神の本質
学生時代に「一緒に初詣に行こう」と友だちに誘われて、「家族で出かける用事があるから」と、おことわりしたことがあります。神社やお寺に近寄ってはならないと思っていたわけではありませんが、奏楽当番に当たっていたので、変更するのが面倒だったという極めて自己保身的な理由でした。それにしても、「主イエス命名日」という教会の祝日は、降誕日から数えてちょうど1週間。まるで、教会でも元旦のお祝いをしているようにも見え、普段からあまり伝統的な日本の過ごし方をしていない私は、なんて便利な暦だろうと感心したことを覚えています。
ところでイエスさまは、慣習に従って割礼を受けイエスと命名されました。これは伝統的なユダヤ教の習わしに則っており、保たれてきた習慣をこれからも粛々と引き継いでいく生涯を想起させます。しかしながら、これまで慣れ親しんできたかたちを、そのままそっくり真似をすることが「伝統」なのではなく、その時々に今まで出現しなかった事実が明らかになっていくことこそ、「伝統」だと、今日の聖書は言っているように思います。
まずモーセの物語。怒り、裁き、正義を行う神は、その時が来たときモーセと隣り合って立ち、自らその名前を告知します。名前を明かすことは、本質を知らせるということから、「共に在る神」である本質を告げる箇所です。もう一つは、羊飼いの物語。町や村の定住民にとって、羊飼いは当てにならない人種でした。近隣で徘徊していても、すぐにいなくなる。長い間救い主を待っていた正統的ユダヤ教徒には顕れず、律法を守れず、まともに付き合う価値もない羊飼いたちが、まず最初にイエスさまの誕生の場に招かれた。それは、誰に、どんな人々に、神が最も心を砕きたいか、愛したいか、その本質を告げる物語なのではないかと思います。
神が心を砕かれている、神が愛されている証拠は、こちらの希望するように事態が展開したり、あるいは自分の願いが叶うことではなく、伝統や枠の中にありながらも、その形に固執するのではなく、中身というか本質や真の意図を見出し、そして自分自身がさらに変えられていくということなのかもしれません。
マリアの決断
クリスマスを待つ季節の締めくくりの福音書は、マリアと天使ガブリエルのやりとりです。冒頭でいきなり「六ヶ月目に」と始まりますが、これはマリアの話ではなく、この箇所の直前に天使ガブリエルがザカリアを訪問し、妻エリサべトの懐妊を予告していますが、その出来事から6ヶ月を経た、という意味です。つまり胎児が安定し、生まれることがほぼ確定してから、次にガブリエルはマリアに会いに行きます。神が計画したことなのだから呑みなさい、という一方的な宣告ではなく、多少の行き違いはあっても、段取りを踏んだ丁寧な進め方という印象です。
一方、マリアに対しても神の計画のゴリ押しはしていません。ガブリエルとマリアのやりとりが、どのくらい時間をかけたものなのか、聖書は記していませんが、最終的にマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うまで、ガブリエルは去りませんでした。しかもマリアは、反論の余地なく、恐怖のあまり承諾するしかなかったという筋立てではなく、後にマリアが「マリアの賛歌」で表現するように、何に対してこれから立ち上がることになるか、よく理解した上でその運命を引き受けたことを表しています。これから、人々の無理解と蔑視の視線、そして大きな社会的圧力の中で、戦い続ける人生を覚悟する必要がありましたが、そのことに対しての「お言葉なら」というマリアの返答であったわけです。
彼女は若い女性として、ここに至るまで、どんな祈りを捧げてきたのでしょうか。想像するのは、他国の支配に苦しみ虐げられている人々、孤独な人々に心を痛め、マリア自身もその中のひとりであったにもかかわらず、より良い社会のために何ができるだろうかと、模索する祈りであったかもしれないと思うのです。マリアにとっては、確信とともに「祈りが聞かれた」とはいう気持ちにはなれなかったかもしれませんが、思うところがあって、何が起きても神に信頼しようと腹をくくった。神さまに祈った結実が、マリアの想定していたこととかけ離れていても、マリアは神さまに信頼し、そこに生涯をかけて取り組もうと、彼女自身の意志で決断をしたその瞬間だったのではないかと思います。
召命に生きる
今の季節に何故?と少し不思議ですが、毎年クリスマスを迎える前に、バプテスマのヨハネの話を2週続けて聞くことになっています。聖書の話というと、イエスさまと出逢った人が「恵みを受けた」「希望を与えられた」と感謝する一方で、その事を快く思わない人々がつぶやく。そんなイメージが強いですが、バプテスマのヨハネの話は少し毛色が違います。彼の人生はイエスさまと出会って好転してゆくのではなく、あくまでも「衰える」旅路を辿ることが、自らの使命であると公言します。
それにしてもヨハネは、あえて茨の道を選んでいます。お父さんはザカリアですから、普通なら父の仕事を継いで神殿に仕える祭司となり、地位も名誉もある人生が保証されているはずなのに、荒野で寝起きし、食べ物着る物にも無頓着。そしてひたすら洗礼を授けていると、やがてイエスさまが現れヨルダン川の反対側で洗礼を授けるようになる。すると人々は、ヨハネよりもそちらへ流れていく。イザヤ書を引用し自分を「荒野で叫ぶ声」と称したヨハネですが、想像を絶する孤独と不安を味わったのではないかと思うのです。かつてはヨハネから洗礼を受けるために押し寄せた人々も失せ、荒野でいくら叫んでも、虚しい暗闇と荒れ果てた地に、叫びも彼の話も吸い取られていくばかりです。このあと彼は捕らえられ、余興のついでに首をはねられて命を失います。
人のお手本になる人生、生きた意味を実感できる人生を、わたしたちは追い求めますが、それとは真反対のヨハネの人生です。たとえヨハネが「これが自分のお役目」と納得していたとしても、これでいいのだと思えず、何も成し遂げてはいないという不安に苦しめられるときもあったに違いないのです。しかもヨハネは、イエスさまの存在と活動がこれからどうなっていくのかほとんど知ることもなく、「あの方の前に遣わされた者」として生きました。神さまからの召命に忠実に生きたヨハネは、この世的には、決して「恵まれた人」とは言えないでしょう。しかし神さまの目にはどうだったでしょうか。たとえわたしたちには納得できなかったとしても、神さまの計画の中では必要不可欠な人であったのかもしれません。
神さまの愛は注がれる
バプテスマのヨハネと呼ばれる人物の話をしましょう。その人は、必要最低限の衣食(住まいはなかったかもしれない)を得るだけの毎日に満足し、生活のほとんどの時間を、人々に「悔い改め」を呼びかけ、目に見える赦しのしるしとしての「洗礼」をほどこしていた、そんなふうに聖書には記しています。
もっとも「洗礼」という儀式そのものは、バプテスマのヨハネのオリジナルではなく、この時代のいわば「世直し運動」のような流れの中で、あちこちで行われていたようです。外国人や他宗教の信仰者が、ユダヤ教に改宗する際に「穢れ」を清めるといった象徴的な意味で、また、ユダヤ人共同体から離れていた人々が立ち返る場合、などに洗礼は施されました。
ユダヤ教の律法や掟は、神さまとの関係を健全化するために与えられたものなのに、指導者たちはそれを自分たちにとって都合のよい解釈へと歪め、声の出せない社会的弱者は神の恵みの対象外として潰してもかまわない、律法さえ守っていれば、心の中がどうであれ神の救いは保証される、と強調されるようになります。そんなユダヤ教に対して危機感を持ち、神への信頼に立ち返ることを呼びかけた「洗礼」は、バプテスマのヨハネのオリジナルだったかもしれません。
現代のわたしたちにとっての「洗礼」は、「自分の罪を告白し、悔い改めて罪を赦される」という側面よりは、「神さまはわたしを大切にしてくださっている」と信じて、そのことを命懸けでもたらしてくれたイエス・キリストに信頼し、キリストの薦める生き方に加わりたいと公言する、という要素が強いです。とは言え、バプテスマのヨハネが広めた洗礼と、今、わたしたちが教会の中で行う洗礼式とは、それほどかけ離れたものではないとも思うのです。
ヨハネの時代は、律法を守ることができる恵まれた人が、神さまに愛されるに相応しい者だという理解が横行し、律法学者や祭司たちは、その理解を利用しました。彼らが掌握している力関係をより強固なものにするため、献金や貢ぎ物を強制し、何よりも律法を優先するのがユダヤ教。そんなふうに神さまの愛からは、どんどん離れていく結果となりました。
当時は律法が神にとって代わっていましたが、現代では「人にどう思われるか」が、神の座にいるのではないかと私は思うのです。自分の行動基準の根源に「人から非難されたくない」という無意識の「信仰」が居座っている場合、神の愛はないがしろにされていく危険をはらんでいます。
聖書の言う「罪」とは、「本来の道から外れた、まとはずれな生き方」のことですが、それは、名前がつけられるような犯罪や間違いだけではなく、見当違いの言動や、善意ではあるものの本来の意味や目的を取り違えて、どんどん道からズレしまう生き方も含みます。わたしたちの生活の中心に神さまがおられず、人の目(自分の目も含みます)を一番大切にして、その都度やり過ごすような「的はずれ」な行動を、もしわたしたちがとっていたら「神への信仰に立ち返るように」と、バプテスマのヨハネは呼びかけます。それは、わたしたちが何も貢献出来ない状態でも、どんなに情けなくなくても、あまりにひ弱であっても、神さまの愛は注がれ続けることを信じる信仰です。見かけや言葉化できる善行にすがるのではなく、神さまへの真の信頼を取り戻したいと思います。
「目を覚ましていなさい」
さあ、降臨節が始まりました。玄関外のヒマラヤ杉の電飾は、今夜から1月6日まで毎晩チカチカと点灯を始めます。教会の中も、クリスマスの飾り付けと祭色(アドヴェントまでは紫色)に変わり、すっかり模様替え。世の中の空気はアドヴェントとクリスマスが混在しているようでもありますが、聖書のメッセージは一貫して「罪からの解放」をテーマとしているのではないでしょうか。
罪という単語を聞くと、まず顔を伏せて反省する、そして嫌な自分を見てため息をつく、何も思いつかなくても、とりあえず何かあるに違いないと探るなどなど、心を萎縮させることが先に思い浮かぶかもしれません。でも言いたいのはそこではなくて、「自分の生活を振り返ってみて、もし『道』から外れていたら神さまに立ち返る」ことが、罪からの解放なのではないかと思うのです。
日々の「騒音」に紛れ、追い詰められて自己中心的になり、愛のない言動をして心を傷つけても、「まあ仕方がない」で乗り切ろうとする。人の評価や態度に振り回され、なぜ自分が狼狽えているのか内省せず人のせいにする。そんなわたしたちの日常生活をも、神さまは受け止めてくださいますが、同時に、ハラハラもなさっている。そして「監視」しているのではなく、「見守って」おられるそのあたたかなまなざしに気づくこと。そして、わたしたちはその日その日を神様に「生かされている」ことを知ること。そのことこそが「罪からの解放」ではないかと思うのです。
楽しくない時間を過ごしていても、心に添わない仕事をしていても、そしてしっかり怠けているときにも、もしそれがわたしたちのいのちを繋ぐために必要なら、「神さまはこの時この場を、どう用いろうとされているのだろうか」と思い巡らすことは出来ます。思い巡らした結果、どのような行動を取るかはわたしたちに託されていますので、常に心の目を覚まして、神さまの方を向こうとする、そんな4週間にしていきましょう。
あなたのところに行くからね
教会の暦の上では、次の日曜日から新しい一年が始まるという、大晦日にあたる今日。読まれる聖書の箇所は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というお話です。クリスマスが近づくと思い出す絵本や童話というのは、皆さんもたくさん心に浮かぶことと思います。私にとっては、この聖書を聞くと、トルストイの「靴屋のマルチン」が真っ先に浮かんでしまうのです。よく知っておられる方もおられますが、まずそのストーリーをご紹介します。
マルチンは年取った靴屋さん。半地下にある仕事部屋で毎日一生懸命働いています。でも、心の中は悲しい涙でいっぱい。それは、パートナーもこどもたちもみんな亡くなってしまい、マルチンひとりが残されたからです。寂しさと絶望感に、マルチンの心はまるで埋もれた半地下のよう。小窓からの景色は、見えるには見えるけれど関係のない世界でした。ある晩、いつものように聖書を少し読んでから眠りにつくと、なんと夢の中でイエスさまの声が聞こえます。それだけでもびっくり仰天でしたが、その声は「明日行くからね」と言うのです。「行くからね」とは確かに聞いたけれども、単なる自分の願望?いやいやひょっとしたら本当に来られる?どうやって?と落ち着かないマルチンです。
朝になると、今まで興味がなかった小窓の外が気になり始めました。朝から雪かきをしているおじいさんが目に入りました。疲れ果てて寒くて震えています。思わずおじいさんに声をかけてお茶をごちそうします。次に赤ちゃんを抱えて家を飛び出してきた女の人が目に留まりマルチンは自分の上着と朝ご飯の残りを差し出します。そして今度はこどもです。その子は確かに盗みをしたのですが、事情を聞こうともせず愛のない方法で一方的に叱られています。マルチンが割って入り一緒に話をしているうちに、両者がやさしい気持ちを取り戻して帰っていきます。
ここに登場するおじいさんや若いお母さんや男の子にとっては、マルチンこそがイエスさまだったかもしれません。途方に暮れ、世の中の誰も味方になってはくれず、自分は神に見捨てられていると確信したそのときに、必要なものを与え、寄り添ってくれる存在は、まさに神そのものに感じられたことでしょう。しかし、お茶や食事や上着が与えられることが重要なのではなく、途方に暮れているその人々に、イエスさまはすでに寄り添っておられる、その事実にわたしたちが気がついたとき、人生の視点が根こそぎ変わっていくのではないでしょうか。毎日が涙と悲しみと寂しさで手一杯だったマルチンは、夢の中の「行くからね」のひと言で、「すでにイエスさまが寄り添っておられる人々」へと目が開かれていきます。
こども食堂やフードパントリーやその他の活動が行われること、そして互いを理解しようとする輪が広がっていくことは、決して「良い人ぶって」いるのではなく、すでにイエスさまがその人と共に働いている、というとてもシンプルな事実に気付かされていくことです。そしてわたしたちもどんなときでも(ことに人生最悪のとき)、決してひとりぼっちではないことを確信していくのだと思います。あなたにも、「行くからね」というイエスさまの声が届きますように!
タレントはだれのために
またもや「天国」のたとえ話ですが、今度はタラントン(とりあえずここではお金の単位)の登場です。3名のしもべに、主人が財産を託して旅に出ます。最初のしもベには5タラントン、次のしもべには2タラントン、そして三人目には1タラントンです。最後の1タラントンだけを預かるしもべは、なんだか金額が少なくて、かわいそうな気もしますが、それだって、大変な金額です。1タラントンは、現代社会に換算すると、約1億円。一生かかっても、なかなか貯められないような、気の遠くなる大金です。
しかしこれは、お金のことを語っているのではないのでしょう️。神さまからいのちを受けて、この世に送り出された、わたしたちのいのちそのものを言っているのではないかと思うのです。一生努力しても、わたしたちには作り出せない「いのち」を預けられましたが、それだけでも気の遠くなるような恵みです。自分は一体何をお預かりしているのだろうと考えると、体力や能力、感性や才能などが、認識しやすいタラントン(タレント)なのかもしれません。それらを預かっていることを喜び、みんなと分かち合おうとする人がいる一方で、自分のタラントンに不満な人もいます。ことに「タレント」を他人と比較して「自分はこんなにつまらない」と思う。自分は1タラントンしか預けてもらえなかった、こんなものが役に立つはずがない、と思い込み、1タラントンを喜ぶことも、人のために用いることも考えず、なんだかばかばかしくなって、ただ土の中に埋めるようなことをしてしまったのかもしれません。
でも、今あるいのちは、わたしたちが生み出したものではなくまた所有しているものでもなく、一時的に神さまからお預かりしているものです。預けられたいのちは、時が来るまでは、この地上で頑張り続けることが使命ですが、それは、2タラントン預かっている人を羨ましがることではなく、5タラントン預かった人に敵対心を燃やすことでもなく、気の遠くなるほど豊かな1タラントンを人々のために用いるよう、知恵を絞ることではないでしょうか。
油を満たしておく
花婿の到着を待っている間にウッカリ寝落ちし、ずっと到着を待っていたのに、夜中になってから起こされ、予備の油を持っていなかったために、宴席から締め出されてしまう乙女たち。喩え話とは言え、天国も結構冷たいじゃないかと言いたくなります。
ところで登場する5人の賢い乙女と、5人の愚かな乙女ですが、この人々は主役ではなく、花嫁の付き添い人という役割です。また、手に持った「ともし火」に、最初から火が灯っていたのではなく、棒の端に油の付いた布を巻き付けてスタンバイし、花婿が到着たら、すぐに婚礼行列や会場を照らすため、また宴の中で披露する「たいまつの踊り」などのため、朝までずっと灯りを途切れさせない、という担当も兼ねていたのでしょう。
そう考えると愚かな乙女たちは、夜中まで待たされたから、用意した油を使い果してしまったのではなく、最初から予備の油壺どころか、油そのものを持参していなかったことが明らかとなります。布にあらかじめ染み込ませた油はすぐに尽きますが、そのあと、どうするつもりだったのでしょう。最初から「借りればいい」と思ったのかもしれませんが、では花嫁付き添い人としての役割を、いったい何と心得ていたのでしょうか。他の乙女と一緒にたいまつさえ振り回しておれば、誤魔化せると思ったのでしょうか。
共通点があると思うのは、外見以外はあまり気にならない律法学者やファリサイ派の人々の言動です。「油」は、神さまに対する信頼を深め続けることや、愛に根ざした信仰かどうか振り返ること、などに置き換えられるかもしれませんが、目に見えないそれらには関心がなく、たいまつさえ持っていれば乗り切れると考えるあたり、先週の福音書に登場した「長い裾の上着」や「大きな聖句の小箱」の大好きな指導者層のようです。今回の話は、「賢い乙女たちを見習え」と勧めているのではなく、また、天国では準備の良い人が優遇されるという話でもなく、愚かな乙女(=指導者層)のようなうわべを求めてはいけない、むじろ本当の油のために、他ならぬ自分のために「信仰を深めなさい」と伝えているのではないでしょうか。
愛で満たされる
今日の物語では、ユダヤ教の指導者たちの「痛い」振る舞いが記されています。聖書に精通しているしるしとして、聖句を書いた羊皮紙を丸めて箱に納め、それを紐のようなもので額に固定するという習慣がありましたが、これみよがしに箱を大きくして、特別の役割を担っていることを人にわからせようとします。また、裾に長いフサを縫い付けた外套を着て歩き回り、肉体労働者ではないことを誇示します。そして、人がたくさんいる広場で「先生!」と呼び止められ、皆の注意を引きながら丁重な挨拶を受ける、そんな待遇を好むような指導者たちです。滑稽にも感じますが、知識が豊富だったり、祈りの機会に恵まれていたり、知名度がある、ということが、まるで神さまに近い存在なのだと勘違いしていたのでしょう。
しかしわたしたち聖職者も、滑稽だと笑っていられない気がします。有名な聖職者のご家族だったり、学位をたくさん持っていたり、複数の言語に通じていたりすると、なんだか失礼があってはいけないような空気になります。一方で、他の教役者たちを「〜先生」と呼んでいる人から、たいして親しくも無いのに、自分だけ〇〇子ちゃんなどと呼ばれると、ちょっとムカついたりします。つまり軽んじられることには敏感で、持ち上げられても気が付かない鈍感さが心に潜む可能性について、いつも目を覚ましている必要があると思うのです。
イエスさまの時代の人々の常識としては、律法を厳守し、献金や断食の回数が多いことが、救いを保証する目安だったのかもしれません。しかし、イエスさまが教えてくださった救いは、外見ではなく「神と人に仕える」ことによってのみ、わたしたちは限りない恵みを注がれ、究極の「救い」がそこに用意されているという信仰です。人にわかってもらえる信仰が必要なのではなく、ただひたすら「心が、神と人への愛で満たされている」ことが重要なのではないでしょうか。それは見てわかりやすいことではないでしょうが、祈りと行動とに自然に現れてくるでしょう。愛で心を一杯にして生きること、それこそが神さまが望んでおられる生き方なのではないでしょうか。
究極の目的
イエスさまの存在を、快く思わない人々による反撃のお話が、今週も続きます。先週の福音書の後には、もう一つ別の話があり、そこでイエスさまは、サドカイ派の人々のツッコミもかわしたので、今度は律法の専門家が登場するという構成になっています。「律法の中で何が最も重要か」というその質問は、物理学者が一介の大工に「相対性理論をどう思うか」と聞くようなものかもしれません。「先生」と呼びかけてはいますが、民衆に人気があるだけで、専門家である自分に太刀打ちなどできるわけがないというこの人の魂胆も見えます。
ユダヤ教としては、「十戒」は手を触れられない聖域であり、すべての決まり事の根幹なので、何か別の掟に寄って十戒が成り立つとは、考えにくいことでした。ところがイエスさまは、いとも簡潔にその壁を乗り越えてしまいます。しかし、新しい宗教を産み出そうとしてこう言われたのではなく、抑圧されている人、貧しさゆえに悲しみや苦しみを負っている人と、共に歩もうとされるイエスさまにとっては、十戒のために人間が存在するのではなく、人間のために十戒が存在する、ということが当たり前だったのではないでしょうか。いわば十戒は、目的を実現する方法の具体例であり、その方法を実行したら、その先に何があるのかというと、「神を愛すること」「隣人を愛すること」であると。言い方を変えれば、この2つの目的のために十戒が存在すると言っているわけです。
「あなたは神と人を愛することを最も大切にしていますか」と、わたしたちもまた、イエスさまから聞かれているのでしょう。そうしたいと思っても実際は、自分の欲と他者の視線、諸々のプレッシャーや「こうするべき」という嵐の中で、時々は神さまの声に耳を傾けてみようかと立ち留まる生活、それが現状なのかもしれません。それでも、何のために自分はここにいるのかと迷い、何故こうなったのかわからなくなるとき、ふと立ち返って自分に「今、わたしがやっていることは、神と人を愛するためか」と問うてみたいと思います。そのあとに、わたしたちがどのように決断しても、神は最後まで見守ってくださると信じます。
神は語らせてくださる
イエスさまがたびたび語る「天国のたとえ」を通じて、偽善と保身と、そして立場の弱い人々に対する搾取を、コテンパンに指摘されてしまった指導者たちが、反撃に出る場面が今日の福音書です。イエスさまに、仕返ししてやろうという魂胆も大人気ないですが、それよりもイエスさまから攻撃されたと感じ、何よりも自分たちの今の立場が危うくなることを、心配したのでしょう。普段は対立しているヘロデ派の人々と結託し、「よい」か「だめだ」の2択で答えざるを得ない質問を用意して、手下の者たちを送ります。イエスさまが「よい」と答えるならば、猛反発を買い民衆は離れていくだろう、「だめだ」なら、ローマ帝国への反逆の証拠として、逮捕へ繋がると。つまりどちらの答えを選んでも、イエスさまにとっては致命的だ、と指導者たちは確信したわけです。
ところがイエスさまは、「よい」でも「だめだ」でもない、別のお返事をされます。下心満載の指導者たちをやり込めるのは、読んでいてスカッとするし、こんな短時間(?)で、どちらともつかない返事を考えつくとは、なんてイエスさまは頭が良いのだろう、と感心するかもしれません。でも、この話はそれだけなのだろうか。さすがイエスさま!とかいうことが、果たしてわたしたちの魂を救うことに繋がるのでしょうか。また神のものは「神に返す」とは具体的に何なのか、という疑問も生まれます。
指導者たちの上を行く、スマートな応答をイエスさまが考えついたということではなく、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。」(マタイ10:19)という信仰に、徹底して留まられたのではないかと思うのです。つまり、「私が」語る、応答する、というこだわりから解放されて、全てのことは神さまの霊が実現させてくださる。自分を通して必要な言葉が語られ、どのように応答したら良いのか知らせてくださる、ということを、イエスさまが自然に実践された、ほんの一部の物語なのではないかと。
それは、自分で考える必要がないという意味ではなく、わたしたちの普段の祈りの生活へと繋がる物語なのではないかと思うのです。
天国に生きる人は
天国」についての話は、今週はぶどう園ではなく、結婚式のたとえ話として続きます。イエスさまの時代の結婚式は、何日も披露宴が続き、庶民にとっても大イベントだったようですが、このお話は王が主催する婚宴です。惜しみなく資金を注ぎ、たくさんの人々を予め招いていたのでしょうが、さて用意が出来てみると、誰一人参加しようとしません。
王様は家来を送り「さあおいでください」と人々に伝えますが、本来招かれていた人々はそれを無視し、家来をひどい目に遭わせ、殺害さえします。これを聞いた王様は、「見かけた人を誰でも連れてきなさい」と家来に命じます。やがて宴会場は人でいっぱいになりますが、ここでも問題が起きました。せっかく用意された結婚式の礼服(当時の習慣では主催者の責任として、来た人皆に礼服を用意した)を意図的に身につけず、何故か着ないのかと問われても、黙って座っている人がいたのです。
言うまでもないことですが「予め招かれていたが婚宴に来なかった人」とは、ユダヤ教の指導者たちです。彼らは自分たちこそ招かれるのに相応しく、神の目にも叶う相応の生き方をしていると自負しています。そんな指導者たちのところに遣わされた家来とは、旧約聖書に登場する預言者たちなのでしょう。しかし指導者は、自分たちにとって都合のわるいことを言う預言者たちを滅ぼし、そうとは気が付かずに神さまを敵に回します。
そこで神さまは、縁者でも友人でもなかった人や異邦人を招きます。お腹を空かせていた人、心の乾いていた人、孤独な人、そして自分なんか神の国とは関係ないと思っていた人たちは嬉しかったことでしょう。喜んで神さまの婚宴に連なります。しかし中には「礼服を着けず黙って座り、何も答えない人」がいました。礼服を着けることを拒否した人、つまり神さまからの愛や恵みは受け取るけれど、自身では愛に生きることを実行しようとしない人です。
立派な行いや間違いのない生き方を実行できた人のために天国が用意されているのではなく、たとえ最初は招かれていなかったとしても、「愛に生きる」という礼服を用意してくださっているイエスさまの招きに、応える人のためにある。礼服を着るかどうかは、わたしたち次第です。
天国はすでに在る
この季節に指定された聖書箇所は、天国をぶどう園に喩える、というイエスさまのお話がしばらく続きます。
ある人が理想的なぶどう園を作ります。整地された畑、遠くまで見通せるやぐら、野獣から作物を守る塀、そして収穫を迎えたときのしぼり場まで備えたところで、ぶどう園の仕事に慣れている農夫たちを雇って運営を任せます。しかしこの農夫たちは、運営を任されたという事実を忘れ、やがて収穫を迎えたときには、所有者から送られたしもべを、侵入者とみなし残酷にあしらいます。ところが所有者は、この農夫たちを断罪せずに根気強くしもべを送り続け、最後に大切な息子を送ります。そして農夫たちは、この息子さえ亡き者となれば、「自分たちの」財産は守られるという勘違いから、息子も殺してしまいます。
皆様もお察しのとおり、この農夫たちは、当時のユダヤ教の律法学者や祭司のことです。 “農夫”としての役目を忘れ、まるで自分が創り出し、所有しているかのように神の言葉を扱う。その振る舞いにより、人々が苦しんでも、自らの立場を守ることを最優先してきたのです。しかし神さまは、彼らを滅ぼすのではなく引き続き預言者を送り、その勘違いを糺そうとされました。しかし、既成の組織や制度にしがみつく彼らは、いくらたくさんの預言者を送られても、一向に考えを変えなかったので、神さまはついに最終手段として、いわば断腸の思いでイエスさまを送ります。しかし、自己防衛をするにはイエスを亡きものとするしかないと、“農夫”たちは十字架にかけてしまいます。
なぜこれが「天国」の話?とお思いになるかもしれません。でも天国は、死んでから行くところではなく、手の届かない理想郷のことでもないのです。むしろ、神さまの優しさと忍耐強さと公平が実現されている「天国」はすでに存在するのに、わたしたちが「天国」を所有しようしたり、利用しようとしたりするとき、見えなくなってしまうというメッセージではないかと思うのです。
イエスさまが教えてくださった「神」は、あなたが幸せに生きること以外、何も望まれない。そして、その実現のための代償や報いは一切求められない。他の人がなんと言おうと、あなたを慈しみ、大切にしたいと切望する。そんな無条件の愛の神です。それは、「天国」という代名詞により、丁寧に創られたぶどう園のように、すでに準備されていることを心に留めましょう。
神への応答
聖書のこの箇所は、「二人の息子のたとえ」というタイトルがついているが、本田哲郎神父訳では「たてまえだけで実行の伴わない指導者たち」となっている。原文にそのようなタイトルがついているわけではないが、「娼婦や徴税人」たる最下層の人々と、彼らを抑圧する権威があると信じ込み、そのような振る舞いをしても一向に恥じない指導者たちとを対比するたとえ話であることは、明らかである。彼らは、自分たちこそ選ばれし者、この世の人生を終えたら必ず天の国に迎え入れられるので、今さら自らの行状を糺す必要もないと考えているようでもある。
先日、ある勉強会で原始キリスト教とローマ帝国の関係について社会学的なアプローチをする本を読んだが、その中で「ただ乗り」の人々が教勢に与える影響が言及されていた。つまり初代教会時代にも、キリストの教えに共感し、神の愛や恩恵には当然のようにあずかるが、共同体に対しては何の貢献もせず、責任を取らない人々がいたようで、それを著者は「ただ乗り」と名付けている。
教会建物や教役者維持に加え、電気光熱費や消耗品の支払いは必須だし、礼拝ひとつ行うにも、さまざまな役割を担う必要がある。静かにお祈りだけしていたいと願う人に対し、時に一種の疲労感が漂うのは、わずかな貢献をしていると自負する人々もまた、神の前には全くの「ただ乗り」である現実を忘れているからではないか。
イエスさまが教えてくださったのは「あなたが幸せに生きること以外、何も望まない」「代償や報いは求めていない」「社会的な貢献の度合いではなく、いのちそのものが大切」という神。無条件の愛、限界のない豊かな世界を共有しようとする神に、わたしたちはお返しをするどころか、単にそれに「ただ乗り」しているに過ぎない。そういう意味では、「ただ乗り」を人々に提供する限り、教会は教会であり得るということなのかもしれない。経済的にも労力的にも決して余裕はなくても、走り続けられるよう祈るしかない。それがわたしたちの神への応答なのではないか。
目が「腐らない」ために
現代社会では、到底受け入れられそうもない「ぶどう園」の話です。天国では、1時間しか労働に従事しなかった人も、まる一日汗水流して働いた人も、1日分の賃金1デナリオン(5千円程度)を受け取ります。もしパートの仕事をいくつも掛け持ちして、必死に生きている人がこれを聞いたら、最初から夕方頃にぶどう園に行く計画を立てるかもしれません。夜はしっかり寝て、朝から一日中別の仕事、そして夕暮れ近くになってぶどう園へ駆け込み、最後の1時間だけ働く。そしてフルタイムで働いた人と同じ金額の賃金を受け取る、それが賢い生き方ということになるのでしょう。
しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。
昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。
ゆるしについて その2
先週に引き続き、再び「ゆるし」の話が続きます。今日の聖書は少し長いので、皆さんの“気になるポイント”は異なるかもしれませんが、まず冒頭の「7の70倍(回)まで赦しなさい」というイエスさまの言葉に圧倒されます。赦せない内容によっては、たった1回さえ断腸の思いなのに、490回?とは気の遠くなる数字です。
そもそも「赦す」という行動は、人としての成熟度を必要とすることがらで、水に流したり忘れた気分になるということでもない、また相手の行動を容認するのとも違う、そして「こうすれば赦したことになる」という模範解答もない、そんな難易度が高いことがらであることは確かでしょう。
さて今日の福音書です。主君によって膨大な借金の返済を「帳消し」にしてもらった家来が、今度は自分が金を貸している知人に出会うと、貸した金をすぐ返せと要求します。返済できないから待ってくれと懇願する知人を、家来は聞く耳持たず牢獄に入れてしまう。するとこれを知った主君は怒り、赦したはずの家来を牢獄に入れるというストーリーです。
「赦し」の話を、金の貸し借りに絡めるのは、なんとも違和感がありますが、生涯かかっても返せないような膨大な借金(1万タラントン=1兆円)から解放された人が、その恵みの豊かさに触れようともせず、頑張れば返せる程度の貸金(百デナリ=50万円)に固執する、その愚かさを描いているのかもしれません。最終的に家来を牢獄に入れた主君は、「赦す」と言った前言を翻したのではなく、無慈悲な家来の行動に対して「牢獄」に入れるという措置をした展開なのでしょう。
家族も家財もすべて売り払って借金を返せと迫ること、そして期日までに返済できない人を牢獄に引き渡すことは、当時の法律では「合法」だったようです。そういう意味では、家来は犯罪をおかしていません。しかし負債から解放された途端に、自分の負い目は初めからなかったかのように振る舞い、すぐに利害追求に取り掛かる。そんな生き様は「牢獄に閉じ込められた」人のようだと言っている気がするのです。
神さまに愛されているのだから恵みの偉大さに目を留め何でも許容せよ、と聖書が勧めているのではなく、本当の神の寛大さに触れたわたしたちは、その恵みを直視し受け止めるとき、更なる的成熟へと招かれていく、と言っているのではないでしょうか。
ゆるしについて
約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときに「ごめんなさい」とわたしたちは言いますが、それは「赦してもらおう」「きっと赦してもらえる」と思うから、口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるか本当にどうかわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、断られる覚悟をしないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないこと、人生を変えてしまうような傷を負わせたときは、「相手に対して赦しを乞う」という考え自体が厚かましいと感じ、「赦してほしい」などとても言えないということに。そんなとき多くの人は、物事の本質を直視するより、法的制裁や相手が矛先を収めてくれる道を探し、それによって自分の出方を測るのかもしれません。
たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。
今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です。
わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。
よびかけに応える
「そんなことは認めない」イエスさまから、これから起きる出来事の内容を告げられたお弟子さんたちは、こう思ったに違いありません。イエスさまについていけば洋々たる未来が広がっており、礼拝に連なる人の数も増え、教えの正しさが伝わり、いつかはローマ帝国でさえひざまずく、そんな未来を描いていたのでしょう。しかし事態は、思いがけない展開へと滑っていきます。「十字架にかけられて殺され、三日目に甦る」イエスさまが打ち明けた内容は、到底受け入れられるものではありませんでした。これから起きることだと言われても一体何を言っているのだろう、と頭の中が真っ白だったことでしょう。
同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、わたしたちの頭の中は真っ白になります。重篤な病気の宣告だったり、家族に関するとんでもない予定変更だったり、絶対にこうなると信じていたことが白紙に戻されたりする事態です。受け止め切れないほどの不安や喪失感は、大きな怒りとして表現されることも多いですが、時には、本質とは全く違うことを問題にして、現実に直面するのを避けようとする、そんな自身の弱さや小ささと出会ってしまうこともあります。
現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象ですが、イエスさまはむしろ、「弱さや小ささと共に歩こう」と呼びかけます。十字架刑というご自分に課せられた苦痛よりも、残されていくお弟子さんや民衆を心配されていますが、それは、病人を癒し、魂の渇きを満たす、力ある輝かしいイエスさまだけを見つめてきた人々が心配だからです。イエスさまが示された神は、弱さや小ささを退治してこいと命令する神ではなく、もろさ、弱さを持ったままで、「背負った」まま共に歩こう、と呼びかける神です。お弟子さんや民衆だけではなく、わたしたちもまた、そのように招かれています。良い子のわたしとして神の前に立つのではなく、自分では認めたくないような弱さにも目を覆うことなく真っ直ぐ進むこと、それが神さまへの本当の信頼なのかもしれません。
岩盤まで寄り添う神
ニワトリが鳴けば「あなたのことなど知らない」と言い放ち、急にイエスさまが出現するとビックリして湖に飛び込む。そうかと思うと、「小屋を3つ建てましょう」などと場違いなことも口走る。イエスさまの最も身近にいたのに、思慮深いとは言えないその言動を、聖書にたくさん記されてしまっているこの人を、イエス様は「あなたはペトロ(岩という意味)」と命名します。
シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。
この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。
砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。
信仰は「宗教」を超える
福音書には、さまざまな「部外者」が登場しますが、それはユダヤ教の言う「正統な律法」を守って生活することができない人々への区分でもあり、いわゆる外国人だけではなく、病人や障害を負う人も、そして今日登場するカナン人も、律法に照らし合わせると「部外者」です。
カナン民族の元を辿れば「ノアの方舟」のノアに辿り着くように、「乳と蜜が流れる」と称される土地に、カナン人もイスラエル人も、実際は共存していたようですが、カナン人が持ち込んだとされるバアル神やアシュラなど豊穣をもたらす宗教を、ユダヤ民族は強く警戒しました。宗教への混入を避けるため、カナン人と付き合わないだけではなく、時を経てそれは「正当な差別」となり、何かあっても助け合うということはような関係にはなりませんでした。
このような歴史的背景のあるカナンの女性が、かまわず助けを求めてきたのですから、イエスさまがちょっと困惑するもの無理はありません。どう応えたものかと迷っているうちに、お弟子さんたちは「この女を追い払ってください」と追い討ちをかけます。
しかしわたしたちにとって最も気になるのは、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」というイエスさまの答えでしょう。これが「イスラエルにしか遣わされていない」という意味なら、地球上の大多数の人間は、困ったときも「あなたには遣わされていない」と言われてしまうのでしょう。
しかしイエスさまは、この女性をカナン人だからという理由では排除しませんでした。また、この女性の宗教を変えさせようともしませんでした。彼女のひたむきで真っ直ぐな願いを認知し、尊厳ある人間としての求めを聞いた。それは、カナン人だろうと、両民族がどういう歴史を辿っていようと、「他者の痛みに共感して応える」、それこそがイエスさまの「信仰」だったのではないかと思うのです。
わたしたちも常識の範囲を超えた何かと出会うとき、「えっ?!」とまずは絶句するかもしれません。でも心を落ち着けて、イエスさまはどうなさりたいだろうかと思うとき、こちらの宗教を押し付けるのではなく、わたしたちの信じる神はどうなさりたいか考え、まずそこから出発する、それがわたしたちの「信仰」ではないでしょうか。
不安に駆られるという誘惑
今日の福音書は、神さまに信頼し切れず、しかしイエスさまが言われるから、こわごわと足を踏み出す、ところが本当に支えてくださるのかどうか不安になり、水の中に沈没しかける、という中途半端なお弟子さんの「信仰」のようすが描かれています。でもこれは、他人事ではないかもしれません。
わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くし、あとは一体どうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
教会の働きの根本にあるのは、まずはひとりひとりの「信仰」と呼ばれる、神さまへの信頼の深さですし、できれば教会に連なるクリスチャンは、信仰を深め、神さまに信頼して生きていきたいと願っています。今日の話のお弟子さんたちのように、「溺れるかもしれない」「イエスさまはどういう状況か、本当にわかって言っているのか」「本当にわたしを愛してくださっているのか」という疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながら船の外へと、一歩を踏み出す生き方はどうなのでしょうか。しかも「イエスさまがそう言ったから」と、自分のせいではないと言い聞かせながら、前に進もうとするお弟子さんの姿は、わたしたちへの警鐘かもしれないと思います。何も考えないで人の言うとおりに行動することや、周りの圧力に屈することへの警鐘でもあるでしょう。嵐の中、不安になるのは当然です。不安による思考停止もしばしば起きるでしょう。でもわたしたちは、神さまへの盲信ではなく本当の信頼を深める時、冷静に判断できるようになるのではないでしょうか。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まず神さまに信頼することから出発しましょう。
イエスさまの「神性」
父なる神さまは、そうそう手が届かない崇高な存在だと感じる一方で、イエスさまはいつもわたしたちの身近にいてくださる存在。人間社会の葛藤や喜怒哀楽を理解し、重荷を分かち合ってくださる、そんなイメージがあります。「神」というよりは、信頼できる友だちのようで、何でもお話しできるイエスさまですが、「人」としてだけでは説明できない一面もあります。そこを何とかしようとして、たとえば一人の人間の身体の「頭」部分が「神性」であり、「首以下の身体」が「人性」であるというような説明をしたり、「そうなると、体の10%が神で、90%が人か?!」「イエスさまの中の神性と人性が対立する可能性は?!」などという大論争を経たのちに、現在では「イエスさまは完全な人間であり、同時に完全な神である。その意志は1つで揺るぎない」ということになっています。
しかし何故そんなややこしいような「イエスさまの説明」が必要なのか、わたしたちを見守ってくださる存在として、素朴に受けとめればよいではないか、という声もあるでしょう。でも、イエスさまを人間の枠だけに閉じ込めてしまうと、今度は「神」(神性)との分離が起きてしまうのではないかと思うのです。神が人間のかたちをとって地上に降り立った。でもそれは、神の化身が降り立ったのではなく、神本人であった、というところが肝なのかもしれません。
今日の福音書ではモーセとエリヤが現れ、イエスさまと三人で話している様子が語られます。でも話の内容は、将来やって来る天国や神の支配についてではなく、「エルサレムで遂げようとしておられる(惨めな)最期」についてでした。讃えられ崇められ、皆が好まれる「栄光」ではなく、誤解され見捨てられ軽蔑される出来事が待っていても、それでも喜んでいのちを差し出す「栄光」を、自ら引き受けられた。それがイエスさまの「神性」だと言っているのだと思うのです。計り知れない大きな愛をもって、わたしたちのかたくなさの闇の中に降りてきてくださるために。
神の国と出会うには
からし種は実際、胡麻粒より小さく薄いのだそうですが、土に植えられて芽を出すとやがて枝を張り、鳥が止まるような木に成長する生命力が秘められている、また、パン種(酵母)を粉に混ぜ込み発酵すると、最初の粉の量からは想像もできないほどの大きさに膨らむ。ここまでは、神の国の外からは見えない秘められた力について語っていると思います。
ところが44節以下になると、神の国そのものではなく、神の国をどこに捜すのか、という話になってくるのでしょう。畑に宝が露出して置かれているわけではないが、見た目は真価を感じられないような荒れ果てた土地の中に神の国はあると宣言します。土を掘り、石をどけ、作物を作るのに相応しい土壌を作る過程で、必ず「宝」と出会うと伝えています。
効率ということが最優先の社会に住んでいるわたしたちは、結果が期待できること以外に時間を費やしてしまうと、なんだか失敗した気持ちになりやる気も失せます。荒れ果てた畑の中に宝などあるはずがないと、見向きもしないかもしれません。そこに宝があるという保証もないのに、荒れ果てた畑を耕すのは、かなりの覚悟が必要でしょう。しかしイエスさまは、荒れ果てた土地も労を惜しまず耕しなさい、とだけ言っておられるのでしょうか。
自分が「畑」なのか「耕す人」なのか、どちらに身を置くかにもよるのかもしれませんが、たとえわたしたちが、「自分は、荒れ果て捨てられた畑のようだ」と感じていても、イエスさまはわたしたちの中にある宝を必ず見つけ出してくださる。外見には決して惑わされず、どういう状態であっても宝を見つけ出していのちを回復しよう、と言っておられると思うのです。
貧しい人、困難の中にある人、悲しみや苦しみの中にある人々こそ、神が心を寄せられ、共にいると繰り返し言われるイエスさまは、自分自身でさえまだ出会っていない宝をもすでに知っておられ、いのちを回復しようとしてくださる。そのことを信じて、今日も生きたいと思います。
じっと待つ神
先週の「たね」に続いて、今週は「麦」の話ですが、ここに出てくる「麦」と「毒麦」とは、そういう別々の植物があるわけではなく、ふつうに畑にタネを撒いても、ある株には細菌のようなものが入り込み、成長中に増殖し、収穫後、知らずに食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまう麦のことを「毒麦」とよんでいたようです。生育途中は外見での区別がつきませんが、穂浪が熟してくると、一見して毒麦かそうでないか簡単に識別できたので、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、当たり前だったイエスさまの時代の刈入れの様子を、天の国にたとえられたのだと思います。
これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。
天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。
「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまの悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。
惜しみなく与えられる
皆様も何度も聞いたことのある「種まき」の話です。良い地に撒かれた種は、百倍もの実を結ぶけれども、落ちどころのわるい不運な種子は、鳥に食べられたり、石地ゆえに根が張れなかったり、太陽が当たらなかったりして、やがてその命が消えてしまう、という切ない話に聞こえます。種子にしてみれば、自分は一方的に「撒かれて」しまう側なので、状況をいかんとも変えられない、なんとか不幸な人生でないようにと祈るばかり、という気持ちになってしまうかもしれません。でも、わたしたち人間をタネに置き換えて、撒かれてしまった運命は変えられない、と言っているわけではない気がします。一方、わたしたちは生まれた時に「良い地面」か「わるい地面」か、すでに決まってしまっており、せっかく神さまがタネを蒔いてくださっても、地面の状況は変えられない。「わるい」地面にとっては、その状態を変えることは不可能で、タネをどうすることもできない、という話でもない気がします。
神さまは、石地だろうと藪の中であろうと、惜しげもなくタネを撒き続けてくださっている、それはきっと本当でしょう。しかし、撒かれたタネを無駄にするのは、だめな人だと決めつけてはおられないと思うのです。実際、わたしたちの心の中には石地があり、照りつける太陽もあり、藪もあります。それどころか、タネよりもっと大事なことがあると確信したり、「いらないものを押し付けられた」と感じたり、ちょっと齧ってポイと捨てるようなこともしているかもしれません。
そんなわたしたちの行動に、神さまは心を痛めるけれども、だからと言って、わたしたちを嫌いになったり、タネ撒きを諦めたりはしない、何があっても撒き続ける!そのような神さまの決意の物語なのではないかと思うのです。
疲れている人々よ、
心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。
今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。
今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。
イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。
人を恐れるな パート2
イエスさまはここで「わたしは〜剣をもたらすために来た」と言われます。少しギョッとする表現ですが、人の心や身体を傷つけ、威嚇するため剣を用いる、と言われているのではないでしょう。何故なら、いかなる暴力も世の中や人を変える力を持たないことを、イエスさまは行動で示してこられたし、権力や暴力の行使には徹底して反対してこられたからです。
あくまでも本からの聞き齧りに過ぎませんが、当時のユダヤ人文化の伝統として、「家族」という単位が、強烈に人々の生活を支配していたようですそこには様々な理由がありますが、「個人」という単位では生活が成り立たない、自然環境の厳しさ、ということがまず挙げられるでしょう。水を得るのにも、パン一切れを手に入れるのにも、お金で解決できる部分は少なく、人々の善意に頼る必要がありました。万が一、人々の反感を買い、村から排除されてしまうと、生きていくこともできなかった。その上長い間、軍事力を基盤とした諸国の支配下に置かれていたので、ユダヤ民族としてのアイデンティティや文化を守り継承する必要がありました。その結果、「個よりも民族/家族重視」という認識を強調せざるを得ず、全体の利益のためには、個を押さえつけるための脅しも使われたことでしょう。そして、支配する側は、伝統という名の元に過剰な管理や利用をしてきたのでしょう。
ところがイエスさまは、「自分の家族の者たちが敵となる」とも言われます。これは当時の人々にとっては、命を賭けても避けたいワーストシナリオ、「禁句」にイエスさまが触れたことになります。言葉を変えれば、「家族や近隣にいい顔をするために、安全を手に入れるために、他のことに目をつぶるのですか?」とお聞きになっているように思うのです。
そしてこれが2千年前の遠い出来事ではなく、「他人にどう思われるか」強烈に気にする社会に住むわたしたちにも向けられた問いなのではないでしょうか。仲間同志の安泰が最優先、自分はどう考えるかなんて面倒、周りの流れに同調している方が楽、という道を選ぼうとする時、イエスさまは「それは本当にあなたの真意なのですか、望むことですか」と正面切って、お聞きになります。いくら表面を取り繕っても、わたしたちの心の深みをご存知の神は、「わたしに信頼し真っ直ぐに進みなさい」、そう招いておられます。
人を恐れるな
「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。
②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。
③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。
「収穫」の意味
週日曜日に行われる礼拝や、またその他のプログラムに関して、「忙しいのに、わざわざ時間を割くほどの魅力はない」という感想を聞くことがあります。そんな時に、これまで当たり前だと思い込んできたことや、習慣的に行ってきた事柄を、教会として改めて洗い出すのは必要でしょう。その一方、イエスさまとお弟子さんたちは、あの時代、どのように人々のニードに接しておられたのか、別の視点から聖書を読み返すことも役に立つかもしれません。
今日の福音書は、イエスさまが弟子たちを呼び集め、「弱り果て、打ちひしがれている」人々の間に派遣される話です。その時におっしゃったのは「天の国は近づいた」と告げること。具体的には、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病にかかっている人を清くし、悪霊を追い払う、それがイエスさまの指示の内容です。
亡くなった人を生き返らせるようになど、そんなことはあり得ないし、むしろ「怪しい宗教」とみなされる。イエスさまは無理なことを言われているか、あるいは一部の特別な才能を持った人だけに言われているに違いない、私ではない。そんなふうに感じるかもしれません。
でも、これではどうでしょうか。「あなたが、神の国は確かにあると信じているなら、それを告げなさい。するとあなたは、弱り果て打ちひしがれた人に寄り添い、生きる目的を失って死んだようになった人をもう一度立ち上がらせ、『重い皮膚病』にかかっている人も神に愛される資格があることを宣言し、損得勘定や他人の評価に取り憑かれて身動きできなくなっている人々を自由にする。」
冒頭で出てくる「収穫」を、イエスさまに従う「信者の数」という理解もあるかもしれませんが、それはイエスさまの意図とは違う気がします。「収穫」とは、社会の隅に押しやられ「自分には生きる価値はない」「神がいるならこんな人生を送ることをよしとされるはずはない」という想いにかられている多くの人が、それぞれの「病」のような状況から解放され、自分の足で立ちあがり、与えられた人生を生き切ることです。その先のストーリーとして、キリスト教のメンバーになるのか、仏教に目覚めるのか、あるいは宗教に関係しない生涯を送るのかは、神のみぞ知る。わたしたちに任されているのは、本心で神の国を告げること、それに尽きるのではないでしょうか。
マタイをよぶ
さて今日は、イエスさまの弟子となったマタイという人のお話です。ローマ帝国に税金を納めるために、人々から税金(通行税、人頭税など)を集める仕事をしていましたが、現代の「公務員」とは少しニュアンスが異なったようです。まず、「税を集める権利」をお金で買うことにより、徴税人になることができたので、元手を回収する必要がありました。次に、徴税人というステータスは確保しても、給料は出ないので、一定の税金額に上乗せをして徴収し、差額を生活費に当てていました。中には圧政を強いるローマ帝国の権力を利用し、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、人々からは距離を置かれ、経済的には安定しているけれど、共同体の構成員としては認められず、神の恵みから漏れた嫌われ人、つまり「罪人」という烙印を押されていたわけです。
このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。
それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。
でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。
いつもあなたがたと共にいる
十字架で亡くなり、そして復活したのち昇天する際に、イエスさまが弟子たちに、最後におっしゃった言葉です。これを読んだ10年来の知人が、「私はいつも寂しい。イエスさまが私を見守り、寂しくなくなるなら、洗礼を受けたい。こういう動機は不純でしょうか?」と聞きました。
わたしは、ちょっと考えてからこう答えた次第です。「洗礼の動機は不純でかまわない。でも、見守っていただいていると感じたくても、あなたの好きなときや、期待どおりのかたちで、実感できるとは限らない。それでも神に信頼したい、という決意表明が、信仰なのではないかと思う。」
まるで禅問答ですが、わたしはこの人が、「寂しさから守られる」というご利益を与える神なら信じてみる、と言っておられるように感じました。つまり神を、手のひらサイズに納め、自分のコントールの範囲内で、都合よく働くなら認めよう、と言っておられるふうに。
ところで、キリスト教に入信しても、この世的なご利益は、ほとんどないと思いますが、最大の益の一つは、自分の存在を大切にする根拠を「神さまが大切にされているから」と思えることではないかと思うのです。
もし心のどこかが、「こんな私は愛される価値はない、ちゃんとできない私は駄目」という思いに支配されているときは、いのちがある理由も、自己完結しがちです。しかし、存在の根拠を神様に置く人は、たとえ周りから烙印を押されても、社会が認めなくても、そしてもれなくあなた自身も、「何かができる」からではなく、無条件に愛され大切にされることを知っています。それは期待するような順番ではおきず、わかりにくく、実感できないことも多い。客観的根拠や、物理的証拠なしに「わたしは神から愛されている」と信じるのは、なかなか難しいのだと思います。でもイエスさまは最後の最後に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この言葉をすぐには呑めなくても、神さまが本当に大切にしたいことは何なのか、じっくり見つめていくことは可能です。
明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。晩秋までかかってゆっくりと、イエスさまの示された愛と命の軌道を辿っていきましょう。
聖霊を受けなさい
聖霊なる神を「わかろう」とすること、それは自分の持つ限界や弱さを認めることと関係があるのかもしれません。世の中の不具合や、人生で起きる様々な不条理に立ち向かい、少しでも人生をよくしようと努力する。当たり前かもしれませんが、そんな時、限界を越えるような状況にしばしば直面します。自分には越えて行けない、無理だと感じる壁が目の前に立ち塞がったとき、そこで撤退することも多いかもしれませんが、一方で「自分の力」では到底有り得ないような事柄へと導かれることがあります。「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわば自分では「所有していない」力が何処からかやって来て、物事が思わぬ方へ展開するような場合です。それは、わたしたちの「所有しているが隠れていた能力」が陽の目を見たからではなく、「必要なものはすべて、神さまがそのつど与えてくださる」ことの証であって、わたしたちを通して働く聖霊なる神の邪魔さえしなければ、必要なことはすべて「為されていく」ということなのだと思います。
イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。
聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。
聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
神の愛に生きる
イエスさまは、十字架で亡くなった後によみがえり、そしてお弟子たちの間に現れて、しばらく一緒に過ごします。そして数十日すると、「神の国」に戻って行かれますが、それを記念するのが「昇天日」(今年は5月18日)です。そういうわけで今日は「昇天後主日」。すでにイエスさまは「天」に帰られてしまっているので、聖卓脇の大きなろうそくも片付けられ、来週の日曜日に「聖霊降臨日」を迎えるまでは、不安や寂しさを少し感じる日曜日なのかもしれません。
ところで、「父よ、時が来ました」という言葉で今日の福音書は始まります。実際の聖書の物語としては、これから十字架にかかるその直前の場面なのですが、それは「絶対に引き返せない地点へと足を踏み出す時が来た」というイエスさまの覚悟であり、また、皆を地上に置き去りにして自分は逝かなければならないという切なさが入り混じった、イエスさまの切なる祈りでもあります。
そんな福音書の最後は、「彼らもひとつとなるためです」という言葉で締めくくられます。これは、イエスさまの十字架が「キリスト者たちが連帯し、結束するのに役に立つ」という話ではなく、一連の出来事が成就し、神さまの愛を人々が本当に知るようになった時が来たら、イエスさまが神さまと一体であるように、人々はもれなく愛を実行して生きるようになる、そういう意味で神さまと人々が一つとなる、という意味ではないかと思うのです。
イエスさまが地上に生まれ、人々の間で30年余の短い生涯を通じて身をもって伝えられたこと、それは「神さまの愛を知って、愛に生きること。それこそが永遠のいのち」ということではないでしょうか。わたしたちは誰ひとり、完璧な人間ではないけれども、少しでも、一瞬でも、神さまの愛に生きようとするとき、神さまが共にいてくださるのを実感するのではないでしょうか。
わたしにつながっていなさい
「つながっていなさい」と言われるとなんだか「束縛」のように感じることがあります。ブドウの木とはイエスさまのことであるとはわかっていても、「あなたは枝だ」と言われると抵抗を感じます。そんな固定的な生き方より、その時の気分で行きたいところにいつでも飛んで行ける方が自由だ、と感じることもあるでしょう。でもイエスさまは、束縛したり支配したりするために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っています。
ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。
ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。
つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。
心を騒がせないがよい
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と続くこのイエスさまの言葉は、ご葬儀の福音書として読まれることでも有名です。復活されたイエスさまと、再び会うことができた弟子たちですが、その一方で刻々とお別れの時が近づいています。これから先、何を心の拠り所として、進んでいくべきなのか。イエスさま無しで、果たして本当にやっていけるのか。目標も見えにくく、そして何より心細かった弟子たちへのイエスさまの言葉です。
人と人とのお別れを経験するわたしたちも、同じ気持ちは経験しているでしょう。たとえさようならを言う時間があっても、今まで居たその人がこの世からいなくなる。それは世界が終ったようでもあり、今まで当たり前だった安定と確かさを失う世界。捉えどころのない不安は、まさに落ち着く場所を失った魂のようです。
しかし、こんなわたしたちに、イエスさまは具体的なイメージを残してくださいました。地上の命が完結した「その後」についてはイエスさま自らが場所を用意しているので心配はないと言われるのです。「そこは3LDKか?」と、ある信徒に聞かれたことがありますが、それは分かりません。温泉付きかどうかも、豪勢な食事をいただけるのかどうかも、書いてありません。でもわかっていることは、「イエスさまが、他でもないあなたのために、安心して居られる場所を準備くださっている」と言うことです。イエスさまの示される世界についてわたしたちは、「どういう贅沢が待っているか」ではなく、「必ずどんな時も、一緒にいるから心配はいらない」という約束に心躍らせるべきなのではないでしょうか。
イエスさまの約束を知りながらも、しかしわたしたちは弱く、すぐにこの約束を疑い、あっという間に「心を騒がせ」ます。しかしそれは、一回でも心を騒がせたら駄目、という話ではなく、弱さをご存知のイエスさまは、何度心を騒がせても、またハッと我に帰ることを待っておられると思うのです。このお約束を心の底から信じようと努めるとこそが、わたしたちに出来ることなのではないでしょうか。
人のために祈る
日曜日の礼拝の中で、旧約聖書から一つ、新約聖書からから2つ、合計3つの聖書が読まれます。最近は、福音書のお話ばかりが続きましたので、たまには使徒書の内容について、少し触れてみたいと思います。今日の使徒書(2つ目に読む新約聖書)には、ステファノという人が登場します。
弟子たちの中で役割分担が出来た頃のこと。礼拝やお祈りに責任を持ち、イエスさまの教えを人々に伝える弟子たちとは別に、食料の配布など、人々の必要に目を向ける担当者もいた方がよいということになりました。そこで弟子の中から選ばれたうちの一人がステファノだったというわけです。
ステファノは不思議な力を持っていて、困った人を助けたり、様々な素晴らしい働きで多くの人に勇気を与えましたが、一方で、そんな彼をねたむ人々が出てきます。彼らは、嫌がらせ目的で論争をふっかけたりしますが、ステファノは豊かな知識と深い洞察力によって論点を明確にし、きちんと応答します。また、偽証を元に裁判にもかけられますが、ステファノはその意図を見抜き、伝統に固執するがゆえに神への信頼が薄れ、結果としてイエスを十字架にかけてしまった、と述べました。もはや弁論でステファノを懲らしめることができなくなった人々は怒りにかられ、議会から彼を引き摺り出して町の外に放り出し、殺害してしまいます。
そこまででしたら、普通?の酷い話なのですが、ステファノは石を投げられながら、2つの祈りを残しています。一つは自分のことです。生涯の最後が迫ってきた時、やはり少し怖かったのでしょう「イエスさま、わたしの霊が肉体を離れた時、受け留めてくださいますね」と祈ります。
もう一つは、今まさに自分を殺そうとしている人々のために祈っています。「彼らがこれ以上罪を重ねませんように」と。
ステファノのすごいところは、罪を正当化し残虐行為を重ねるような人々の中にさえ、神が創られた人間の姿を見ていたということではないかと思うのです。自分を破壊しようとする人々も、元々は神さまが愛され大切にされた存在。彼が最後まで怒りを怒りで返さず、嫉みを妬みで返さなかったのは、「善人ぶっていた」からではなく、神さまへの絶大な信頼をすべての基としていたからではないでしょうか。
エマオへの遠回り
いわば「お祭り騒ぎ」のようなイースターのお祝いも、わるくはないのですが、イースター(復活節)は1回限りではなく、しばらく続きます。
これは、暦の上でそうなっているから、ということだけではなく、神さまがなさろうとした計画全体を理解し、本当の意味で「わかる」ためには、わたしたちの想像を超えた時間や経験が必要なのでしょう。
聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。
今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。
それは、わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。
イエスさまによる「平安」
純粋な気持ちで神さまを仰ぎ見ることは、むしろ幼子から、わたしたちが学ぶ出来事なのでしょうが、現実はなかなかそんなに単純ではありません。自分にとって都合のよい「神」の姿を描き、その通りに「神」が働かないとガッカリしたり、「何故こんなことを放置するのですか」と詰め寄ったりします。ひょっとするとこれは、「神さまを知ろう」としているのではなく、人生がより有利になる方法のひとつとして神さまを利用したい、そのために「神」についての幻想を抱いていたい、ということなのかもしれません。
今日の福音書では、イエスさまに逢う機会を逃したトマスという弟子が、「実際にさわれないなら信じない」と言い放ち、他の弟子たちから顰蹙を買います。本当に信じているかどうかは別として、なんとなくみんなが「イエスさまが来た」と喜んでいる空気の中で、トマスは適当な幻想だったかもしれないことに屈しなかった。皆の顰蹙を買わないために同調する、神さまを利用しているかもしれない自分に蓋をして信じているふリをする、そんなことをしなかったトマスです。このトマスの真摯さ正直さ、そして弱さをさらけ出す信仰に、イエスさまは心を揺さぶられ、もう一度、トマスのために出現します。
イエスさまの十字架によって伝えられたのは、わたしたちのあらゆる欲を満たす上昇志向のための神ではなく、あくまでも心の中の漆黒の闇に降りてきて、「最低」も「最悪」も体験され味われ、どんな状況でも共にいて下さる神の姿です。つまり目を背けなくなるような惨めな状況でも、決して逃げ出したり見捨てたりする神ではなく、支配下に置いて束縛する神でもなく、愛のうちに受けとめてくださる神の姿です。
イエスさまが、命と引き換えに教えて下さった「愛」を、心の真ん中に据え、神さまが守ってくださることに信頼し、平安とともに人生を進んでいきましょう。「平安があるように」と挨拶をしてくださるイエスさまと、出逢い続けましょう。イエスさまによる平安が常にあると、自分の弱さも単なる弱さではなくなります。イエスさまによる平安とは、「何があっても私は覚えていただいている」と信頼し続けることです。
イースターおめでとうございます!
イースターというと、エッグハント?うさぎ?チョコレートのお菓子、、、と思い浮かぶ方もおられるでしょう。また、厳しい冬が去り、世界(北半球だけですが)が、灰色から一転し、一斉にあざやかな彩りに包まれる春の訪れと、そして「今年もなんとか冬を乗り切った」「生き残った」という喜びを、実感するのでしょう。
教会にとってのイースターは、「新しい季節がやってきた喜び」だけではなくて、どうしても、「イエスさまの十字架の意味」を自分のこととして、心に留めることと切り離せないのだと思います。つまり、十字架という大変な苦しみを引き受けてくださって「ありがとう。はい次!」ではなく、どうしても十字架なくしては、わたしたちに告げる方法がなかった。世間的には「人生失格」「敗残者」といった烙印を押される十字架刑を通じてしか、わたしたちが理解することができなかった「何か」を伝えようとされた出来事なのではないかと思うのです。
神さまのイメージというと、何かとても崇高で、万人に手の届かないところにおられ、善悪を判断し、悪人には罰を、善人には御褒美を与える、といったイメージがあるかもしれません。しかしイエスさまは、短い活動期間(たった3年!)の間に、徹底して全然ちがう神さまについてお話しされました。
それは、旧約聖書のイザヤ書(53章)に描かれた「苦難のしもべ」と呼ばれる神さまの姿です。堂々とした神らしい風格も、好ましい容姿もなく、人々から軽蔑され、親しい人からも見捨てられる神であると。しかも、そういった対人関係だけではなく、多くの痛みや苦しみを負っておられ、「病に罹る」ということの辛さも知っている神であると。そして、神だからそのうち社会を変えてくれると人々が期待していると、逮捕され、リンチに遭い、いい加減な裁判で有罪判決が出て、あっけなく死刑になる神。
当時の人々は「そんな神ならいらない」ということで、期待は怒りに変わり、喜びは憎しみに包まれます。つまり人々は、自分が期待する「神」を、イエスさまに投影したので、「裏切られた」と、妬みや困惑も相まって、行政側だけでなく、一般民衆もこの憎しみの輪に加わっていきます。そうして、イエスさまは完全に「見捨てられ」て、十字架刑にかかって亡くなります。
ここで話が完全に終わるなら、「ひょっとしたら、イエスという人は単なる惨敗者なのかも」という気持ちが、わたしたちの中にも広がったことでしょう。わたしたちを愛し、わたしたちのためになんでもしてくださる神さまは、さらに一歩、足を踏み出してくださいました。それが「復活」したイエスさまの存在です。
つまり、社会的には「極悪人」として処刑されたイエスさまは、何かに失敗したからそうなったのではなく、その一連の出来事を通じて、神とはどういう存在なのかを、あらゆる方法を用いて、わたしたちに伝えて下さったのが、「イースター」の出来事なのです。言い方を変えれば、「よみがえったから凄い」のではなく、神さまのわたしたちに人類に対する想いを本当に知ること、わたしたちがどんなに神さまに大切にされ、愛されているかを知ること、それがイースターなのではないでしょうか。
「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれません。でも、自分が大切にされることを通じてしか、わたしたちは自分で自分を大切にする方法を知りません。また、自分を大切にすることが出来て初めて、他の人を大切にすることができるようになります。生きていくことは、時にはとても辛いです。でも今日の命があるということは、神さまが他でもないあなたに「今日、あなたにやっていただきたいことがある。よろしくね」と、命をお預かりし、生きていくのに必要なものを与えようとされている、ということなのだと思います。生かされていることへの感謝、いのちの喜びを感じられるイースターが、あなたのところにも届きますように!
「都合のいい神」を超えて
クリスマスイブ礼拝でも、日課の一つに選ばれる箇所ですが、「苦難のしもべ(主の僕の苦難と栄光)」と呼ばれるイザヤ書の52〜53章は、イエスさまの十字架の道をもう一度心に留めるために、聖週の旧約聖書でもおさらいをするようになっているのでしょう。
お弟子さんたちもそうでしたが、ローマ帝国の圧政に苦しめられている多くの人々は、世の中を「あっ!」と変革してくれるカリスマを求めていました。全能の神、必要とあれば山でも動かす方、すべての人の王、そんな期待の中、イエスさまが「救い主」として来られた以上、もうその絶対的な力をもって、社会をひっくり返してくれるに違いない、そう信じたかった。他の宗教を圧して、ユダヤ教の伝統が特別に擁護されるに違いない、という妄想もあったかもしれません。つまり人々は、それぞれ都合のいい勝手なシナリオを組み立て、自分の望む「神」を、イエスさまに投影していた、そんな様子が、福音書の端々から漂ってきます。
ところがイエスさまが目指したのは、それらの期待とは対極を成す「苦難のしもべ」の姿でした。「輝かしい風格も、好ましい容姿も」なく、「軽蔑され、人々に見捨てられ」、「多くの痛みを負い、病を知っている」神。そして社会を変革する前に「捕らえられ裁きを受けて」、あっけなく「命をとられる」。しかも「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」と。
何故さっさと前向きに社会を変えてくれないのだ、と焦立った人々は逆に怒りや憎しみをイエスさまに向けたことでしょう。でも、イエスさまのプランは、「石をパンに変える」ように、目先の政治体を破壊し、和平状況を一時的に作ることではなく、また誰かを満足させることではなく、人々に神の愛を知らせることでした。そしてそれは、2千年を経た今でも、わたしたちに伝わり続け、そしてわたしたちを導き続けています。
誰でも困った時、「お願いですから、今、助けてください」と祈ることはあります。でもそれがいつのまにか、「自分の言うことを聞いて助けてくれた」神だから信じる、というふうに置き換わってしまわないように、イエスさまが命と引き換えに教えて下さった「愛」を、心の真ん中に据えたいと思います。
「私の民よ、私があなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」
この大斎節第5主日の旧約聖書は、いつ読んでも不思議な物語です。谷を埋め尽くす「甚だしく枯れた」(=命と真逆の状態)「人骨」というのも奇妙な光景ですが、神の言葉が放たれると、やがて骨は組み立てられ、筋肉や皮膚組織に覆われて人間のかたちになる。さらにそこに、神の霊が吹き込まれると生きた人となり、自らの足で立ち上がる。しかもおびただしい数の人の群れとなると。
かつては川が流れ、田畑を潤し、人々が活き活きと生活していたかもしれない谷なのですが、それは過去のこと。昔の谷を懐かしがる人さえいなくなった地。命が生まれる希望はなく、抜殻だけが悲しくころがっているような谷。それは誰が見ても、いのちのきざしを感じられない情景です。
しかしながらこれは、「神なら骨も人間に戻せる」ことを伝えるための話ではないでしょう。ある本に、エゼキエルのこの箇所のディスカッションのお題として「あなたにとって、この『骨』は何を意味しますか?」「あなたの教会が命を得るには、どのような望みが必要だと思いますか?」「神の霊が、あなたの教会に新たな命を吹き入れてくださるよう、お祈りを作ってみましょう」などと書いてありました。
つまりこの物語は、わたしたち個人個人に起きることを示唆しているのではなく、教会や共同体などの「神さまが与えてくださった人と、神さまからお預かりしている能力とを持ち寄り、神の国を実現しようとする」営みについて語っているのではないでしょうか。望みがあるとは到底思えない状況に、神がその霊を吹き込んでくださる時、人は自分の足で立ち上がるようになり、神の存在を心の底から知るようになる、と言っているのではないでしょうか。
教会が「枯れた骨」のようになること。それは目には見えるけれども中身のない「かたち」と化し、血も涙も流れないけれど、そして痛みや苦しみを排除できているけれども、もはや「命」が存在しないという状態なのでしょう。「命」がないのは、本当に残念なことですが、しかしその現実を認めること無しには、枯れた骨は、枯れた骨のままなのだと思います。
わたしたちにとっての大きな課題は、「我々の骨は枯れ、望みは失せ、滅びる」(37:11)とは、まだ認めていないことかもしれません。どこかで「まだ何とかなる」「誰かが何とかしてくれる」「自分が生きている間だけ今のままなら、あとはどうなってもいい」等という気持ちが少しあるとき、「滅びるだけだ」という現実を直視する覚悟は、できていないのだと思います。
神さまは、その覚悟がない人々をも見捨てられませんが、神さまの霊を受けたとき、それに気がつかないわたしたちでは、もったいないと思います。墓場のようなわたしたちの心を開き、霊を送り続けてくださる神さまは、わたしたちのかたくなさにまで降りてきてくださいます。
真実を「見る」
今日の福音書は、おそらくエルサレムでの出来事です。通りすがりにイエスさまは、目の見えない人と出会います。とても長い箇所ですが、要するに目の見えなかった人は「真理を見る人」だったけれども、「私は見える」と思い込んでいた人々は、大事なことを見落とす人たちだった、という話ではないかと思うのです。
イエスさまのお弟子さんたちでさえ、「生まれつき目が見えない」のは罪と関連していると思っていました。また、「罪の子だ」と片付けてきた近所の人々も、その人が急に一人前の「男性」に見えてきたので不安になり、ファリサイ派の人々のところに連れて行き、顛末の解明を求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱し、彼の両親に説明を求めたりしますが、彼らは本人に聞いてくださいと返します。仕方なくユダヤ人たち(いつのまにかファリサイ派の人々だけではなく)は、再び本人に聞くことになりますが、彼は最初から一貫して全く主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちはこの人を理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と会い、彼からの「主よ、信じます」という言葉を聞きます。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしても、そして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったでしょう。理解できないことが起きている、しかも自分たちは神のみ恵みの中にいることが保証されており、そうではない人々は別世界に位置していたはずなのに、立場が逆転してしまう。「罪」ある人を排除することが正義だと信じてきたが、実はそこには“?”が空中に浮かんでいる。でも、人を裁き、上から目線で決めつける事(うっかりやってしまうことはあるかもしれない)の危うさに気づいたら、勇気を持って物事の本質を「見る」。イエスさまが望んでおられるのは、無条件の服従ではなく、真実を見ようとするそんな謙虚さではないでしょうか。
「人にどう思われるか」
コロナ前のある夜、非常に混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも横目で眺めるだけで次々と降りていく。そして新しい人々が乗り込んでくる。拾う人がないままに、財布は床に座っている。やがてわたしは、自分の降りる駅を迎えてしまったので、手を伸ばして財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことである。つまり落ちている財布を「自分のものにする」という誤解をされないために、この人々は財布を放置していたのだ。他人の財布を盗る人と思われたことはさて置き、「人にどう思われるか」がこんなにも大切な人々の世界観に驚いていた。
しかしながら、「人にどう思われるか」という視点が培われるのは、実際に受けた、人からのリアクションに加え、自分の中にも行動チェックをする別の自分がいて、むしろそちらの方が強烈な力があるように思います。無意識のうちにしかも素早く「人にどう思われるか」を察知して、身を護るよう警鐘を鳴らしてくる、そんな別の自分です。
今日の福音書のサマリアの女性にとって、イエスさまの行動は、最初は警鐘だらけだったに違いないのです。サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が話しかけてきて、さらに下手に出て何かをお願いする、この女性が不審に思っても何ら不思議はありません。親切に水を呑ませても、絶対に何か別ストーリーがあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリアの共同体からほれ見たことかと言われるかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて、自分は安全なのか、と気が気ではなかったに違いありません。ところが、信じられないことが次々とおきていきます。その町のサマリア人の多くがイエスさまの言うことに耳を傾け、神さまの愛を信じるようになります。ユダヤ民族としては切り捨てた人々なのに、イエスさまはサマリア人の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされます。民族や常識や宗教を超えて、また「人にどう思われるか」を超えて、最も優先すべきことを大切にしていくよう、人々が変えられていく、そんな奇跡の物語ではないでしょうか。
真実への探求
大斎節の2週目となりました。「自分の弱さと向き合う」季節を、皆さんはどのようにお過ごしでしょうか。何も決めずにここまで過ごしてしまったという方も、今からでも遅くはありません。いつでも自らの弱さと足りなさを蔑ろにしないで、まっすぐに神さまに聞きましょう。
今日登場するニコデモという人は、自分の無知や限界をさらけ出してでも、イエスさまから真実を聞こうとした人なのではないかと思うのです。ニコデモは、ヨハネによる福音書では3度登場します。
7章50節では、多くの人々がイエスさまの言葉に耳を傾けるようになっていったとき、伝統的ユダヤ教の存亡の危機を感じたファリサイ派と大祭司の指導者層は、イエスさまを逮捕しようと人を送ります。結果的には逮捕には至りませんでしたが、ニコデモは議員仲間からの反発を受けながらも、闇雲に断罪するのではなく、まず事情聴取が必要だと主張し、その場は収まってしまいます。
19章39節では、ニコデモは議員身分の剥奪や、ユダヤ支配層からの追放も覚悟の上で、十字架刑で亡くなったイエスさまを葬るために、大量の没薬と香料を準備し、そして遺体の引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフとともに、丁重にイエスさまを墓に納めます。
ところで今日の福音書では、誰にも知られないよう闇に紛れてイエスさまを訪ねるなんて少し狡い、とする考え方もありますが、イエスさまの解き明かす話には、耳を傾けざるを得ない何かがあると感じているニコデモの姿を伝えています。彼は最高議会の議員であり、ユダヤ社会の指導者の一人でした。ユダヤ教の伝統や習わしを擁護する側にとっては、それらをないがしろにする(ように見える)イエスさまを潰すために行動しても、また真実を知る恐怖から逃れるためにイエスさまを否定しても不思議はないのに、イエスさまに教えを乞う。これだけですでにニコデモは「新たに生まれて神の国を見る」人生が始まりかけているようにも思います。何歳からでも、どんな立場にあっても、何かを失う可能性があっても、イエスさまの助けにより、真実に目を向けることを選んだニコデモです。
誘惑」との別離
2月22日から大斎節(イースターを迎える準備の季節)に入りました。イー スターを迎えるまでの40日間を「大斎節」と呼びます。イエスさまが、荒野で、さまざまな誘惑を退 けたことに倣い、美食や気晴らし事を斥け「自身の弱さに向き合う」期節として 過ごす習慣がありました。昔は「娯楽」や「贅沢」がごく限られていましたので 自分の弱さと向き合うためには、そんな習慣も役立ったのかもしれませんが、 今や、娯楽や贅沢でないことを見つけるのが大変なほど、日常生活は様々な雑音 で満ちています。この現実の中では、40日間だけ何かを我慢したところで、自己満足や達成感を味わうだけとなってしまう危険もあります。具体的な過ごし方 については、個人の判断と考え方にお任せしていますので、まずは、イエスさま が遭われた誘惑について注目したいと思います。
一つ目は、「石をパンに変える」誘惑でした。災害が起きた時に、水や食料 を届けるのは必須ですが、それで「何かやってあげた」という気分になる誘惑も 含むのでしょう。当時、イエスさまだけではなく、多くの人がお腹を空かせていましたが、そんな人々の前で石をパンに変えて見せれば、身体が満足しただけで はなく、神さまの力を信じる人も出てきたかもしれません。しかし、イエスさま が紹介する神さまは、都合よく「物をくれる神」ではなく、また「自立を阻害 する神」でもなく、「愛」の神でした。
2つ目は、「神を試してみる」誘惑でした。目に見えず手で触れることもできない神さまを、悪魔は旧約聖書を引用し、心身が納得する方法で試すよう誘います。イエスさまは神殿の屋根まで連れて行かれましたが、人間の弱さを忘れていませんでした。「試し」た直後だけ神の存在を感じることができるかもしれませんが、 1秒後にはまた試したくなる。それは、いくら飲んでも喉が渇く塩水を呑むのと同じです。永遠に神を試し続け、そして不安しか与えられないというジレンマをよくご存知でした。
3つ目は「世界のすべてを支配する」誘惑でした。でも、神さまの国は、支配や秩序やルールによって守られる国ではなく、「愛」が基盤となり、人々が自由意志と、喜びと自らの責任において生き方を決める国です。そう最終的に心を決めたイエ スさまの道は、ここからはまっすぐ十字架に向かうことになります。
「主と同じすがた」
「よくわからない話」と感じる箇所は聖書にしばしば登場し、今日の福音書もまた難解です。光のように白く輝く衣も、イエスさまとモーセとエリヤが語り合う意味も、またこの光景を見ていた弟子たちが最後に口止めをされる様子も、「で? 何が言いたいのだろう」という気持ちになります。もちろん様々な「解釈」はできますが、納得のいく説明を得ることが「聖書を読む」ことではなく、わたしたちにとって今日という日を生きていく「良い知らせ」と出会うこと、それを見つけ出すことが、聖書を読む目的なのだと思います。
今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になることが、十字架にかかって死ぬことではないと思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのか。それは、「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることではないかと思うのです。
「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられているのは、「神の息子」だからではなく、神の愛を信じている「子」という意味ではないでしょうか。それはわたしたちに対しても語られ、しかも常に注がれている言葉なのに、わたしたちは聞けないことも多い。ことに辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているのに、わたしはその中に入ってはいない」と疑う。たとえそうでなくても、にわかには信じがたいと思ってしまっているわたしたちがいます。それは、傷ついた心にとって「愛されている」と信じることは、再び裏切られるかもしれないという不安がよぎることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。
それでもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもありますが、それは神さまの目にはすべて尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と、りきんでいるときには感じにくいですが、溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていることに心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
神さまの前に生きる「人」に伝わるまで
日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、言葉以外の表現に対して、許容度が高いように思います。不快な表情や無言の応答など、明らかに表情では苛立っているのに言葉化はせず、「言わなくてもわかるでしょ」といった一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。もし無言のまま表現し合えるのであれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察し、会話をする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。
ユダヤ人社会でも、律法に照らして「間違い」とは認識されないものの、神さまの「愛」に反する行為は見過ごしにされてきました。密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりすることは、律法に反したとは明らかにされないので許容されてきたのでしょうが、イエスさまはこういったことに対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」とおっしゃいます。
しかも具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、たとえ口に登ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるとおっしゃっています。
しかし「裁きを受け」ないために、何一つ間違うな、とイエスさまが言っているわけではありません。重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが目的ではなく、こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、実は本人の心と身体と魂の健康を少しずつむしばみ、愛に基づかない判断や自分を絶対化する傾向、そして最終的には神さま不要の生活になってしまう。しかもそれに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっています。神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めていきましょう。
「人」に伝わるまで
今日の福音書もまた、内容てんこ盛りです。文中に登場する「地の塩」「ともし火」「律法を廃する」と、それぞれ別のお話が出来てしまいそうです。でも今日は、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」という、なかなか危険とも思える聖句に注目したいと思います。聖書の常識的なイメージとしては、人に知られなくても、神さまはわかってくださるのだから、人から「立派」という評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい、と勧めるのがふつうな気がします。ところがこの聖書の言葉は、「ひっそりと立派な行いをするのではなく、みんなに見えるように実行しなさい」とも聞こえるフレーズ。これではファリサイ人が言ったりやったりしていることと同じではないか。果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と疑問に思います。
ところで、あるシェフが書いた本によると、コックの長い下積み時代、彼はひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられたそうです。彼がどんなに心を込めて鍋を洗っても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。しかし、鍋を丁寧に洗い、磨き続けていると、何がどのような影響を及ぼしたのかはわからないけれども、自身も仲間も、何かが少しずつ変化してゆく、そしてそれは体感として、100回繰り返したあとの、とても不思議な変化だ、という話でした。
鍋を洗う事と立派な行いを一緒くたにするのは少し気が引けますが、イエスさまがおっしゃるのは、「人にわかるようなパフォーマンス」をしようという話ではなく、皆が変えられ、自身も変えられるような繰り返しの努力の背後には、100回繰り返された工程がある、ということなのではないかと思うのです。それはつまり、すぐに結果が出なくても、諦めずに神さまに信頼し続けましょうという呼びかけであり、何かが変わるための、日の目を見ない99回の努力は、決して無駄にはならない、ということなのでしょう。
まもなくわたしたちは、大斎節を迎え、自分自身を顧みる季節に入ります。何かがすぐに変わらなくても、その100倍、神さまに信頼し続けましょう。
「幸い」なのはだれ
(あとで)慰められるのだから、(今)悲しむ人々は「幸いである」と言われても、正直なところ納得はできない。 あとで慰められるのならば、もったいつけずに、今すぐに慰めてくださいと言いたい。 あるいは、悲しみの渦中にある人々に対し、貧しくも悲しくもない人が気休めとして、「あとでね」と誤魔化されているような気にもなる。
しかしながら、この「幸い」リストは、実はもっと普遍的なもので「どうしたら人間は幸せに生きることができるか」という、永遠に繰り返されてきた問いに対して、イエスさまがこたえられたのではないか、と思うのです。
旧約聖書の世界にも、「幸せな人」のたとえが出てきますが、幸せになる大前提として「律法」の存在があります。つまり「律法」を順守することが幸せの鍵で、律法を守れる人は幸せな人、守れない人(病や怪我を負う人、「罪」と定められた生活を余儀なくされる人)は幸せにはなれない人、ということを差別化するために使われていた、と言っても過言ではありませんでした。そして、悲しみや貧しさは、律法を守れない=罪ある人に対する「罰」と考えられていました。
ところがイエスさまは、貧しい人こそ、悲しむ人こそ、神さまの祝福を受けると語ります。挙句の果ては、「あなたがた」と二人称で語り出します。つまり悲しんだり貧しかったりすることは、神さまから見捨てられている証拠ではなく、むしろそういう人々のために、天の国が用意されていることを、そしてそれは一般論ではなく、他でもない「あなたがた」にわかってほしいと語ります。
「幸いである」という表現は、ともすると「よかったね!」と、現状肯定とも捉えられるニュアンスを感じることがありますが、「貧しい」「悲しい」状態が幸いだからそこに留まるように、と言っているのではなく、貧しくても悲しくても、また社会が「罪の存在」と決めつけてきても、「あなたたち」は紛れもなく神さまの国の住人なのだと告げておられるのではないでしょうか。
天の国はすでに近くにある
クリスマス物語に登場する「羊飼い」は、人々から少し見下されていた職業だったことは度々お話ししましたが、今回登場する「漁師」もまた同じような職業だったようです。現代では漁師というと、数ヶ月に渡って北の海で漁を行う「たらば蟹」漁などでは、大きな危険ときつい肉体労働が伴うものの、無事に帰ることができれば収入も悪くない、「勇ましい」というイメージもあります。しかし今日の聖書に登場する漁の現場はガリラヤ湖。遠浅で、普段は穏やかな湖ですが、山々に囲まれている地形から突然強風が吹き、船がひっくり返ることもあります。しかし北の海の厳しさとは格段に状況が異なり、魚の種類も多いわけではなく、網を繕ったり船の修理をしたりと手数がかかる割には、地味で資本も不要、尊敬を集めるような職業ではなかったようです。
それは一旦置いておいて、「天の国は近づいた」という言葉を最初に問題にしたいと思います。もしこれを「この世の終わりが近づいている。審判の時がすぐそこに迫っているから、今のうちに良い人になって、天国に入る準備をしておいた方がよい」というふうに読んでしまうと、その情報を手に入れることが出来た「早い者勝ち」のように聞こえてしまいます。しかし原文を見ると、「天国は(すでに)近くにあるのだから、考え直しなさい」とも訳せます。イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、「あなたには関係ない」とされてきた貧しい庶民や社会的地位の低い人々に、「他ならぬあなたの近くに、天の国はある。だから、自分は関係ない、なんていう考えは変えなさい」と、イエスさまが言っておられるように思うのです。
さらに追い討ちをかけるのが、「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。読み方によっては、食べるために魚を捕まえるように、商品のように人間を捕まえる、という話に聞こえてしまいますが、こちらも原文を見ると、「私はあなたを人間の漁師にしよう」とあるだけで、狩のように「人間を獲る」とは書かれていません。この方がわかりやすいだろうと言葉を添えたのかもしれませんが、イエスさまがおっしゃりたかったのは、人を獲るという意味ではないように思います。
つまり、社会的に一人前の大人の仕事とも認められていなかった職業の一つである漁師に対し、職業を変えるのではなく「あなたはあなたのままで、すでに一人の人間として神さまから尊重されている。そういう者として生きなさい」とイエスさまは告げておられるのではないでしょうか。
ゆるしへの認識
アドベントに度々「バプテスマのヨハネ」が登場しましたが、顕現節に入り再びの登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようです。興味深いのは、ヨハネはイエスさまのことを二度も「神の子羊」と呼んでいることです。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊をいけにえとして捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という展開は、現代のわたしたちには、とうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でしょう。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。
わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。
なぜ、イエス様が「洗礼」を?
前にもお話ししたかもしれませんが、中世のキリスト教会では、亡くなる直前まで「洗礼を受けること」を引き伸ばす習慣が流行していました。洗礼を受けることによって、それまで犯した「罪」が全部帳消しになると信じていたので、確実に天国へ行く「ノウハウ」として、洗礼によって清廉潔白となる必要があると考えたからです。
しかし、今日の福音書では、罪のない「神の子」イエスが洗礼を受けています。うろたえるバプテスマのヨハネに対し、「今は止めないでほしい。正しいことだから」と答えるイエスさまですが、「罪を帳消し」にされる必要があったとは思えません。また、洗礼の場面なので、つい「水」のことばかり記憶に留まってしまいますが、イエスさまご自身は洗礼を受け、そして続いて「神の霊が鳩のように降っ」たと書かれています。つまり、「水で洗うこと」と「神の霊が降ること」はセットであり、本来は1つの出来事なのですが、さまざまな経緯により、前半を「洗礼」、そして後半を「堅信」とみなすようになりました。
でも、「神の霊が降った」からといって、別にビビビッと電流が流れた訳ではないでしょう。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が降って「愛する子」と宣言されたように、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたすべての人々は、実はすでに神さまの「愛する子」と宣言されているのではないかと思うのです。それを受け入れるのには、とても大きな勇気を必要とするかもしれません。なぜなら、目に見える確証はなく、音としても聞こえないからです。
現代のわたしたちにとっての洗礼は、これからの人生を神さまと共に歩きたい、イエスさまが示してくださった「愛」に信頼して生きていきたい、その決断を公表することであり、このための努力を自分も続けられるよう、教会の皆さんに祈って支えていただきたいと公言することでもあるでしょう。
しかも洗礼は、依存の対象を人間から神へ転換する、ということではありません。間違えても失敗しても、迷っても怠けても、あるいは良い子でいても悪い子になっても、決して見放すことのない方が、自分をしっかり支え続けてくださる、神さまは自分を「わたしの愛する子」と呼びかけておられる、と信じることなのでしょう。それが、わたしたちが洗礼を受ける時に、神さまと交わしたお約束なのではないかと思うのです。そしてその模範を示してくださるために、イエスさまはわざわざ洗礼を受けてくださったのかもしれないなと思います。
この世を生きるしるし
ところでイエスさまのお名前は、当時どこにでもいる一般的な「イエス」(「ヤハウェは救い」という意味を持つ、ヘブル語の「ヨシュア」のギリシア語音訳)。特別感はひとつもありません。しかも、父親や親戚の中にいる男性の名前をもらってそうなったかというと、そうではなく、天使がイエスと付けるようにと言ったから、この名前になったということになっています。この特別感のない方は、旅の途中の両親が宿に泊まれなかったゆえ、家畜で足の踏み場もないような不衛生な洞窟で生まれ、そして7日目に「イエス」と名付けられました。教会では、クリスマスも入れた8日目に当たる1月1日を「主イエス命名の日」として記念しています。
イエスさまは、誰が見ても「神の子だ」とわかるような、きわ立つ人生が与えられたのではなく、まったく普通の人間としての、短い生涯を全うされました。目立つ存在でもなく、麗しい外見の輝きもなく普通の人として、この世界を生きました。それは、言い方を変えれば、本来神さまが創ってくださったそのままの「人」としてのいのちを、忠実に生きたことに他ならないのではないかと思うのです。わたしたちもまた、この世を生きる印として、名前を与えられ、神さまからお預かりした使命を、今、生きているのではないでしょうか。
ことばは、わたしたちの間に宿った
言うまでもないことかもしれませんが、神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんね)
そのままでは目に見えず、音として聞くことができず、風や香りでもなく、いかなる「かたち」にもなり得ないのが、神という存在です。つまり「ここにいる」「あそこにいる」と言われても、証拠はありません。
しかし「証拠のない」神を信じるためには、人々はしるしを求め、すがる「物」を探し求めます。すると、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、これ幸いとばかりに、人々をだます人も現れます。本当は、ひとりひとりが自分の良心と洞察力を駆使し、偽物か本物かを見極めれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。神の存在そのものの捉え方があやふやな人間は、神のご意志についても、あれこれと道に迷ってきました。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)や律法を送ってくださいましたが、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐにそんな神の苦労も忘れ、再び道に迷う生き方を人々は繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる神に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に人々に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂は真実を知った。つまり、人はどのように生きるべきか示され、その指針は希望の光として、すべての人々に宿った。「イエス」と名前の付く前の存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感動しながら、わたしたちにそのことを伝えています。
実物大の自分と対峙する
聖書には、複数のヨハネさんが登場しますが、その中でも異彩を放っているのが、今日の福音書に登場する「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人です。この方も不思議な出生だったようで、おかあさんは年老いた女性、しかもイエスの母マリアの「親戚」だったと、聖書は伝えています。マリアのどういう親戚だったのか、それは書かれていませんが、それにしてもこのヨハネは、順風満帆の恵まれた生涯とは言えなかったようです。父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはせず、成人したのち家を出て、荒野で人々に呼びかけるミッションに身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。また、当時の権力者に対しても苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後はサロメの舞のご褒美として首を落とされる。考えようによっては、ずいぶんと損な役割を果たした人かもしれません。
「悔い改めよ」という言葉からは、上から目線も感じるので、ちょっと前に進むのが難しい気持ちにもなりますが、他の聖書の訳を見てみると、なかなか幅があることがわかります。「あなた自身を考え直せ」「罪に背を向けていた自分から立ち返れ」「低みからの見直しをせよ」と。こんなふうに言われたら、罪のなさそうなヨハネが、罪を抱えながら生活しているわたしたちを非難している、という構図ではなく、普段は見ないことにしている心の深みや叫び、痛みも含めた様々な「とりあえず」脇に置いている苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から見つめる勇気が出るかもしれない、と言っているように思うのです。自分で自分を束縛しているものからの解放、不自由にされたと思っているが実は不自由にしているのは自分だったりする事実、そんな事柄との対峙を思い切ってしてみることを、イエスさまをお迎えする準備の季節に取り掛かってみませんか。