力」というものさしで人に序列をつけ、「個人」に分断し、「競争」で人々の不安をあおる。これを学校や社会でやりすぎている。そこから生まれるのは、生きづらさである。「有能」になることや、「競争」するために、人は生きているのではない。人と人とが組み合わさって、助け合うことが生きることである。だから、「あれが足りない、これが足りない」というのでなく、「もうすでに在る・有る」から始める。わたしたちが「もうすでに在る・有る」ことを認め合うならば、小さくても確実な一歩が踏み出せる。こう勅使河原さんはいうのです。「能力主義」を疑う。この勅使河原さんの言説をみなさんはどう思われるでしょうか。
光を輝かせるというのは、「清く正しく神の掟を守っている」と自負する、すなわち、できること・優れていることをアピールするのではなく、「もうすでにここに在る・有る」こと、すなわちわたしたち一人ひとりが愛され、ゆるされてここに在ることを輝かせることではないでしょうか。まず「もうすでに在る・有る」から始める。つまり、お互いに与えられたいのちを生きる。一人の弱い人間存在として、いつくしみ合うことから始める。するとそこに神の国があることが見えてくるのではないでしょうか。
「神の誠実」
今週の福音は主イエスが山上で説教した内容の冒頭部分で、8つの幸いと呼ばれている箇所です。心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、へりくだった人々は幸いであるとわたしたちは聞きますと、心の貧しいこと、悲しむこと、へりくだることが、幸いの条件のように聞こえます。しかし、原語の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々、霊において、なぜなら 彼らのものである、天の国は」「幸い、悲しんでいる人たち、なぜなら、彼らこそは、慰められるだろう」となります。すなわちこの説教の冒頭の言葉は、目の前に集まっている人々に向かって語りかける、「祝福のことば」なのです。祝福とは、今ここに在ること肯定する。そしてそのよろこびを共にするということです。そして、いのちの可能性が開花し、成長していくことを願うことです。つまり「あなたは今のままでよい、そしてこれからもよいであろう」という意味です。主イエスは、目の前にいる、病や貧しさで、他に頼るところもなく、主イエスのもとに切実なおもいで集っている人たちに対して、「あなたがたは幸いである」と語りかけたのです。
けれどもこんなにしんどいのに、どう考えても今を幸いだとはいうことはできない、なのになぜ主イエスは「幸いだ」というのでしょうか。それは、「天の国、神の国はあなたがたのものだから」です。神の国は近づいたのです。どうみても、いま神の国にわたしたちがいるとは思えない。神の国に近づいたとは思えない。けれど主イエスは、「喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」といいます。天に行けば、報いがある。神の国に行けるように頑張れば、大きな報いがあるというのではなく、神の国はもうわたしたちのあいだにある。幸いはこの現実の只中にある。このことに気づくのかどうか。すなわち悔い改めるかどうか。回心するかどうかなのです。
悔い改めるというのは、方向転換です。わたしたちは、今ある現実を「足りない、満たされていない」、すなわち「欠乏」という視点から見ています。ですから目の前の現実は自分が幸いであるには十分ではない。しかし神目線に方向転換する。神がすでにわたしたちを愛で満たしてくださっている。そういう「満たされている」「自分が幸いであるには、いま十分である」と視点を方向転換したら、今ある現実はどう見えるのでしょうか。神の義、誠実さが先にある。それをわたしたちが信じるか信じないかにかかわらず、神の愛が十分に与えられている。そのことを認識する、経験する。それを知ったとき、わたしたちの側には大きなよろこびが起こる。この神の誠実さ、神の愛を感じるのは、誰もが今だとは思わない、まさに悲しむとき、飢え渇きのあまり身をかがめて絶望しているとき、その苦しみの只中で、神の誠実さを感じる。だから今、幸いなのでしょう。
「呼ばれた者として」
今週の福音は、主イエスが4人の漁師を最初の弟子として呼ぶ場面です。「わたしについてきなさい」こう主イエスはいいます。これは、ちょうど主イエスが告げ知らせたばかりの、天の国、神の国への呼びかけです。
世界中で争いが起こっています。また地震などの自然災害が起こっています。このような現実のなかで、わたしたちは、救いや神の国を探し求めます。しかし、キリスト教において重要なことは、わたしたちが主イエスを探して見つける前に、主イエスはもうすでにわたしたちを見出してくださっているということです。つまり救い、また神の国というのは、わたしたちが探して見つける前に、神からすでに与えられているということなのです。わたしたちが主イエスを見つける前に、主イエスのほうが先に動いてわたしたちを見つけてくださる。呼びかけてくださるのです。
主イエスの呼びかけ、そしてわたしたちの応答は信仰においてなくてはならないものです。そして、主イエスの呼びかけに対する応答は、わたしたち一人ひとりに対する直接的なもので、他の誰にも代わりがきかないものなのです。他の人に代わって応えてくれ、とも頼めませんし、他の誰も自分に代わって応えようのないもの、それが主イエスの呼びかけです。ですから、信仰とは単に神が存在すると信じればそれでいいというものではありません。また誰かに言われたから信じるというようなのでもありません。自分と主イエスとを結ぶ直接的な関係が信仰なのです。「このわたしが呼ばれた」から始まるのです。
主イエスに呼びかけられたことのよろこびは、それが得られるなら何を捨てても惜しくないほどの、世に二つとない、最もすばらしい宝物を見つけた人のよろこびです。なぜそこまでよろこべるのでしょうか。それは、「自分が神に見出されたものである」ということを、イエスのまなざしで、イエスの呼びかけで知る。すなわち神から、わたしたちがどのように見られているかを、イエスを通して知る、からではないでしょうか。
みなさんは「あなたがわたしのところに来る前に、あなたのことを捜していたよ」「あなたがこれまでの人生頑張って生きてきたことをわたしは知っているよ」このように主イエスにいわれたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。自分の存在を認めてくれる人がいた。自分の心の奥底に触れてくれる方と出会った。誰にも目を留めてもらえない、こんなに頑張って生きているのに誰にも認めてもられない、そのように思っていたけれど、わたしは主イエスに見出された。そして主イエスに自分の存在を受け止めてもらった、こういう体験、出会いのよろこびが、すべてを捨てて、イエスの後に従う者へと変えるのだとわたしは思います。
「静まりに留まる」
ヨハネ福音書における主イエスの第一声は「何を求めているのか」です。主イエスについていきたい、そのように願う人が、最初に主イエスに問われるのが、「あなたは何を求めているか」なのです。それではみなさんは、主イエスに何を求めているでしょうか。
「何を求めているのか」という主イエスの問いかけに対して、二人の弟子の答えは「どこに泊まっておられるのですか」でした。このように彼らが尋ねたとき、単に主イエスの宿泊場所を尋ねたにすぎなかったかもしれません。「あなたの泊っているところにいきたい。あなたと一緒にいたい」という気持ちを表現したのかもしれません。しかしながらヨハネ福音書においては、泊まるという言葉は、ほかの箇所においても大切な使われ方をしています。「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である……わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」。また、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさい」。これら「泊まる」「つながる」「留まる」という言葉は、イエスが神のところに「泊まる」「つながる」「留まる」、そういう神と主イエスとの深い関係を表す特別な言葉だといえます。そうであるならば、「どこに泊まっていますか」という問いは、単に宿泊先を聞くことにとどまらず、「あなたはどこに留まっているのか」「あなたは神とどのような関係にあるのか」という意味であると捉えることができます。すると、主イエスは「来なさい、そうすれば分かる」といわれました。主イエスについていけば、それはおのずと分かるようになる。主イエスが生きられたようにわたしたちが生きるようになる。実際に行動を起こして他者と共に生きるようになると、主イエスがどこに留まっておられるのか、主イエスと神との関係がどのようなものなのかが、分かるようになっていく。
そして祈りにおいて、主イエスが留まっておられるところに、わたしたちも留まる。病や障害に苦しむ人をいやし、会堂から会堂へと教えてまわる。このような息もつけないような忙しい活動のなかで、主イエスは祈っておられました。つまり行動の只中に、沈黙の祈りがあるのです。一人になれるところ、神だけがそこにおられる静けさのなかで、主イエスは自分の思いではなく、神のみ心に従う決断をする力を得たのです。宇宙、自然、人間の生活、すべてにみられるのが「静」と「動」のリズムです。この「静」と「動」のバランスをもって、いのちの調和がとれているといえます。また「動」や「スピード」が重要視される社会にあって、「静まりに留まること」「沈黙すること」、神のみ前に留まるということの意義に、わたしたちは目を向ける必要がある。沈黙に留まることの重要性を知っている。これが祈りを大切にするという教会の存在意義ではないでしょうか。
「いのちの次元があらわになる」
ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教は、『キリスト者として生きる』という本のなかで、洗礼について次のように述べています。「洗礼はわたしたちを他の人々と区別させる特別な地位を与えるものではありません。『私は洗礼を受けた』と言えることは、特別な威厳を主張することではなく、ましてや、他の人々から選り分けられ、優越性を与えられることでもありません。それは、他者との新しい次元での連帯を主張することなのです(17頁)」。主イエスが洗礼を受けられたのは、「他者との新しい次元での連帯」を主張するためでありました。すなわち主イエスは、罪びと、ここでいう罪びととは、犯罪者のことではなく、社会の最下層にある困窮者のことを指しますが、彼らと同じ列に並び、共に洗礼を受けた。この行いを通して、「神はあなたがたと共に在る」ということを示したのです。
もう少しいうならば、すべての人が神のいのちにつながっているという、いのちの次元、すなわち「Doing」何かをするということで人間が評価されるのではなく、「Being」そこに生きて存在するということに価値があるという次元、それが天の国・神の国ですが、その次元を主イエスは洗礼を受けることによって示されたといるでしょう。主イエスは、神の愛を知っています。ですから、みなと同じ地平に立ちたかった、洗礼を受けずにはいられなかったのでしょう。すべての人が招かれている、神の国がすでに近づいていること、いのちの次元、Beingの次元は、目ではっきりと見ることも、ここに在ると証明することもできません。しかしながら、主イエスの洗礼において、明らかなものとなったのです。
主イエスは洗礼を受け、神の国を宣べ伝える活動をスタートしました。わたしたちにとっても、洗礼は神の恵みとそれに対する私たちの応答の始まり、信仰の旅路の出発点です。しかしながら洗礼は、人生の一つの点、ポイントで終わるのではありません。洗礼は全生涯的な広がりをもったプロセスであり、一生続く営みなのです。その信仰の営みというのは、わたしたちが神から離れ、自分を中心にして物事を判断してしまうたびに、罪をおかすたびに胸を打って反省し、懺悔し、悔い改めることというよりも、わたしたちがすでに神の恵みが与えられていることを、わたしたちがすでに神のいのちに浸されていることに、何度も気づき直していく、そういうプロセスを歩んでいくこと。そして神のいのちにつながっているというのは自分だけのことではなく、イエスのように、すべてのひとがいのちにつながっていることを認識し直して、連帯して共に歩むこと。これがわたしたちの信仰の旅路だとわたしは思います。
「暗闇で輝く救いの光」
ヨハネ福音書は、主イエス・キリストの誕生を、暗闇の中に光がともること、暗闇の只中で光を見ることだといいます。主イエスは漆黒の闇、冬至の時期の夜に生まれます。これが歴史的に正確なのかは問題ではなく、闇の中に光が生まれる、という象徴的な意味として、非常に大切なときなのです。希望が全く見出せない、生きていても仕方がない、誰も見向きもしてくれない、このように感じる暗闇の只中に、神のいのちが宿りました。暗闇のなかにあっても、神が共にいる。このような神のおもいをキリストはこの世に生まれること、そして生涯を通して伝えたのです。それでは、わたしたちは、どこに救いの光を見出すのでしょうか。見た目の華やかさのなかに神を見出すのでしょうか。つかの間の楽しみのうちに神を見出すのでしょうか。聖書は、誰も見向きもしない、誰もがそんなところに救いなどないと思うような、暗闇の中で、飼い葉桶に神の救いが現れたといいます。
私たち人間は、神にケア・配慮されている。これが主イエスの誕生の意味でしょう。わたしたちとかかわるために、わたしたちと共に在るために、キリストは暗闇の只中にやって来た。この神の配慮への応答として、わたしたちは、神を大切にし、人を大切にする。わたしたちが互いのいのちに配慮し合い、互いの存在を大切にするかかわりを生きるとき、わたしたちのいのちは活き活きと輝く。これがイエス・キリストが示した新しいいのち、新しい生き方なのだと、わたしは考えています。わたしたちの社会においては、人は行動や能力で評価されます。「何をした」「何ができる」という効率や生産性で人を判断します。このような価値観と相反するのが、キリストの価値観です。互いのいのちに配慮し、ただ共に居るということです。ただ共に居ることには、価値がないのでしょうか。人に囲まれて生活することが当たり前ならば、誰かが横に居ること、自分が誰かとそばに居ること、そのことに注意を払うことはないでしょう。
共に居ることによって、あなたの存在は忘れ去られてはいない。あなたはひとりではない。このことを、かかわりにおいて伝えていくのが、「存在へのケア、いのちへの配慮」です。主イエスは、暗闇の只中で、あなたは独りではない、わたしは暗闇のなかであなたと共にいると、わたしたち一人ひとりの「存在へのケア、いのちへの配慮」をしてくださいます。目の前に置かれている厳しい状況は、共に居ることだけでは、何も変わらないように思えるかもしれません。それでもわたしたちは、かかわりを持ち続けていく、何もできなくとも、困難な状況にあっても、共に居続ける。このようなかかわりこそが、暗闇の中で示されたキリストの救いの光であり、キリストの救いの光をわたしたちが目に見えるものにするのは「共に在ること」ではないか、とわたしは思います。


