「自分の正しさをこえて」
「受胎告知」といえば、わたしたちはルカ福音書1章26-38節の場面を思い浮かべるのではないでしょうか。天使ガブリエルがナザレの若い女マリア(14歳とも16歳ともいわれます)に現れて、「あなたは男の子を身ごもり、産むであろう。その名をイエスと名付けなさい」と告げます。しかしながら、これが主イエス誕生の唯一の告知ではないのです。きょうの福音であるマタイ福音書の主イエスの誕生物語は、マリアへの告知はありません。マリアは脇役です。そのかわりに主の使いが夢のなかで、ヨセフに告白するのです。「あなたの正しさに基づいてマリアと別れてはいけない。マリアと結婚しなさい。彼女は神の力によって身ごもっている」というのです。
「ヨセフは正しい人であった」とありますが、この「正しい」というのは、「律法を守る人、当時の宗教的規定に忠実に従おうとする人」を意味します。婚約者であり、当時の法においてはすでに「夫」であったヨセフにとって、自分の知らぬ間にマリアが妊娠しているということは、十分離婚の理由となるものだったのです。マリアがヨセフを裏切って他の男性と姦淫したと見なされれば、石打ち刑になるのです。ヨセフが「正しい人」であろうとするならば、マリアと離縁してそしてマリアを石打ち刑にすべきであったのかもしれません。
ところが、ヨセフはマリアのことを見捨てて自分の正しさ、それは神の掟である律法に基づく正しさであったとしても、それを押し通すのでもなく、自分の保身だけを考えたのでもありませんでした。「恐れずにマリアを妻に迎えなさい」、この神のみことばを受け止めたのです。もしヨセフが正しい人であることに固執しようとしたのならば、ヨセフはマリアだけでなく、イエスも殺すことになったでしょう。しかしヨセフは「正しい人」であることを放棄しました。そのようにして、ふたつのいのちを救う人となったのです。
このヨセフの姿に、律法に文字通りに従ったり、自分の考える正しさを優先したりするのではなく、「律法を通して伝えられている神のみこころとは何か」を求める。また「人生の与える出来事を通して伝えられる神のご意思とは何か」を求める。このような姿を、ヨセフに見て取ることができるのではないでしょうか。
いかがでしょうか。私たちの人生において、自分の思いもよらない出来事にわたしたちが遭遇するとき、その出来事とどのように向き合うのか、このヨセフの姿からわたしたちは学ぶところがあるでしょうか。人生の与える不条理な出来事にわたしたちが遭遇したとき、「自分の正しさ」を生きるのではなく、神に用いられる人生を生きることに意味を見出すことができるでしょうか。
「わたしにとっての救いとは」
「喜び」の主日と呼ばれる降臨節第3主日の福音は、洗礼者ヨハネの弟子が、主イエスに「来るべき方はあなたですか」と尋ねる箇所です。「来るべき方はあなたですか」という問いは、わたしたち一人ひとりにとっても非常に重要な問いです。誰かに聞いて知っているのでもなく、聖書に書いてあるからそう思うのでもなく、心の底から、「イエスさまはわたしにとって救い主です。わたしはイエスさまに出会って、救われました」とみなさんは言えるでしょうか。どういう意味において「イエスさまはわたしたちが待ち望んでいた救い主」なのでしょうか。このことを思いめぐらすのが、降臨節です。「イエスさまはわたしにとって救い主です」と心の底から言うことができるとき、クリスマスを迎えるよろこびに満たされるのだと思います。
主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとき、すでにヨハネはイエスを「来るべき方」だと認めていました。それなのになぜ、きょうの福音で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに尋ねさせたのでしょうか。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、イエスの姿が大きく異なっていた。つまり洗礼者ヨハネは実際のイエスの活動を見聞きして、それが自分の考えるメシアのイメージと異なることに戸惑ったのではないでしょうか。終わりのときに、メシアが現れる。そのメシアは神の正義を踏まえた支配をこの世に実現する、正しい指導者のことです。すなわち当時の社会状況を踏まえていうならば、ローマ帝国の支配から解放してくれるメシア、それが、当時みなが待ち望んでいた救い主だったわけです。
けれども、主イエスの行ったのはいやしの業、そして罪の赦しでありました。主イエスのまなざしは、いつも一人の人間存在、ひとつのいのちへと向けられていました。それが主イエスの伝えた神の国です。主イエスにまなざしを注がれると、社会から排除され、誰からも顧みられず、孤独で絶望していた者が、もう一度生きてみようと、立ち上がる。これが福音書の伝える主イエスのいやしの業です。つまり、当時の社会において、社会的に存在が抹殺されていた人々を、主イエスは身体的な呪縛から解放し、人間性・社会性を回復したのです。
このように、一人の人間存在、ひとつのいのちが尊重される。わたしたち一人ひとりの存在が受け止められるところが主イエスのもとにあるということです。わたしたち一人ひとりが、生き直す・立ち上がる可能性を持つ一人の人間存在である。このように主イエスに認められることによって、わたしたちは関わりを生きるという「人間性」を回復されるのです。これこそがわたしたちにとってのよろこびの知らせであり、主イエスをキリスト・救い主と告白することではないでしょうか。
「神の国のリアリティ」
降臨節第2主日のきょうの福音は、洗礼者ヨハネが荒れ野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と叫ぶ箇所が選ばれています。「悔い改め」、この言葉のもともとの意味は「顔を向け直す、方向性をもどす」という意味です。ですから悔い改めは回心ともいわれます。この言葉の前提にあるのは、人間とは関わりに生かされ、関わりを生きる、関わりに生きなければ生きていても死に等しいという人間理解です。よって「悔い改め」とは、神と人との関わりに顔を向け直すことであり、自分を中心にして、神と人との関わりを無視して生きてきたさまを問うものだといえます。
わたしたちの日々の行動というのは、無意識的なものもありますが、多くが意識を使って行なっています。そのため、わたしたちが回心する、こころの向きや生きる方向が変わる、日々の活動内容や行いの結果が変わるには、まず自分のものの見方が変わる、マインドが変わる必要があるのです。それではわたしたちのマインドというのは、どのようにしたら変えることができるのでしょうか。
わたしたちは今まで生きてくる中で「あなたはこうしなさい、こうすべきだ」といったことを、親や先生、上司などからいわれてきたと思います。そのように言われたことをそのまま自分のなかに受け入れてしまうと、マインドはそのことに捕らわれるようになります。そして、言われたこと以外の可能性を知らぬ間に受けつけなくなってしまいます。このようにして、わたしたちには「盲点」が出来上がってしまうのです。逆にいえば、盲点を外して、見えなくなっていたものが見えるようになっていく。選択肢や可能性が大きく広がり、人生が変わる。これが悔い改め、回心です。「神の国が近づいた」というリアリティから生きてみる。自分を中心にするのではなく、神の目から見た現実を生きれば、人生は豊かなものとなっていくのだと、洗礼者ヨハネは回心へと招いているのでしょう。
自分にとって重要なものが変われば、見える景色もガラッと変わり、現実も変わります。逆に自分にとって重要なものが変わらなければ、見ている現実はずっと変わらないままです。それではみなさんにとって重要なものとはいったい何でしょうか。いくら外から悔い改めよ、回心しろと繰り返し言われても、自分にとっての重要なものが変わらないのであれば、目の前の現実・リアリティは何も変わらないのです。自分にとって重要なことが、これまでつくり上げてきた自分の信念を生きることから、神と人との関係を生きることへと変わる。主イエスの弟子たちは、イエスと出会い、キリストと共に生きる関わりに重要性を見出しました。重要性が変わるなら、わたしたちの目の前にあるものの意味も変わり、今まで見えなかった世界が見えるようになるでしょう。
「わたしたちのうちに宿られるキリスト」
教会の暦では、今日から新しい一年が始まり、降臨節に入りました。降臨節は英語でアドベント、「到来」を意味する言葉であります。わたしたちはこの降臨節に2つの到来に心を向けます。ひとつは主イエスがこの世に来られたことです。もうひとつ、これがわたしたちにとって非常に重要なことですが、主イエスがわたしたちのうちにやって来られる。わたしたち一人ひとりのうちに宿られる。これがクリスマスを迎えるわたしたちにとって非常に重要なことです。
きょうの福音で、主イエスは「目を覚まして、用意していなさい」といわれます。目を覚ましているとは、「愛に目覚めている」ことだとわたしは思います。それは神の愛、そしてまわりの人への愛にいつも目覚めているということでしょう。
つまり、主イエスがわたしたちのうちにやって来られる。わたしたちのうちに宿られるということの意味は、なにか赤子を自分の身に宿すとか、霊魂のようなものが乗り移るとかというものではなく、神の愛がわたしたちのうちに宿る。周りの人への愛が自分のうちに宿るということのです。
神の愛に気づくには、いくつかのことが考えられると思います。まずわたしたちにとってもっとも基本的なこと、それは聖書のなかでイエスの愛を体感することです。いつも聖書のなかに入り込んで、聖書に出てくる登場人物になってみることをお勧めしていますが、これは聖書のなかで実際にイエスの愛を体感してみることです。次に考えられるのが、お祈りです。お祈りが重要であるというのはこの意味においてです。お祈りといっても、自分の願望を伝えることではなく、沈黙に留まることです。沈黙に留まることで、自分が何もしなくてもここに存在すること、ただ「在る」ことの実感を味わうのです。
そして、何といっても重要なのは「人」を通して知ることです。これがキリスト教において非常に重要なことです。なぜならイエスにおいて神が受肉した。神が人となられた。イエスという人を通して神の愛が現れたことを信じるのが、キリスト教だからです。つまり、「愛」を生きている人を見てみる。なぜあのように愛を生きることができるのか、そのような人を見てみることです。
主イエスがわたしたちのうちに宿る。神の愛がわたしたちのうちに宿る。それはどこに宿るのか。それはわたしたちの内側のやわらかい部分、すなわち弱さや脆さに神の愛は宿ります。この降臨節の期間、ご一緒に自分の内側にあるやわらかい部分を見つめてみる時を過ごしたいと思います。そのように降臨節を過ごすならばきっと降誕日に、わたしたちうちに来られるキリストをお祝いすることができると思います。
「罪びとを抱きしめるキリスト」
教会の暦の最後の主日であるきょうの福音には、十字架にかけられた主イエスを立って見つめている民衆の姿が描かれています。きょうの福音は、わたしたちも彼らとともに、十字架にかけられた主イエスの姿を見つめてみるようにと招いています。わたしたちは主イエスの姿を見て、議員や兵士たちとともに「メシアならなぜ自分の力でおりてこないのだろう。なぜ自分の力で自分を救わないのだろう」というのでしょうか。また、犯罪人の一人とともに「なぜわたしをあなたの力で救ってくれないのか」というのでしょうか。
「自分を救ってみろ」という言葉に何も言い返さずに、十字架に留まる主イエスの姿に、わたしたちは何を見るのでしょうか。横にいる一人の犯罪人は、イエスが一緒に同じ十字架刑を受け、死を共にするイエスの姿に気づいています。彼が見ていた十字架のイエスとは、死に至るまで、罪びとと共にいる、そういうメシア・救い主だったのです。
つまり十字架上で、主イエスは罪びとの仲間になったのです。人々からののしられ、死刑囚として十字架を担ぎ、犯罪者として死を迎えるのです。主イエスは十字架において、罪びととまったく一つになりました。つまり主イエスは罪を抱きしめたのです。
すべてのひとに見捨てられた。神にも見捨てられた。弟子からも見放された。そのような孤独と絶望にあって、主イエスは犯罪人に「わたしは、あなたと共に、今パラダイスにいる。」といいます。横にいた犯罪人は「こんなわたしと共にいてくださるひとがいるのか」と、主イエスに自分の存在が受け止められたと感じた。主イエスに自分の存在を受け止められた。だからこそ、死を目の前にして、罪を犯した自分自身を受け止めることができたのでしょう。
主イエスのもとにこそ、わたしたちの存在が受けとめられる場があるのです。ルカ福音書が伝えるよろこびの知らせは、「ゆるし」のメッセージです。神は遠く離れて人間をみているのではない。今わたしたちを救うために近づいてきておられる。罪に捕らわれた状態からの解放を、主イエスは告げ知らせたのです。罪とは、神から離れることです。神との関係、他者との関係、自分自身との関係、つながりが壊れ、断絶してしまっている。これが罪の状態です。
神から、つながりから離れて、自分を中心にして生きている罪びとであるわたしたちを、抱きしめてくださる神の愛とゆるしを、十字架上のイエスに、見ることができるでしょうか。 わたしたちは自分の存在が受け止められることによって、他者を受け止めることができるようになる。ひとをゆるす前に、自分がゆるされていることを受けとめるからこそ、ゆるすことができるようになるのでしょう。こんな自分を受けとめてくれるかたがいる。そのことを、十字架にかけられた主イエスを見ることによって、わたしたちは知るのではないでしょうか。
「神のもとに留まる」
教会のカレンダーでは、次の主日で一年が終わります。その1つ前の主日のきょうの福音は、世の終わりがテーマとなっています。世の終わりについての聖書の教えは、わたしたちに恐怖心を植え付けて、コントロールしようとするものではありません。終わりを語ることによって、わたしたちが今をどう生きるべきかを問うているのです。
「終わりの時」についての聖書の物語は、わたしたちが普段支えとしているものが破壊されることを強調しています。それでは今のわたしたちの生活を満たし、支えているものとは何でしょうか。健康でしょうか、家庭でしょうか、お金でしょうか、仕事のやりがいでしょうか。しかしこのようなものには限りがある、また絶対的なものではないと、聖書はいうわけです。自分の支えとしているものが壊されるとき、これまで様々なもので覆い隠していた、自分の弱さや脆さが露わにされるのです。私たちが人生で直面する、避けることの出来ない苦難、そして人生の終わりの時にどのように向き合うのか、ということが「終わりの時」というテーマをきょう与えられた、わたしたち一人ひとりの課題といえます。
目に見えるものは崩れ落ちる日が来る。すなわち人間の手で作られたものは、すべて永遠に不滅ということはあり得ないのです。終わりの日には、自分の持っているものを喪失するときがくる。病気になる、あるいは死に臨むときには、今まで自分の持っていたものを手放さなければならないときがくる。そのようなときにも、神のもとから逃げ出さずに、神のもとに留まりなさいと主イエスはいわれているのだとわたしは思います。
苦難のとき、終わりのとき、神のもとに留まるというのは、なかなか難しいことかもしれません。沈黙しているように感じる神のもとから逃げ出して、すぐに助けを与えてくれる人の言葉に救いを求めたくなります。ですから、「この宗教を信じれば、こんないいことがありますよ」こういう言葉に惑わされないように気をつけるようにと、主イエスは言われているのでしょう。キリスト教における救いというのは、お祈りしたらすぐに病気がよくなったり、お金を沢山献金したら良いことが起こったり、神が立ちどころに今困っていることを解決してくれる、そういう救いではないのです。主イエスが伝えたよき知らせとは「どんなつらいときでも、神は共にいてくださる」「厳しい現実であるけれど、あなたのことは決して見捨てない」「重荷を共に背負うから共に前に進んでいこう」。これが、主イエスが伝えた神のおもいなのです。わたしたち人間は有限であり、いずれ誰もが死を迎えます。しかし、必ず人間は死をむかえる者だと自覚するからこそ、今ここに生きて在ることの有難さや豊かさを知るのではないでしょうか。
「神ともにいます」
キリスト教における復活信仰の重要な点は、「主イエスは生きている、いま私たちと共にいる」というリアリティです。今わたしたちが共に生きているイエスは確かに十字架にかけられて死んだのだから、何らかのかたちで死の状態から立ち上がった、復活したと表現せざるを得ません。
それはよく「死んだ人はわたしたちの心のなかにいる」と表現されるような、心のなかによみがえるという内的な体験以上に、リアルに、ともに生きているということです。福音書においては、新しい仕方で、この世において、主イエスとの関わりを弟子たちは持っていたことを伝えています。すなわち、一度出会った主イエスとのかかわりは、十字架で主イエスが殺されたあとも、そのかかわりは終わらないということです。
きょうの福音には「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とあります。つまり復活とは、死後の世界でどうなるのかということではなく、いま神とともにあること、いま主イエスとともに生きることです。たとえこの世において苦しく、また絶望的な状況にあったとしても、明日へと生きる意欲を感じられなかったとしても、それでもなお、神と人と共に生きることに希望を見出す。これが復活を生きるということでしょう。
旧約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを導く神、そしてモーセやエジプトで奴隷状態にある民を見捨てない、いつも彼らとともにいる神の姿を伝えています。主イエスによって現わされた神も「インマヌエル、神はわれらとともに」そういう神です。主イエスは、エルサレムへ向かう道のりにあっても、十字架上にあっても、神はわれらとともにいる。どのような状況にあっても、神によって生きる。その神とのかかわりは苦しみのうちにあっても、死にあっても終わらない。このことを主イエスはご生涯を通して伝えたといえるでしょう。
死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。この意味は、わたしたちの生きる現実、生きる日常と関わりを持つ神ということです。日曜日に教会で、礼拝を通してだけ会う神ならば、それは死んだ者の神といってもよいかもしれません。ですからきょうの福音は、わたしたちが日常生活において、神とどのような関わりをもっているのかと、問いかけているのです。わたしたちと神のかかわりは、一方的に自分の願いごとを神に伝えるだけのかかわりなのか。死後の安寧を祈るだけのかかわりなのか。神とともに日々をどのように生きているのか。どのようなときに神の恵みや導きを感じているのか。神にどのような希望を置いているのか、これらのことが問われているのです。
「わたしたちの内にある愛を生きる可能性」
今週のザアカイの物語に限らず、ルカ福音書が伝える、見失った羊のたとえや、放蕩息子のたとえは、物語として記憶に残るものだと思います。けれども重要なのは、この物語を覚えていることではなくて、これらの物語を聞いて自分はどうよろこんでいるのかということです。ルカ福音書が伝えるこのザアカイの物語、見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえ、これらは「失われた者を探す神」との出会いの物語です。
ザアカイは、徴税人の頭でした。徴税人はローマ帝国から給料をもらっていたのではなく、税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていました。よって徴税人は、ローマに仕える裏切り者、神に背く罪びとというレッテルを張られていたのです。そういう罪びとであっても、神にとっては失われた者である。すなわち徴税人も神が祝福を約束した人間なのだ。そういうことを伝えている物語であるといえます。
ザアカイは主イエスを一目見たいと思って木に登りました。「イエスは罪びとを招いて一緒に食事をしている」という噂をザアカイは耳にしていたかもしれません。自分にはお金はある。けれど、欠けがある、満たされない。みんなからは罪びとだ、生きるに値しない最低の人間だといわれている。ですから切実な思いで主イエスを一目見たいと思ったのかもしれません。すると主イエスは「今日はあなたの家に泊まることにしている」というのです。一週間後でも、一か月後でもなく、今日この日あなたの家に泊まることが神のおもいであり、それが今日実現するというのです。いかがでしょうか。わたしたちも、今ザアカイと共に、主イエスに「今日はあなたの家に泊まることにしている」といわれています。みなさんならこの言葉にどう応えるでしょうか。「イエスさま、きょうは家がちらかっていますので勘弁してください」というでしょうか。あるいは「家をきれいに片づけてから、お泊めします」というのでしょうか。
家というのは、物理的なわたしたちが住んでいる家という意味だけに留まらず、わたしたちの内側、わたしたちの存在自体という意味にも取ることができるでしょう。わたしの内側は醜いから、主イエスをお招きするのにわたしはふさわしくない。このように断るのでしょうか。わたしたちは、今日主イエスから「あなたの内側に留まりたい」といわれています。すなわちわたしたちは、今この時、主イエスを自分の内側にお招きするか否かが問われているのです。主イエスは、あなたの家が綺麗になってから、あなたの家に泊まるよといいません。また、わたしがあなたの家を清めてあげよう、そうしたら泊まってあげようともいいません。「こんなわたしですか」そう思っている、そのあなたに、いま留まりたいというのです。これはみなさんにとってよろこびの知らせとなるでしょうか。
「強がらなくていい」
きょうの福音の冒頭で、主イエスは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してたとえを話されたとあります。「うぬぼれて」という言葉は、「頼りにする・信頼する」とも訳すことができる言葉です。つまり主イエスは「あなたがたは自分自身を頼りにし、自分を強く見せようとしてはいませんか」と問いかけられているといえます。
ファリサイ派の人たちは、熱心なユダヤ教信者でした。彼らの行い自体は神の言いつけ通りでした。「神の掟を守っているのにそれでも駄目だというなら、いったい誰が救われるのか」とわたしたちもいいたくなります。罪人である徴税人に目を留められるという、一見納得できない愛をもって、主イエスはどのような神のご意思を示そうとされたのでしょうか。
ここでわたしたちは、福音書というのは「イエス・キリストを通して示された神の愛を示すために書かれた」ということを今一度思い起こしたいと思います。登場する人物、きょうのたとえでいえばファリサイ派の人への興味だけに気をとられていると、次第に主イエスの姿は薄くなっていきます。「徴税人が義とされた」と言われた主イエスを見つめるのです。福音書で語られる物語の中で、いつもスポットライトが主イエス一点に当てられているというイメージを持つことが福音書を読むときに特に重要です。聖書に書かれた主イエスの語った内容については、わたしたちはよく考えます。けれども、それを語っておられる方が「キリストであること」をわたしたちは受け止めているでしょうか。
ここでご一緒に、主イエスがきょうのたとえを語られたときの、語り口を想像してみたいと思います。みなさんは聖書を読むとき、主イエスがどのような口調で語られているかをイメージして読むことがあるでしょうか。きょうのたとえを語る主イエスどのような口調で話されているでしょうか。主イエスは激しい口調、厳しい口調で、ファリサイ派を断罪しようとして語られているでしょうか。それとも、周りにいる一人ひとりを見つめながら、穏やかな声色で語りかけているでしょうか。主イエスが穏やかな口調で、「あなたがたはいつでも正しく生きなければいけないと思っているのでしょう。確かに正義や公正は大切なことです。でも、いつも正しくあらねばならないと生きているのは疲れませんか。どうでしょう、少し肩の力を抜いてみてください。そして、自分自身を大事にしてください。あなたはこれまで充分にがんばってきたのですから」このように語っている。このような主イエスを想像してみたらどうでしょうか。このように主イエスの語り口調にスポットライトを当ててきょうの福音を聴くならば、「あなたがたはへりくだって謙虚にならねばならない」という道徳的教訓を伝えようとしたというよりも、「あなたは自分の正しさを頼りにして、自分強さを誇って、他者を、そして自分自身を傷つけてはいませんか」という思いが伝わってくるでしょう。
「主に向かう姿勢」
きょうの福音で主イエスは、「絶えず祈るべきであり、落胆してはならない」ことを教えるためにたとえを話されています。それではたとえば、愛する人、愛するこども、親しい友人が病気になって厳しい状況にあるとき、何度も「神さま助けてください。よくなるようにしてください。死なないようにしてください」と、このようにあきらめずに何度も祈るならば、神は病気を治してくださるのでしょうか。そうであるなら、いやそうでなくとも、そのような厳しい状況にあるとき、わたしたちは何度も何度も神に祈るのではないでしょうか。しかし、繰り返し切に祈ろうとも、自分が望むようには願いが聞き入れられない。現実は変わることがない。そういうことがわたしたちの人生には、ままあるように思います。
哲学者のキルケゴールは「絶望は死に至る病である」といいましたが、肉体的に生きていたとても死んでいるような絶望の状態に留まるのでなく、絶えず祈ることが大切である。ならばこの祈りというのは、何を願うかという祈りの内容よりも、主に向かうという姿勢、うつむいている顔をあげてみる行為。そして自分の外側へと目を向けてみる態度を、主イエスはいわれているのだと、わたしはきょうの福音を受け止めたいと思います。
絶望におちいった時、愛する人を失った時、あるいは東日本大震災で津波に家族が流された時、そのとき時間がそこで止まってしまうことがあります。自分の周りの世界は変わらず、時を刻んでいる。時は流れていく。自分は周りの人からにみれば過去に生きているように見える。出来事のあったそのときに自分は留まったまま、時は流れない。そのようなときに、いくら祈れといわれても、どう祈るのでしょうか。
そのような状況にあっても、それでも祈る。主に向かうというのは、時が止まったままの、いわば自分だけの時間を生きている自分の内側から、外側へと目を向ける。そして一歩踏み出してみるということなのではないでしょうか。自分が生きている内的時間から、自分の外に踏み出る。そのことを他の言葉で表現してみるならば、自分の置かれている状況・現実を、神とともに、自分の外側から、神目線で見てみる。語る、言葉にするという
行為を通して、自分を客観視してみるということができるでしょう。喜びは悲しみの中に隠されており、悲しみは喜びの中に隠されています。何とかして悲しみを避けようとするなら、喜びを味わうことはない。出会いには別れが隠されており、共に過ごすことには、別れが含まれている。別れの悲しみを避けるならば、愛することもできず、出会うこともできない。何とかして悲しみを避けようとするなら、喜びを味わうことはない。主に顔を向けるとき、主が見ておられる現実、悲しみや苦しみから目をそらさず向き合ってみるとき、これまで見えていなかった幸いが目に入ってくるのでしょう。
「恵みにひらかれ新しく生き始める」
きょうの福音は、主イエスが十字架へ向かう道、すなわち死へと向かう道において出会った10人のひとを描いています。10人のうち、9人は主イエスに出会っていやされたのち、また自分の選んだ自分の道を生きていくことにしました。10人のなかで、1人だけ主イエスのもとに戻ってきました。主イエスにいやされて、神に感謝をささげ、神をあがめるようになった者と、そうならなかった者がいるということです。
きょうの福音の最後で主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」といいます。すべての人はいやされました。けれども自分がいやされたことに気づき、主に感謝して、イエスのもとに引き返したのはサマリア人だけでした。つまり主のいやしに対して、多くの人は応答しなかった。しかし信仰をもって応答した、すなわち主イエスに感謝して歩みを起こしたサマリア人が救われるというのです。
神の恵みはすべてのひとに注がれています。しかしそれを受け止めるか否かはまた別なのです。神の恵みが注がれていることに気づいて、その人が生き方を変えるかどうかは別なのです。神の恵みだと気づかずにいることが大いにあるということです。
わたしたちは、受けた恵みの中に、神の働きを見て、そこに感謝の思いをもつかどうかで、人生が変わっていく。そうきょうの福音は伝えています。神の恵みを受け止めて、新しく生き始めるかどうかが問われているのです。これが「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたことの意味です。主イエスに出会っていやされた。教会に来ていやされた。心の平安が得られた。もうそれで十分だと、イエスのもとへは戻らない。教会のいろいろなことを背負うのは大変だから、イエスと歩む新しい道には進みたくない。そう思ってはいないでしょうか。
それではなぜサマリア人そのひとだけが、主イエスのところに戻ってきて感謝をささげたのでしょうか。主イエスに感謝した重い皮膚病を患っていたサマリア人は、何重もの苦しみのうちにいました。けれどその苦しみが、よろこびを知るようにさせてくれたのです。よろこびは苦しみや悲しみや痛みのなかに隠されている。これがいのちの神秘です。
よろこびは神と人と共に生きる生活のなかにあります。このよろこびというのは、表面的なものではなく、深いものです。深いつながりや一体感とよぶべきものです。このよろこびを知れば、主イエスに感謝するようになります。主イエスに感謝をすればするほど、よろこびに満たされるようになるのです。
「信頼して歩みを起こす」
教会においては「信仰」「信じる」という言葉を日常的に使っていますが、みなさんは信仰と聞くと、どのようなイメージを持つでしょうか。クリスチャンでない人に「あなたの信仰って何?あなたは何を信じているの」と聞かれたらみなさんはどのようにお答えになるでしょうか。「神様が確かにいることよ」そう答えるでしょうか。カトリックの本多哲朗神父の訳した聖書では、「信じる」という言葉を「信頼して、歩みを起こす」と訳しています。つまり「信じる」ことは、「信頼する」ことと「歩みを起こす」というこの2つから成り立っているわけです。それではきょうは「信頼する」こと、そして「歩みを起こすこと」について、ご一緒に思いめぐらすひとときを過ごしたいと思います。
それでは「信頼する」とは、何に信頼することなのでしょうか。第104代カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズは、信じることは「ある種の人々に信頼を寄せる。彼らの生き方に信頼を置く。私の望む生き方であり、-多分今よりもよい、またはより成熟したときの生き方を想像する。彼らが住んでいる世界にも私も住みたい」ということだといっています。ですから、信じるというのは、神の存在についての考え方のことや、教義を信じるということというよりも、生き方・在り方・態度という方向づけ、もう少し現代的な言葉でいえば、ライフスタイルのことなのです。
主イエスと出会って弟子となった人たちは、主イエスの生き方に信頼をおいた。主イエスの生きる姿が、本当に活き活きとしたものであったから、いのちを充分に生きておられると感じたから、その主イエスのライフスタイルに信頼したわけです。そして、主イエスに実際に出会うことができなかった人たちは、主イエスの弟子たち、クリスチャンと呼ばれる人たちと出会って、彼らの活き活きと生きる姿、互いの存在を尊重し、困っている人のために尽力する、その彼らの愛を大切にするライフスタイルに信頼したのです。わたしたちも主イエスの道はまことにけっこうな道であると頭では理解している。けれども、大変そうな十字架を背負う道を実際に歩いていないかもしれない。その道のよさというのは、歩いてみないとわからないのです。
主イエスのライフスタイルに信頼する。主イエスの示した神の愛に信頼する。そして主イエスとのかかわりを始めてみる。隣人とのかかわりを始めてみる。すると、これまでの人生で出会ったことのない人に出会う。自分の想像を超えた出来事に遭遇する。今まで感じることのなかった、人とのかかわりの中で生きるよろこびを感じる。自分の努力で、すべて自分でなんとかするのではなく、自分の限界を知りながらも、神の愛に信頼して歩みを起こすならば、大きな力が湧いてくる。わたしたちのいのちは活き活きと輝きだすようになると、主イエスはわたしたちにいっているのだと思います。
「受け与える相互関係を生きる」
きょうの福音の主イエスのたとえでありますが、当時のイスラエルの人々の考え方に基づく死後の世界が描かれていますので、生前の行いで死後裁かれることや死後のありさまを主イエスは伝えようとしている、と聞くこともできるかもしれません。しかしながら、きょうの福音はわたしたちに恐怖心を植え付けて、わたしたちをコントロールしようとしているのでしょうか。たとえわたしたちが死後どうなるのかを知ったとしても、死んだ後に反省してもこの世においてやり直すことはできません。ですから生きている今のうちに聖書の言葉に耳を傾ける必要があります。よってきょうの主イエスのたとえは、先週の福音に引き続いて、わたしたちが今この世のこととどうかかわりをもつのか、この世のお金をどう用いるのかということが問われているのです。
言い換えるならば、神とのかかわりを生きる、聖書の言葉を用いて言えば、神との契約の関係にあるわたしたちが、この現実社会をどう生きるのかが問われている、ということができるでしょう。契約という考え方は、わたしたちにはなじみがうすいので理解しづらいですが、契約というのは、関係に入るという意味です。神との契約、また主イエス・キリストとの契約というのは、神との関係に入る。主イエス・キリストとの関係に入ることです。イスラエルの民は、神との契約を生きる民であるという自覚のもとに生きていました。イスラエルの民であるということは、神との関係を生きることである。目には見えない神との関係を生きている民が、イスラエルの民である。そしてその目に見える契約のしるしというものが、隣人を愛するという行為に現れているという理解です。神の戒めを守る。自分の持っているものを与え、分かち合う。客人を歓待する。こういう行動は、神との契約を生きる民としての、神への応答なのです。
よって、きょうの福音からの問いかけというのは、神との契約関係、主イエス・キリストとの契約関係を生きるわたしたちは、その関係を誠実に生きているのか、ということになります。わたしたちの神はまことの神であると告白しますが、それは、神はわたしたちとの関係おいてにまこと、誠実であるという意味です。では、わたしたちは「まこと」の関係を生きているでしょうか。まことの関係はというのは、課題をもたらし、変わることが求められます。つまり神との契約関係を生きるというのは、洗礼をうけて、ただ教会のメンバーになったらそれで終わりというわけではないわけです。神に応答する、いわば応答責任が生じる。もらうだけでなく、与えるという相互関係に入っていく。これが、神との契約関係を生きる。クリスチャンであるということです。
「時とお金の使い道」
きょうの福音の主イエスのたとえも、かなり理解に苦しむのではないでしょうか。なぜなら、正しくないことをした管理人を主人が褒めているからです。けれども主イエスは、不正をする者を褒めるたとえを語るでしょうか。すると主人が褒めたのは、今を生きること、生き抜くことを真剣に考える、そのことを褒めているのではないでしょうか。また、生き抜くためにお金をどのように使ったらよいのかを真剣に考えることを褒めているのではないでしょうか。
ですから、きょうの福音を通してわたしたちが問われているのは、「あなたは生きること、また死ぬことについて、真摯に向き合っていますか」「日々の一つひとつのことについて真剣に向き合っていますか」「ひと時ひと時を大事にしていますか」そして「稼いだお金をどのように使いますか」このようなことが問われているのではないでしょうか。
主イエスが教えてくだった、わたしたちが生きていくうえで一番大切なこと、それは神と人とのかかわり・つながりを生きることです。よって、きょうの福音からの問いかけというのは言い換えれば、「あなたは、神と人とのつながりを生きていますか」「人とのつながりをつくるためにお金を使っていますか」ということでしょう。
不正の富というは、不正によって得たお金というよりも、神から離れた、この世のものである富という意味です。富について忠実というのは、富を誠実に扱うということです。きょうのたとえに出てくる管理人は無駄遣いが発覚して、仕事を失うというぎりぎりの状況に追い詰められ、必死に生きることについて考えました。そして、負債者の証書を改ざんし、負債額を引き下げるということによって、恩を売って生き延びようとしました。
それでは、わたしたちは自分の身に危険が及んでから、独りぼっちになって孤立してから慌てるのでなく、日々の生活一つひとつのこと、お金をどのように使うかということ、与えられた時間ひとときひとときをどのように使うかということ、に誠実に向き合っているでしょうか。主イエスは、「お金で友達をつくりなさい」といいました。友達をつくるというのは、それは仲良い友達をつくりなさいということではありません。関わり、つながりをつくりなさいということです。はたしてわたしたちの日々の小さなひとつひとつの営みが、かかわりやつながりをつくるものとなっているのか。お金を、かかわりやつながりをつくるために使っているのか。時間を神と人とにつながるために使っているのか。日々の小さな一つひとつのことにおいて、つながりを生きることに、忠実に向き合っているかどうか。これらのことを顧みる一週間を過ごしたいと思います。
「見出されたよろこび」
「見失った1匹を捜しに行っている間、野原に残された99匹はどうなるのか」「99匹という多数を守る方が大事だから、失われた1匹はあきらめるのが当然ではないのか」このように考えが思い浮かぶとき、どのような視点に立っているのでしょうか。それは1のほうではなくて、99の立場に立って見ているのではないでしょうか。当時の宗教的指導者であるファリサイ派や律法学者が当然だと思っていた価値観とは、神の掟を守り正しく生きている者よりも、「罪びと」が救われることはあり得ないという価値観をもっていました。つまり1ではなく、99の立場に立っていたわけです。しかし、それが本当に正しいことなのか、と主イエスはたとえを用いて問いかけています。
それでは1の立場にたってみたらどうでしょうか。1匹の羊になってみる、そして1匹の羊を、1ドラクメ(1日分の賃金)を探しにいく人になってみたらどうでしょうか。私たち人間の常識的な価値観と、一人ひとりのいのちを見る神の価値観とのあいだに、大きな違いがあることが見えてくるのではないでしょうか。神のいのちのものさしには、多数決はありません。一つひとつのいのちが、神にとっては大切なのです。
主イエスは、神のおもいを伝えています。その神のおもいとは何か。それは「決してあなたを見捨てない。あなたがた一人ひとりのことを探し、見つけ、そしていのちのつながりへとつなげる」。これが主イエスの伝えたメッセージであり、神のおもいなのです。
自分の大事な羊を見失った。その「見失った羊」というのは、「死の危機」の只中にある羊なのです。このまま羊飼いに見つけ出されなければ、命が失われて「死んでしまう」かもしれない、そういった危機的な状況に置かれている羊です。「死の危機」の只中にある羊、それは私たち自身のことでもあるのです。みなさんは、「あなたはいのちの危機に晒されている」といわれたら、どう思うでしょうか。わたしたち一人ひとりは、主イエスにつながっていなければ、生きるために必要なものを得ることができない。主イエスにつながっていなければ、いのちの危機に晒されている状態にあるのです。
では主イエスにつながっているというのはどういうことでしょうか。それは、主イエスが生きたようにわたしたちが生きるとき、主イエスの示された神のおもいを生きるとき、イエスの示された愛を生きるとき、そのときわたしたちはイエスにつながっている。わたしたちは生きているといえる。活き活きといのちを生きているといえるのです。
みなさんは、「こんなわたしであるにもかかわらず、主イエスがわたしに目を留め、わたしを主の食卓へと招いてくださった。だから、この神に見出されたよろこびを、より多くの人と共に分かち合おう」こういうおもいに今満たされているでしょうか。
「腰をすえて考えてみる」
きょうの聖書で主イエスは「家族や自分の命を憎み、持ち物を捨てなければ、わたしの弟子ではない」と、かなり厳しいことをいわれています。わたしはイエスさまが厳しいことをいわれるとき、「これはイエスさまがとても大事なことを伝えようとしているのだな」という気持ちで聴くようにしています。そして自分の解釈や、自分の都合で、主イエスのことばをゆがめたり、薄めたりしないように、このわたしに向けていわれていることばとして、聴こうとします。ですからみなさんも、自分自身に向けられたことばとして、厳しいことばを厳しいままに考えてみていただきたいと思います。
きょうの聖書のなかで、主イエスは二つのたとえを用いられています。ポイントは「腰をすえて」ということばでしょう。塔を立てたり、王と戦いをするときには、腰をすえて考えないとうまくいかない。同じように腰をすえて、イエスの弟子であるということ、について考えないと、うまくいかないというのです。「イエスの弟子であること」を考える際に「十字架を背負う」ということに留まりながら、腰をすえて考えてみるのです。
「十字架を背負う」というのは、様々な解釈ができます。わたしは「十字架を背負う」と聞くとまず、「死を背負う」こと、また「人間の有限性を背負う」ということを最初に思い浮かべます。わたしたち人間は誰もが死をむかえます。けれど死を無いことのようにして、死を忘れて生きることも可能です。しかしながら、死を背負って、命に限りがあることを噛み締めながら生きる。すると、異なるものが見えてくるのではないかとわたしは考えます。それは死後のことを考えるということではなく、今ある限りあるものをいとおしんで生きる、ということです。わたしたちが死ぬとき、そのときには家族も、持っているものも、この世のものとはお別れせねばなりません。また人生においては、様々な喪失の出来事があります。病気になる。老いる。愛する人を失う。仕事を失う。そのようにこれまで持っていたものを失うとき、次のように問われます。「それでは、いったいあなたは何者なのか」「あなたの生きる意味とは何なのか」と問われます。
それでは、みなさん想像してみてください。自分が父や母、祖父や祖母でなくなったら、退職して仕事をしなくなったら、病気になって自分のやりたいことが思うようにできなくなったら、自分は自分でなくなってしまうのでしょうか。主イエスは、自分の家族から離れ、名誉や安全を手放し、人々から侮辱されようとも、十字架刑で殺されるまで、「自分はいったい何者であるのか」という問いにずっと向き合いながら生きられたのだと、わたしは思います。主イエスは、神の愛を生きるのがわたしである。神と人とのかかわりにおいて生きるのがわたしである、そう受け止めて生きられたのではないでしょうか。
「幸せが道である」
本日の福音は、安息日の食事の場面です。共に食事をするということは、多くの文化において、一緒に食事をする人たちの心の交わりを表します。日本語でも「同じ釜の飯を食った仲」といわれるように、共に食事をすることはつながりを強くすることを意味します。しかしユダヤ人にとっては共に食事をすることはそれにとどまらず、神の救いの完成の一つのイメージでした。地上で共に食事をすることは、神の国での食事の先取りと考えられていたのです。ですから、共に食事をしている人というのは、神の国で救いにあずかる者の集まりを示します。それゆえファイサイ派や律法学者は、神の救いから除外されていると考えていた罪びとや異邦人とは決して食事を共にしませんでした。しかし主イエスは、神の国の宴では人間的な上下関係も、どちらが先か後かもない、すべての人が宴に招かれているといいました。それが「神の国が近づいた」という主イエスが伝えたよろこびの知らせであり、今わたしたちもこの聖餐式を通して、食卓に招かれています。すべての人が神の宴に招かれている、このことを目に見える形で表しているのです。けれども、「これだけのことをしたから、これぐらいはしてもらえるだろう」と人からの報いやお返しを、無意識のうちに期待している自分がここにいます。へりくだって、そして人からの報いを期待せずに生きるのは、まさに狭き門を通ることのように思えます。
ベトナム人の禅僧ティク・ナット・ハンさんは、「There is no way to happiness. Happiness is the way. 幸せへの道はない。幸せが道である」といいました。わたしたちは幸せになるにはどうしたらよいのか。幸せへの道はどこにあるのか、と探します。けれども、いくら探してもなかなかみつからない。しかし「幸せが道」であるならば、毎日の生活の只中で、小さな幸せがあることに気づく。そのことがすでに幸せになっており、自分は幸せの道にもうすでにいるということなのです。主イエスは神の国が近づいたといいました。頑張って神の国に入りなさい、神の国の宴の席につく権利を得なさい、聖餐式に参加できる条件を満たしなさいとはいいませんでした。もうすでにあなたのもとに神の国が近づいている。そのことに気づきなさいといったのです。
ですから、どうしたらへりくだれることができるのだろうか。へりくだらなければならない。このように考えているならば、これはらくだが針の穴を通るように難しいことだといえるでしょう。すなわち、どうしたら神の国に至れるのか。どこに神の国の道があるのかと探すのではないのです。わたしたちはどこに神の国を見出すのか。今ここにある恵みや幸せをどのように見出すのか、と問うのです。
「あなたは解放された」
いつも聖書の読み方についてお話していますが、聖書のなかに入って、登場人物に自分を重ね合わせ、聖書の登場人物になりきってみるのが、ベーシックな聖書の読み方です。そのように読むことで、聖書の物語が、2000年前にあった過去の出来事ではなく、今ここで自分自身に起こる出来事になります。今ここで、わたしたちは神のみことばに出会います。生ける神に、生きている主イエスに、今ここで出会うことになります。
さて、きょうの聖書は、主イエスの安息日における癒しの物語であります。旧約聖書における安息日というのは、金曜日の日没から土曜日の日没までで、神が天地創造の7日目に休息したことを覚える日です。安息日には、労働を禁じられ、休息と礼拝に専念することになっています。よって安息日には何のわざもしてはならない。癒しすらしてはならなかったわけです。
女がどれだけ長い間、腰が曲がったまま伸ばせない状態にあったのかは、礼拝堂にいたみながよく知っていたことでしょう。医療技術が進んだ現代のように腰が曲がっている原因を医学的には説明できないので、当時の社会において一般的な判断であった、あの人は「病の霊」を持っていると見られていたのです。する主イエスが、礼拝堂にやってきて、「あなたは病から解放された」と語りかけ、「彼女の上に手を置」きました。
「あなたは病から解放された」というこの主イエスのみことばは、言い換えれば「あなたはすでに病気からもう自由になっている」ということができます。主イエスは、「これからのち、あなたは病気から解放されるであろう」と未来のことを語ったのではなく、もうすでに終わったこととして、完了したこととして語ったのです。病からあなたはもう自由なのだと、主イエスは宣言されたのです。「病の霊」の捕らわれから解放されるというのは、いったいどういうことでしょうか。自分が病の捕らわれのうちにあるということに気づいていないうちは、自分は「病人」であるわけです。しかしながら、自分が病の捕らわれとなっていたことに気づくならば、病から解放される。つまり「病人」ではなく、「病を抱える人間」になるのです。イエスを信じることよって、病気がたちどころに治癒するということはないかもしれません。けれども自分のすべてが病なのではない。つまり、病によってわたしたち一ひとりひとりがもつ人間性、すなわち一人の人間として生きる可能性が窒息させられていた。そこから解放される。つまり、たとえ病を抱えているとしても、一人の人間として生きる可能性へと主イエスがひらいてくださるのでしょう。「あなたはすでに捕らわれから解放されている」という主イエスのことばを、今ここで私たち一人ひとりに語りかけてくださっていることばとして、受け止めたいと思います。
「変化に対する恐れ」
主イエスは、宣教に出て行く弟子たちに対して、「この家に平和があるようにといいなさい」といわれました。ですから主イエスがこの世に来られたのは、平和をもたらすためであります。しかしながら、神の国が近づいたという福音を宣べ伝えると、結果として対立や分裂が生じてしまうことがある。わたし自身も、これを言うと火を投ずることになるかな、というおもいを持ちながら、発言したり、話をしたりすることは、少なからずあります。それは対立を生みだそうと意図して口にしているのではなく、燃える火を投ずることで、結果として対立や分裂を生んでしまうかもしれない、そのような覚悟をもって話をすることがあるということです。どういうおもいでわたしがそのような話をしているかというと、学校で教えられたり、わたしたちの生きる社会で重要視されている生き方とは異なる考え方、価値観、生き方があるということを伝えたいからです。主イエスが生きた生き方というのは、主イエスの生きた社会にあっても、またわたしたちの生きる社会にあっても、なかなか受け入れがたいものなのです。ですから、主イエスが示した、この世とは異なる価値観を、わたしたちは避けて通っていないか、マイルドにして伝えてはいないかと、きょうの福音から問われているのではないでしょうか。
なぜ教会に若い人が来ないのか、とわたしたち教会は嘆きますが、それはこの世の価値観とは違う主イエスの価値観がいいとはなかなか思えないからでしょう。わたしたちは主イエスの示した、この世とは違う価値観がとてもいいと思っているでしょうか。ですから主イエスのように生きる生き方の魅力やよろこびをわたしたちが体現しなければ、それは教会に来たいなんて誰も思わないのではないでしょうか。
わたしたち人間というのは、これまでとは違う、何か新しいことに対して、不安、恐れを抱きます。これは自然なことです。けれど主イエスは、ことあるごとに「恐れるな」といわれます。それは主イエスに従うこと、すなわち自分の生き方が変わることというのは、自分自身全体が変わることであり、死を連想させることだからです。生き方が変わるならば、一日の時間の過ごし方や休日の過ごし方が変わります。ひいては自分自身も変わってしまいます。このように変わることに対する無意識の恐れが、わたしたちのうちにあるのではないでしょうか。しかし、わたしたちがいま持っているものを恵み、賜物として受けとめるならばどうでしょうか。われわれが持っているものを他の人々と分かち合っているならば、わたしたちは不安から、そして恐れから解放されるのではないでしょうか。
「愛に目覚めている」
きょうの福音で主イエスは、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」といわれています。主人は主イエス、僕はわたしたちとのこととして捉えることができます。主イエスはわたしたちに一晩中起きていなさいといっているわけでも、ずっと緊張を保ったまま、毎日気を張って過ごしなさいといっているわけでもありません。目を覚ましているというのは、わたしたちが生きるうえで大切なことを見失わないように、大切なことをいつも心に留めて生きなさい、と主イエスはいっているのだとわたしは受け止めています。
それでは、みなさんが生きるうえで大切なこととは何でしょうか。先週は「みなさんにとって、生きる上での「豊かさ」というのは一体何ですか」と伺いました。それは「みなさんが生きる上で大切なこととは何ですか」と問うているのと同じことだといえます。このようにいつもわたしがみなさんに、「みなさんが生きるうえで大切だと思うことは何ですか」とか、「みなさんにとって生きるうえでの豊かさって何ですか」というようなことを、いつもみなさんにわたしが問いかけているのは、それはみなさんに目を覚ましておいていただきたいからです。
それは「愛に目覚めている」状態ということもできると思います。わたしたちは「愛に目覚めて生きる」とき、人間らしく生きることができる。活き活きと生きることができる。愛に目覚めていないならば、肉体的に生きていたとしても、生きているとはいえない。そう主イエスはいわれているのでしょう。
それでは、愛に目覚めているとは、どういう状態のことでしょうか。それは神からの愛、そして周りの人々への愛にいつも目覚めている。そのことをいつも心において生きるということでしょう。神からの愛に目覚めている。それはこれまでにもお話しているように、「当たり前」を「有り難い」と感謝して生きることだとわたしは思います。聖書は、わたしたち人間は神の被造物であるといいます。すなわちわたしたちのいのちは、与えられたものであり、贈り物として贈られたものである。今あるこのいのちというのは「当たり前」なのではなく、このいのちを神の「賜物」として受け取り直す、感謝する。これが神の愛に目覚めているということでしょう。
神の国はわたしたちの間に近づいたのです。天に行くと、報いがある。頑張れば、神の国に行けるということではないのです。神の国はもうわたしたちの間に来ている。幸いは、どこか遠いところにあるのではなく、わたしたちの生きる現実の只中にあるのです。このことに気づくかどうか。目覚めているかどうかなのです。
「関係の豊かさ」
きょうはみなさんとご一緒に、わたしたちが生きる上での豊かさとはいったい何か、神の前の豊かさとは何か、そして主イエスが感じておられた豊かさとは何か、これらのことを考えるひとときをもちたいと思います。
夫婦2人で95歳まで生きた場合2000万円の貯蓄が必要であるとか、年金に頼った生活ではお金が足りなくなるというような社会の声もあるようですが、わたしたちが生きていくためにはお金が必要であることに間違いはありません。ですからきょうのたとえの金持ちのように、蓄えがあれば安心という考えが普通なのかもしれません。けれども、本当にそれが「豊かである」といえるのか。「豊かさ」というものはお金で買えるのかと、きょうの福音はわたしたちに問いかけているのです。
わたしたちが神のみ前に立つとき、何か必要なものはありません。何かが欠けているから、神の前に立つ資格がない、ということもありません。ただ何も持たずに、何も着飾ることもなく、そのままの姿で神に向かい合うだけでよいのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この神のおもいを受け止めて、主イエスは神のみ前に立ち、神のみ前にある豊かさを生きられました。それはすなわち、人はお金や持ち物や、どんな仕事をしているか、どれだけお金を稼いでいるかなどで判断されるのではない。神のまなざしというのは、生きてそこに在るいのちそのものにまなざしを向けているということです。
わたしたちが、何も持たず、いわば裸の自分として神の前に立つとき、それは、自分の力や自分の持っているものに頼って生きる者としてではなく、関わりにおいて、関わりを生きる者として、神の前に立つということができます。ですから神のみ前の豊かさというのは、物質的な豊かさではなく、「関係の豊かさ」であるということができます。
自分が持っているものによって判断されることがなくなり、所有することから解放されるならば、わたしたちは自己中心的な生き方から解放されて、神と人とのつながりを生きるようになっていきます。なぜなら、わたしは所有物で判断されたり価値づけられたりするのではなく、かかわり、つながりにおいて、わたしの存在、いのちの意味や価値が生じるからです。すべてを手放したとき、自分が何ももたなくても、弱くても、脆くても、それでもいのちを与えてくださり、あなたが生きているそのことに価値があるといってくださる、その神の愛が、すでにわたしたちに与えられている。そのことに気づくのです。
「主の祈りを味わう」
きょうの福音において、「わたしたちに祈ることを教えてください」とわたしたちの思いを弟子たちが代わりに主イエスに伝えてくれています。主イエスの弟子としての祈りを教えていただきたい。教会として、みなで心を合わせて祈る祈りを教えていただきたい。そのような思いを、弟子たちが口にしてくれた。そして主イエスがわたしたちに教えてくださったのが、主の祈りです。主イエスは、主の祈りを教えることを通して、祈りというものはこういうものである、祈るとはこういうことであると教えてくださいました。つまり、主の祈りの助けなしには、わたしたちの祈りというのは個人的、また主観的なものとなってしまうのです。
主の祈りのそれぞれのお祈りは、価値の順序といえます。その順序は神に関わることから始まり、わたしたちにより近いことに進んでいくようになっています。前半の3つのお祈り、神の名が聖なるものとされるように、神の国が来るように、神の意思が成るように、これらは神がテーマです。そして後の3つ、肉体的な心配、罪、悪の誘惑と力は人間的なテーマです。そしてこの神のテーマと人間のテーマというのは分かち難く結びついているということです。わたしたち人間というのは、表面的なところで満たされたり願いが叶ったりすることよりも、もっと奥深くにある望みがある。それを主イエスは知っておられました。ではわたしたちの奥深くにある望みとはいったい何なのか。それは神と人とのかかわりを生きるということです。神の愛の関係がわたしたちのうちに実現していくこと、それを何よりも先に祈るのです。そしてわたしたちが祈るとき、わたしたちのうちにいる、主イエスを通して、主イエスに祈ってもらうことがとても重要です。主イエスに祈ってもらうとはどういうことか。それは、自分が無言になるということです。以前カンタベリー大主教であったローワン・ウィリアムズは次のようにいいます。
「祈りの本質は、イエスがあなたのうちで祈り、そして父なる神のみ心の奥義へとわたしたちを導くことです。イエスがわたしたちへの愛のゆえにご自身を無にされたように、わたしたち自身も無になります。」(『キリスト者として生きる』 ローワン・ウィリアムズ 教文館)
お祈りの最後には「主イエスのみ名によって アーメン」といいますが、それは主イエスを通して、主イエスに祈ってもらうということです。
主の祈りを何度も唱え暗記しているわたしたちは早口になってしまいますが、それぞれの祈祷文のなかに、様々な意味を込めることができます。ですから主の祈りをゆっくりと、味わいながら唱えるようにすると、この祈りがわたしたちの心と身体に沁みこんでいくのです。
「みことばに変えられる」
今週の福音はわたしたちに、聖書にどのようにしてよんだらいいのかということを、考えさせてくれる箇所だとわたしは思います。教会の伝統としてはよく、マリアをお祈りの人、マルタを奉仕の人、そしてみことばにきくマリアの姿勢のほうが大切であるという読み方がなされてきました。この聖書箇所だけではないですが、3年周期で何度も同じ個所をきき、そして説教を聞いて、「ああこの箇所は、こういうことだよね」と聖書に聴くまえに自分のなかで聖書の読みが固定化されてしまっている。このようなことはないでしょうか。
わたしたちが聖書をよむときに、ひとつの教訓をよみとり、それを実行しなければならない戒めや掟として覚える。このようなよみ方というのは、わたし自身は、聖書の豊かさを味わう機会を失うことになるのではないかと考えています。わたしたちが聖書をよむのは、理性的判断で、理屈で読んでいくというよりも、自分の全存在、自分の人生、今生きている日々の生活を聖書に投げかけて、生きる上での悩み、苦しみ、課題を、聖書に投げかけてよむのです。
そして、きょう、今このときに聖書から響いてくることば、神の愛のことば、あるいはゆるしのことば、あるいはさばきのことば、希望のことばに耳を傾ける。ですからわたしたちは何度も何度も同じ箇所をよむのは、そこから響いてくることばに、そのときそのときに出会うためです。自分自身がみことばによって変えられること。これが聖書をよむこと、だとわたしは思います。
ですからきょうの福音がいま自分に語りかけていることとは何なのか。きょうの聖書のメッセージは、私にどのように変わることを求めているのか。きょうのメッセージには、わたしにとってどのような新しさがあるのか。聖書のみことばを、いま、自分自身に向けられたものとして受け止めることが聖書をよむということです。
そしてわたしたちは、神のみことばが受肉する、すなわちわたしたちが神のみことばになっていくのです。それはみことばを知識的に知っているということに留まるのではなく、聖書の中に自分をよみ取る。先週も申し上げた通り、聖書の登場人物に自分を重ね合わせてみるのです。
このように見てきますと、主イエスの「しかし、必要なことは一つだけである」というみことばは、主の足元に座って、その話に聞くことだ、という一つの解釈から解き放たれ、解釈の可能性にひらかれるのではないでしょうか。
「イエスに愛された者だから」
きょうの福音は、主イエスのたとえのなかでも最もよく知られている「善きサマリア人」、岩波書店訳では「サマリア人に親切にされた男」のたとえです。みなさんはこのたとえをどのように聴かれたでしょうか、どのように理解しておられるでしょうか。確かにこのたとえは、キリスト教の隣人愛の模範を語るたとえともいえます。主イエスは「行って、あなたがたも同じようにしなさい」といわれています。ですから、たとえに出てくるサマリア人のように、献身的・犠牲的な愛がわたしたちには求められている。この主イエスの言葉を主イエスの愛の戒め、また道徳的な教訓として、みなさんは理解しているのでしょうか。すなわち道端で倒れている人がいたら、行って助けるべきである。それが善いことであると。しかしながらこのたとえは、模範的な善人の姿というものを伝えようとしているものなのでしょうか。
これまでにもお話しているように、聖書を読むときに大切なことというのは、聖書の登場人物に自分自身を重ね合わせて、登場人物に自分がなりきってみることです。主イエスになってみたり、弟子になってみたり、その他の登場人物になってみると、どのような気持ちになるかを想像してみる。すると、2000年前の遠い昔に起こった出来事ではなく、今ここで、自分に語りかけられていることばとして、聖書に聴くことができます。
きょうの主イエスのたとえに出てくる登場人物は、追はぎ、すなわち強盗にあった人、ユダヤ人の祭司、レビ人、そしてユダヤ人とは関係が悪かったサマリア人です。それぞれの登場人物になってみて、どんな気持ちだったのか想像する。これを黙想といいます。そしてきょうのたとえにおいて特に大切なのは、強盗にあった人になってみることだと、わたしは思います。
たとえのように、わたしたちは実際に強盗にあって道端に倒れたりすることもあるかもしれませんが、それだけでなく、わたしたちが生きる人生の様々な場面において、傷つき、うずくまり、倒れてしまうことがあるのではないでしょうか。誰も見向きもしないで、みなが自分の横を通り過ぎていく。そのようななかで、傷つき、倒れ、うずくまっているわたしたちを、深く憐れみ、はらわたを痛めて、近寄り、助けてくださるのは、主イエスなのです。ですから、わたしは「主イエスに命令されたから、愛の掟だから、がんばって献身的に犠牲的に、人助けしなければならない」ということではないと思うのです。わたしたちは主イエスに助けられたことがあるから、主イエスのおもいを知ったから、わたしたちは同じように、今度はだれかに、主イエスと共に、手を差しのべるものにされる。だれかの隣人となっていくのではないでしょうか。
「互いの違いを認め合うつながり」
「収穫が多いが、働き人が少ない」と主イエスはいいます。こちらの呼びかけに応える多くのひとが目の前にいる。困難のうちにある人びと、今日一日の食べ物にも困っている人びとが、わたしたちの目の前にいる。しかしこの人たちこそが神の国に招かれている、神の国の民である。このことをイエスは「収穫」とたとえています。
わたしたちは、今朝も日曜給食活動を行いました。幸いきょうも多くのボランティアさんのお働きに助けられましたけれども、わたしたちはほんの一食だけをお渡しするという活動をするなかで、わたしたちの活動だけにとどまらず、社会においてもっと多くの支援を可能とするために、また社会の制度変革のために、切実に「収穫のために働き人を送ってください」と祈る場面があるのではないでしょうか。
きょうは「共に活動する仲間を与えてください」と祈りながら、わたしたちは何を大切にして教会の活動を続けていったらよいのかを、「つながる」ということばをキーワードとして、きょうの福音に聴いていきたいとおもいます。
わたしは、主イエスはご生涯を通して、神と人との「つながり方」をわたしたちにおしえてくださったと受け止めています。それは教会の専門用語でいえば「和解」であります。教会は和解のための働くことが求められていると言われます。しかし、和解のために働くというのは今いちピンこないかもしれませんし、また和解というのはかなり難しいことのようにも感じます。
しかし、教会の様々な活動や、それぞれの生活の場で、学校や職場で、家庭で、日常の人付き合いの中で、それらの場でのかかわりにおいて、つながっていく。神と人とのつながりを見えるものとする、見える化していく。それが和解の働きなのではないでしょうか。それが主にある平和を実現していく働きに、わたしたちが参与していくことであるとわたしは考えています。
わたしたちは人間の目線からみれば、わたしたち一人ひとりには個性があり、それぞれに違いがあります。また相手の気に入らないところが目に付きます。けれども、神という大いなる、広い視点から見るならば、わたしたち一人ひとりは大切ないのちである。そして自分一人だけで生きることはできない。互いに助け合いながら、励まし合いながら、支え合いながらでなければ生きていくことができない存在である。そういう大いなる神の視点に立って、わたしたちは具体的な活動を通して、つながっていくことが、神の国、神の愛の宣教である。わたしたちの日曜給食活動も、そのことを伝えていくために行っているといえるのではないでしょうか。
「究極的関心事」
きょうの福音は、主イエスがエルサレムへと向かう旅を始める場面であります。そして道すがら3人の人に「あなたに従いたい」と言われます。すると主イエスは、自分の生きている現実を伝え、死者の葬りは霊的に死んでいる者に任せておけばよいと言い、家族へのいとまごいもゆるしませんでした。これらのことを通して、主イエスは神の愛をこの世界に伝えることというのは、緊急でかつ最優先の課題であることを伝えているのです。
キリスト者になる、洗礼を受けるというのは、主イエスの生き方に倣う者となるということです。いかがでしょうか、主イエスの言葉を聞いてそれでも、キリスト者になりますというでしょうか。あるいは、そのような厳しいことは聖職の仕事でしょう、信徒にはそんなに厳しいことは求められていない、と思うでしょうか。
確かにかなり厳しいことが求められています。けれども主イエスは、家族のことは大切ではない、家族の葬儀などどうでもよい、ということを言おうとしているのではないでしょう。わたしたちが主イエスから問われているのは「あなたにとって、生きる上で一番大切なものとはなんですか、家族ですか、仕事ですか、お金ですか、安定ですか、それとも、愛ですか。神の愛をこの世界に伝えることに取り組むことですか」と問われているのです。神学者のパウル・ティリッヒは、神学、すなわち神のことを考えることというのは、究極的な関心事であるといいました。究極的な関心事というのは「わたしとは何者か」「なぜわたしはこの世に生まれたのか」「わたしの生きる意味とは何か」このような問いに関わることだといえます。
健康で、家庭円満に、日々をなに不自由なく過ごしていれば、「なぜわたしはこの世に生まれたのか」「わたしの生きる意味とは何か」というようなことは、あまり考えないかもしれません。しかし、病気になったり、老いてくると、今までできていたことが思うようにできなくなる。やりたいとおもえることがなくなっていく。自分の役割が減っていく。これまで自分は何のために生きて来たのだろうか、もし明日があるならこれからどういう人生を送るのか、というような、これまでの日常生活の中ではあまり考えてこなかったことを、病になって、老いてきて、はじめて立ち止まって考えるようになるのかもしれません。
身体を持つ人間は、病を患い、老い、死をむかえます。このような人間の思い通りにならないことを、互いに分かち持つことによって、神と人とのつながりをいきるよろこびを知るのではないでしょうか。そのような生き方が、イエスと共にエルサレムへと向かう道なのではないでしょうか。目の前におかれた辛い現実は変わらずにある。しかしそれがあるにもかかわらず、今を豊かに生きることができるようになる日がくる。それを可能にするのは、自分一人の個人の努力によってではなく、神と人とのつながりを生きるから、主イエスがわたしたちの苦しみを共に担ってくださるから、また共にともに重荷を分かち持ってくれる仲間がいるから、そのようなつながりを生きるよろこびを、苦しみのなかで生きるからなのではでしょうか。
「人間性の回復とは」
きょうの福音は、ゲラサ人の地方、すなわちガリラヤ湖の南、ヨルダン川の東側に位置するギリシア人・異邦人が住む地で、主イエスが悪霊に取りつかれた人をいやしたという記事です。古代世界の人々の多くは、悪霊等の様々な霊の存在を信じていました。そして、それらの霊が自然現象を起こしたり、人間に取りついたりする。また人間の力ではどうにもならない病や障がいも、悪霊によるものとだと、古代の人々は理解していました。
「悪霊に取りつかれている」と見なされていた人は、一般の人々が住む世界から、「墓場」へと追いやられていました。この悪霊に取りつかれた人のさまは、悪霊に支配されている状態の強烈さ、悪霊の力が強大であることを印象づけると共に、この人が人間性を失い、ひどい状態に陥ってしまっていたことを物語っています。
そのように人間を傷つけ、苦しめ、支配し、非人間的な状態にするのが悪霊です。しかし悪霊は主イエスのこと、主イエスの力のことを知っているのです。悪霊は主イエスの前にひれ伏し、主イエスの圧倒的な力から逃れようとして、汚れたものとしてユダヤ人に認識されていた豚の中へと自ら向かい、自滅したというのです。人を苦しめる悪霊が、主イエスの前では自滅の道を行かざるを得なくなる。つまり主イエスは、悪霊に打ち勝つ力を持つ方である。主イエスは人を非人間的な状態から、人間性を回復してくださる方である。このことを、きょうの福音は伝えようとしているといえるでしょう。
悪霊・悪の力は、神からわたしたちを引き離し、非人間的な状態へと陥れます。みなさんは、無意識のうちに、悪霊・悪の力によって、自分自身が非人間的な状態に置かれてしまっていると思うでしょうか。また、主イエスによって非人間的な状態から、人間性を回復していただいた、そのような体験や感謝の思いがあるでしょうか。
生産性や効率が求められ、支配や搾取、人間の商品化が行われているわたしたちの生きる社会においては、人間は貧困化し、醜くなります。つまりわたしたちの生きるこの社会の価値観によって、わたしたちは非人間化されている。そのようにいうことはできないでしょうか。このような社会がわたしたちに強いる価値観が、悪霊・悪の力とは言えないでしょうか。
社会が求めるこのような幻想を捨てて、今の自分を大切にし、人を大切にしていくと、わたしたちは人間らしい豊かな生活ができるようになるのではないでしょうか。わたしたちは、一人ひとり、神に「あれ!」といのちを与えられ、存在するものです。それでは、みなさんお一人おひとり、自分にとっての悪霊、悪の力とは何か。そして自分が、非人間的な状態から、主イエスに人間性を回復していただくというのはどういうことなのか、について、思い巡らしていただきたいと思います。
「神のいのちによろこびおどる」
わたしたちは大斎節、復活節、そして聖霊降臨日と、主イエスの受難と死を見つめ、主の復活を知り、そして主のご復活を宣べ伝える証し人とされるという弟子たちの体験を、追体験してきました。このようにしてわたしたちが、弟子たちと自分を重ね合わせて感じ取った、父と子と聖霊のわたしたちへの働きかけ、すなわち神の愛の働きかけをわたしたちがどのように感じ取り、それをこれからどうやって公に伝えていくのか、をこの三位一体主日に思いめぐらしてみたいと思います。
きょうはそのヒントとなるのではないかとわたしが思う動画のことをご紹介したいと思います。YouTubeで配信されている「TED ムーブメントの起こし方」という、カナダで行われた講演会の動画です。ムーブメント、運動はどのように起こるのか、という話です。
1. 最初にひとりの人がパンツ一丁で裸踊りを始めます。リーダーは笑い物にされる覚悟が必要です。
2. ムーブメントの要となるのは、最初のフォロワーです。最初のフォロワーが、どのように裸踊りをするのか、を周りにお手本を示すのです。最初のフォロワーというのは実は一種の指導者でもあり、彼の勇気ある行為が一人の変人をリーダーに変えるのです。そしてリーダーは最初に来たひとを自分と対等に扱います。
3. そして2人目のフォロワーが来ます。人が集まってくると、注目の的になります。そこで大切なのはフォロワーの存在をアピールすることです。なぜなら彼らが手本になるからです。
4. するとさらに、2人、3人とやってきます。ここが転換点です。ムーブメントとなったのです。人が増えればもう目立たないし、笑われません。むしろそれに乗り遅れると、ダサいと思われます。
5. みんなが続々と参加するようになります。参加しないと後でバカにされると思うからです。このようにしてムーブメントは起こるとこの動画では説明されています。
主イエスが起こされたムーブメント、それは神の国運動でありました。主イエスは「神の国が近づいた」といってムーブメントを起こされました。当時のユダヤの民は、ローマ
の支配下にあって何重もの重い税金をかけられ、貧しく困窮した状態でありました。また病や障がいに苦しむ人や、娼婦や徴税人は、罪びとと呼ばれ見下されていました。そのような彼らに主イエスは目を留めて、共に食事をしました。それは、神の国が近づいた、すなわち律法を守らない罪びととみなされている人も、みな神の子であり、みな神のいのちに生かされているということを目に見える形で示すためでした。そのような主イエスの姿を見て、みなイエスは気がおかしくなったと思ったのです。それでは、わたしたちが主イエスの裸踊りのフォロワーになる。一緒に裸踊りを踊るというのは一体どういうことなのでしょうか。それは、わたしたちが三位一体の神の愛を受け止めて、神のいのちに導かれて、聖霊の導きに従って、今このとき時を生きるよろこびに踊る、ということなのではないでしょうか。
「自分を超えた『聖霊』が語らせる」
教会における伝統的な三大祝祭とされているのが、クリスマス(降誕日)、イースター(復活日)、そしてペンテコステ(聖霊降臨日)です。使徒言行録によれば、主イエスの復活から50日、ペンテコステ・五旬祭の日に、主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、初期教会の活動が始まったと伝えています。
最後まで主イエスについていくと勇ましく誓った弟子たちは、十字架にかけられるイエスを見捨てて逃げてしまいました。エルサレムに留まった弟子たちは、自分たちも師匠のイエスと同じように、殺されるのではないかと、どこかの家に隠れて鍵をかけて閉じこもっていたのです。そのような弟子たちが、聖霊、すなわち自分の力ではなく、自分を超えた力、すなわち神からの働きかけに駆り立てられて、イエスのこと、イエスの愛のことを告げ知らせ始めるようになりました。よって聖霊降臨は教会の活動の出発点、教会の誕生日といわれます。主イエスの復活、昇天の後、教会の活動を始めるにあたって、弟子たちは自分の思いを超えた、聖霊なる神の働きかけを強く感じた、ということす。
ですから、聖霊降臨という出来事をわたしたちがきょう記念するのは、2000年前に起きた遠い昔の、遠い国の出来事をただ思い起こすのではなく、今の私たちに深いかかわりのあることである。これを告げるのがきょうの聖霊降臨日です。
自分の思いを超えて、目には見えない力の働きかけによって、弟子たちは恐れることなく、主イエスの愛について語り始めました。ですから弟子たちは「語りたいから語った」わけではないのです。「霊が語らせ」たので、語らざるをえなかったのです。
それでは、わたしたちはどうでしょうか。みなさんは主イエスのこと、主イエスの愛のことを、自分が語りたいから語るのではなく、聖霊によって、自分の思いを超えた神の力によって、いわば無理やりに駆り立てられて、急き立てられて、聖霊の力に促されて、主イエスこと、主イエスの愛のことについて、語りたくなったことはあるでしょうか。また、自分の思いを超えた、自分の内側に働きかける力や働きかけに導かれて、愛の行いを実践したことはあるでしょうか。もしかしたら、ボランティアしてみよう、というのもそのような自分を超えた内なる力の働きかけといえるかもしれません。
教会に導かれて、主イエスと出会って、自分が変えられて、これまで気づかなかったものに目をひらかれるようになる。そして自分の思いを超えた、働きかけに促されて行動を起こしてみたら、違う世界が見えるようになってくる。これらのことは、自分の思いや想像を超える聖霊の働きによるものなのです。
「目にも見えず触れることもできない関わりを生きる」
復活節第7主日、昇天日後の主日であるきょうは、「わたしたちのように彼らも一つとなるためです」という主イエスのみ言葉に留まりながら、主イエスがそうであったように、父なる神とわたしたちが一つになること、主にあってわたしたちが一つになることがどういうことかを、ご一緒に思い巡らしてみたいと思います。
主の昇天を信じるとは、主イエスが天高く、宇宙の遠いどこかへ行ってしまったことを信じることではありません。主イエスが父のみもと行くといわれるので、どこか場所のことのように思えますが、父なる神との関わりのことをいっているのです。すなわち主の昇天を信じるということは、主イエスとの関係が、目で見て、手で触れるというような肉体的な関わりから、目で見ることも、手で触れることもできなくなったけれども、いつでもどこでも、時間や空間を超えて、わたしたちとともにいてくださるという関わりへと変わった。このことを信じるということだといえるでしょう。
主イエスの弟子たちは、これまで共に過ごした主イエスのことを、目で見て、手で触れることができなくなりました。それににもかかわらず、確かに自分のなかに、また仲間たちとのあいだに、主イエスが共にいてくださるという感覚が、時が経つにつれ、色濃くなっていったのでしょう。ですからどんなときにわたしたちが、主イエスと共に生きているということを色濃く感じるのかというと、それは、主イエスのおもいを、主イエスの意思を、主イエスの選択を行うときに、主イエスと共に生きていると感じるのではないか、とわたしは考えます。
主イエスは、父なる神のおもいを行っていました。そのとき主イエスは唯一でまことの神を知り、自分は父なる神と一つであると言うことができた。この一つであるという意味は、父なる神の意思を行うことにおいて、一つとなっていたということでしょう。それでは、わたしたちが主イエス・キリストと一つになる、父なる神と一つになるということはどういうことでしょうか。それは、父なる神のおもいを行った主イエスの意思をわたしたちが行うとき、そのときにわたしたちは、主イエスと、そして父なる神と一つとなるのではないでしょうか。
目には見えず、手で触れることのできない愛の関係を生きること、これが父なる神のもとへ行く、キリストが先立っていかれたところにわたしたちも昇るということでしょう。わたしたちは神の祝福、神の愛のもとにありながら、苦しみや死を含む人生に自らを差し出し、苦しむ人と共に生きること、これが、わたしたちが父なる神のおもいを生きること、父なる神と主イエス・キリストと一つとなることなのではないかと、わたしは思います。
「聖霊の働きかけを聴く」
復活節第6主日の福音は、ヨハネ福音書の最後の晩餐の席での、主イエスの言葉です。この世を去るにあたって、主イエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉でありますが、主イエスは、「わたしは去っていくが、何らかのかたちでわたしはずっとあなたがたと共にいる」と告げます。何らかのかたち、というのは、聖霊というかたちであなたがたと共にいるということを約束されたのです。
わたしたちが生きる日々の現実においては、「神はわたしを見捨てられたのか」と叫ばざるをえないような状況に直面します。しかし、そのような現実にあっても、わたしたちは聖霊による働きかけがあるので、孤立無援ではないというのです。わたしのなかにも、みなさんのなかにも、聖霊・助け手が主イエスからおくられているのです。いかがでしょうか、みなさんはそのことに気づいておられるでしょうか。またどのようなときに感じておられるでしょうか。感じるのは、どのようなときでしょうか。
わたしたちは神のことも、主イエスのことも、そして弁護者である聖霊のことも、目で見ることはできません。しかし、確かにわたしたちのうちで、わたしたちに働きかける力、自分のものではない、神のはたらきといえるようなものが、自分に働きかけている。これはきっと主イエスのなかで働いていた、神の働きなのではないか。主イエスを突き動かしていたのは、虐げられ疎外されていた人たちのところに主イエスを向かわせたのは、この力のことではないか。そのようにおもわせてくれるもの、それが聖霊なのです。
キリスト教においては、神のことを知るのは、イエス・キリストを通して知ります。直接主イエスに出会うことのできないわたしたちは、聖書を読んで主イエスのことを知ろうとするわけですが、きょうの福音で主イエスは、わたしたちと共におり、そしてわたしたちのうちにいる聖霊によって、神のこと、主イエスのことを知ることができるといっておられるのです。
その聖霊の働きを、ヨハネ福音書は愛という言葉で言い表しています。すなわち、わたしたちが愛の力にうごかされて行動するとき、それを聖霊がわたしたちのうちに働いている。神がわたしたちのうちではたらいている。神が共にいてくださる。主イエスが共にいてくださる、と言い表すのです。聖霊の働き、すなわちは愛の働きはわたしたちを孤独にはしない、だれかと、なにかと、つなげてくれる働きをします。助け手は、わたしたちを何から助けてくれるかといえば、孤立することから、また自分さえよければいいというおもいから、わたしたちを助け出してくれるのです。
「復活のイエスと共に生きる」
復活節も5週目となりましたが、きょうのテーマは、「復活したイエスは目で見ることができないが、今もわたしたちと共におられる」ということはどういうことなのか。それを思いめぐらしてみるようにと、わたしたちは招かれています。主イエスが復活した。これは確かな証拠があるから、信じる。そういうものとは違います。主の復活を信じるというのは、今生きておられるイエスと共に生きることです。今生きておられるイエスが自分に働きかけて、新しいいのちを生きる力を与えてくださっている。この働きかけに気づくことであります。働きかけの源、力・いのちの源は復活のイエスである。このようにわたしたちが確証はないけれども、そのように受け止めて生き始めると、わたしたちは今ここに、生きておられるイエスを知るのです。
きょうの福音は、主イエスがわたしたちを愛したように、わたしたちが互いに愛し合う。わたしたちが愛し合って生きようとする姿勢を通して、わたしたち教会は復活のイエスと共に生きていることが、まわりに伝わっていくと、教えています。そこで大切なことは、イエスが愛したように愛するということです。イエスがどのように人を愛したのかを知らなければ、愛することができない。イエスが愛したように愛さなければ、愛しているということにはならない。そうでなければ、そこに生けるキリストは共におられないということです。
一体どうやって自分が神に愛されていると分かるのか、と思うかもしれません。わたしは、自分が神に愛されているということは、いまこのときいのちが与えられていること、なぜかわからないけれど今わたしはここにこうして在ることだと受け止めています。そして、この与えられたいのちをどのように生きるのか、その選択の自由が与えられていること。これが神の愛とゆるしだとわたしは受け止めています。わたしが頭の中で何を考えようとも、どんな行動をしようとも、どのように生きようとも、神にとがめられることはなく、日々新しいいのちが与えられます。これを神の愛と呼びたいと思います。
ですから互いに愛し合うということは、一人の人間存在として、共にゆるされ、生かされて、お互いにかけがえのないいのちが与えられていることを確認することだといえるでしょう。愛するというのはいのちを敬うおもいであり、感情的に嫌いでも愛することはできます。好きでない人も、知らない人も、キリストのうちに、またキリストとともに、愛する。それが互いに愛することであり、いのちへの尊敬の念があるところに、復活のイエスは生きておられるのです。
「行う業がイエスを証しする」
きょうの箇所はヨハネ福音書10章の羊と羊飼いのたとえの後半部ですが、復活して今も生きておられる主イエスと、わたしたちの間にある深いつながりを味わうために、これらの箇所が選ばれています。主イエスと父なる神との間の深いつながり、それを主イエスは「永遠のいのち」という言葉で言い表しています。「永遠のいのち」と聞きますと、死んだあとも今のままで同じようにずっと生き続けることなのかと考える方もいるかもしれません。「永遠のいのち」というのは、物質的なレベルで考えるのでなく、状態で考えるほうがよいとわたしは思っています。「永遠のいのち」とは、きょうの聖書で主イエスが「わたしと父とは一つである」といっている状態のことです。
一つといいましても、また物質的なレベルで考えて、身体が合体して一つに重なることなのか、などと考えると的外れとなってしまうでしょう。神のおもいを生きている状態、神のおもいに満たされている状態、これが神と一つになっている状態ということです。その状態を主イエスは羊と羊飼いのたとえを用いて語っておられます。羊飼いが羊を一匹一匹よく知っているのと同じように、主イエスはわたしたち一人ひとりのことを心にかけている。そしてわたしたちを満たしてくださるということを、たとえを用いて語られているのです。いかがでしょうか、このように聞いてみなさんは納得したでしょうか。主イエスの声を聴き、主イエスに従って生きていきたいと思ったでしょうか。
きょうは、主イエスが「あなたがメシアか」と問われて、「わたしは言ったが、あなたがたは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」というみ言葉に留まりたいと思います。主イエスがいくら言葉で説明されようとも、ユダヤ人はイエスをメシアだとは信じることができませんでした。良い牧場へとわたしたちを導いてくださるイエスの声を聴き分けることができなかったのです。わたしたちはどうでしょうか。主イエスはいつでも自分のことを愛してくれているという教えは信じがたく、クリスチャンの身勝手な考えにすぎないと思う方もいらっしゃるはずです。実際に我が身で愛されていることを体験し、実感しなければ、イエスを救い主だということはできないのではないでしょうか。
イエスのことを伝えること、イエスが復活したことを伝えること、永遠のいのちについて伝えること、は行う業によって伝わっていく。教会に新しい人に来てもらう、宣教していくには、わたしたちの行う業がイエスのことを証しする。それでは、わたしたち一人ひとりが日々の生活において、主イエスについて証しをする業とは具体的には何なのでしょうか。教会が主イエスについて証しをする業を行うとは、具体的にはどのようなことでしょうか。
「自分の思いの向こう側へ」
先主日、わたしたちはヨハネ福音書の20章19節から31節の弟子たちの復活のイエスとの出会い、弟子たちの真ん中に立つ主イエスから、新しいいのちを吹き込まれた出来事をききました。そしてきょうの福音では、その復活のイエスにすでに出会ったはずの弟子たちが、ガリラヤに帰って、漁に出かけていく場面が記されています。みなさんは、これを少しおかしいなとは思わないでしょうか。復活のイエスに出会って、聖霊の息吹、すなわち新しいいのちを生きる力をいただいて、自分の内に閉じこもるのではなく、扉の外へ出て、人々に愛とゆるしを伝えるようにと派遣されたはずの弟子たちが、故郷のガリラヤに帰って、弟子になる前の仕事、漁師に戻ってしまっていることが描かれています。
この記事をわたしたちはどのように受け止めたらよいでしょうか。わたしたちも復活のイエスに一度出会ったとしても、すぐに神の愛とゆるしを伝える者になるのではなく、イエスの弟子になる前の、キリスト者になる前の自分に戻ってしまっている。あるいは、復活のイエスに出会ったのにもかかわらず、その出来事の意味が深く理解できないままに、主の復活ということがじぶんのなかに腑に落ちていないがために、結局主イエスに会う前の自分に戻ってしまっている。あるいは復活の主に出会い、聖霊の息吹を吹き込まれて、宣教に心を燃やして、神の愛とゆるしを伝えよう。この活動を通して神の栄光を現わそう。そのような思いを抱いて、意気揚々と外に出ていったけれども、行く手を阻む様々な抵抗や反対や無理解にぶつかって、何を言っても、何をしても相手には主イエスのことが伝わらない。もう元の仕事に戻ろう。そのようにくじけてしまうことも、あるのではないでしょうか。ですから、わたしたちの現状や、今の宣教の行き詰まりを顧みながら、きょうの福音を聴いてみると、また違った味わいを感じるのではないかとわたしは思います。
シモン・ペトロにとって、漁の専門家です。どうやったら魚が漁れるのかをよく知っています。でも、見ず知らずの素人に「右側に網を打ちなさい」と言われて、そのとおりにしてみた。すると、引き上げることのできないほどの食べ物を手にした。物質的な、そして霊的な食べ物を手にした。充分に満たされたのです。わたしたちはよく知っているとおもっていること、自分の仕事のことや、自分が専門にしていること、自分自身のことは、誰よりも自分が一番よく知っていると思っています。けれども人生においては自分の思い通りにならないことが起こります。自分の想像を超えた出来事が起こります。自分の力でコントロールのできないことが起こります。そのようなときに、目の前の出来事とどう向き合うのか。自分の経験や知識だけで解決するのか。それとも見知らぬ人の一言を信頼して、やってみるのか。他者の呼びかけに導かれてやってみると、思いがけない収穫がある、満たされるというのです。
「あなたを放ってはおかない」
主イエスの復活の記事で特徴的なことは、復活のイエスに出会ったのはイエスの弟子たちだけだったということです。主イエスはピラトにも、ヘロデにも、大祭司や議員たちにも、ファリサイ派や律法学者たちにも復活の姿を現してはいないということです。つまり復活のイエスとの出会いとは、特別に弟子たちだけが体験した出来事だったのです。誰の目にも、はっきりとした姿で、大勢の群衆の前で、復活した姿を現し続ければ、すべての人がイエスの復活を簡単に信じたのではないでしょうか。しかし、そうではなかった。ということは、復活のイエスとの出会い、生きているイエスとの出会いの体験というのは、イエスの弟子たちだけにとって、意味のあるものであったということができるでしょう。
弟子たちの復活のイエスとの出会い、それはゆるしの体験でした。十字架にかけられるイエスに失望し、またイエスについていくことができなかった自分自身にも失望し、絶望的な状況にあった弟子たちにとって、復活したイエスとの出会いを「自分はイエスにゆるされた」と受けとめたのです。主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちは、主イエスに従わなかったのですから、イエスの弟子であることにおいては失格者でした。しかし、現れたイエスは弟子たちを全く責めませんでした。責めるどころか、彼らを再び弟子として受け入れ、「自分たちがゆるされたように、人をゆるすように」という使命を与えて、弟子として新たに派遣したのです。自分たちがゆるされたように、人をゆるすこと。これが主の平和をもたらします。「あなたがたに平和があるように」という主イエスの言葉はただのあいさつではなく、これからあなたがたがゆるしを生きるようになるとき、そこには主の平和がもたらされるようになるということなのです。
しかしながら、その晩、弟子の一人であったトマスはそこにはいませんでした。その場に居合わせなかったトマスは、仲間たちの証言を聞いても、イエスが復活したことを信じられませんでした。復活のイエスを見ないで信じることはできなかったのです。復活のイエスに会えなかった。自分だけが会えなかった。自分だけが仲間はずれにされた。自分だけが放っておかれた。このようなトマスのおもいに、わたしたちもおもいを重ねることができるでしょうか。
主イエスはトマスに向かって、「あなたを放っておかない。わたしはあなたを忘れているわけではない」と語りかけたのです。このように、誰かから聞いた話として復活を信じたのではなく、自分自身に直接、復活の主イエスが語りかけてくださった出来事を、復活のイエスと出会ったと表現しているのです。
「生きているイエスと出会う」
「復活を信じる」ということは、科学技術の進んだわたしたちの生きる現代ではなかなか理解しがたいことかと思います。復活があったか、なかったかという事実関係や、イエスの姿はどのようなものだったかという復活の状況のことばかりに気をとられてしまうと、わたしたちは、主イエスの復活の意味を、悟ることはなかなかできないでしょう。今わたしたちのうちに、わたしたちのあいだに生きておられる主イエスに、きょう、ここで出会うことはできないでしょう。聖書はイエスが復活したのちも、人々を癒し、奇跡を行ったとは記してはいません。聖書は、生きているイエスと出会った人々の証言を記しているのです。
ですからきょう主イエス・キリストのご復活を祝うわたしたちは、主イエス・キリストの復活の証人として、それぞれのことばと行い、また生き方によって伝えるようにとここに集められているのです。つまりわたしたちの信仰全体は、この「よい知らせ」すなわち「イエスは私たちと共に生きておられる」という復活を証言する。主イエス・キリストが生きておられることを、それぞれの生活の場で証していくことに基づいているのです。
「イエスが生きている」このことが目に見えてわかるのは、教会に集うわたしたち、教会にいる人々に出会って、わたしたちを見ればとわかるのです。教会は「ほんとうに今生きているイエスと共に生きている」人たちの集まりなのです。
「ああ、なんであの人はあのように自分のためでなく人のために生きることができるのか」「なぜあのひとは絶望的な状況から立ち上がれたのか」「あのひとのように、愛を生きる生き方をしてみたい」。そのように思わせる人が、わたしたちの教会なかにきっといるはずです。
このように「イエスが生きている」という復活の知らせは、人の人生全体を造り変えます。ですからきょうこの復活日に、わたしたちは、復活して今このときに生きておられる主イエスの証し人となるために教会に集められている。このことを、もう一度思いを新たにしたいと思います。わたしたちは、死では終わらない主イエスの愛の不思議なわざを、わたしたち自身を通して、目に見えるものとするようにと、招かれているのです。
ですからわたしたち浅草ヨハネ教会がさまざまな活動を通して伝えることは「キリストはまことに復活された」すなわち、主はわたしたちのうちに、わたしたちのあいだにキリストは生きておられる」ということなのです。それをどのような具体的な働きで、わたしたちが現わしていくのかを、これからもご一緒に考えていきたいと思います。主のご復活おめでとうございます。
「死をみるとき、神をみる」
きょうはイースター・復活日の一週間前の主日にあたり、主イエスのエルサレムの入城と受難を記念します。みことばを聴くわたしたちは、物語のなかのどの人物と自分自身を重ね合わせることができるか、自分がどのように主イエスの裁きに関わっているのかを思い巡らしながら、受難物語に入り込んでみるようにと求められています。
みなさんは、自分が主イエスの裁きにかかわっているとお思いになるでしょうか。それぞれの生活のなかで、イエスなど知らないといっているときなど一度もないと言い切れるでしょうか。わたしたちが今週、聖週と呼ばれますが、「自分は主イエスの裁きに何らかの形でかかわっている」「わたしも主イエスを十字架に加担した一人である」と思いを深めるならば、来週の復活日、わたしたちも主イエスとともに復活するでしょう。
主イエスは弟子たちとの最後の晩餐の後、オリーブ山へ行き、このように祈ります。「父よ、御心なら、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。このように死を目の前にして苦しみ、葛藤する主イエスの姿を、弟子たちは直視することができませんでした。意識的か、無意識的かに関わらず、死と向き合っている主から目を背け、その姿を見ることができなかったのです。
主イエスは、ひとり孤独のうちにおられます。弟子たちからも、主イエスの受難から目を背けるわたしたちからも、主イエスは見捨てられます。主イエスはあらゆる人から見捨てられる孤独、御父からさえも見捨てられる孤独を、身をもって味わったのです。
苦しみや死と向き合うことがどんだけ辛いことか。信用していた人が自分のもとから離れていき、見捨てられることがどんなに悲しいことか。主イエスは、骨の髄までそれを味わいました。すべての人から見捨てられる辛さ、苦しみ、悲しみを主イエスはよくよく知っておられるのです。
死へと向かうイエスのもとから離れず、十字架上のイエスの姿をあおぎ見る。これこそキリストに従うことなのだとわたしは思います。なぜ私たちは、苦しみや死を見るのか。それは、自分一人で苦しみを見るのではないからです。ともに苦しむひとと共に苦しみ、ともに苦しむなかに光を見出し、ともに喜びのなかで喜ぶという、つながりのなかで、豊かに生きる人間らしさ・人間性を生きるためです。
持っているものすべてを失い、身ぐるみはがされて、両手を広げて十字架にかけられた主イエスの姿が、わたしたちに何を伝えようとしているのか、このことを思いめぐらす一週間を過ごしたいと思います
「腐ちない愛の実を結ぶ」
きょうの聖書箇所はヨハネ福音書12章1節以下です。場面は過越祭の6日前、すなわち主イエスのご生涯の最後の1週間の出来事です。ベタニアの村に来られた主イエスは、香油の注ぎを受け、その翌日エルサレム入場をされ、来週わたしたちが聴きます受難物語へと続きます。きょうの物語の登場人物ベタニアのマリアとユダの言葉と態度は、対照的な2つの在り方を表しています。ユダは自分を中心にした在り方、マリアは主イエスが示された神の愛の在り方だといえます。神の愛の香りが、マリアの奉仕によって、部屋いっぱいに満たされることになりました。わたしたちもマリアに倣って回心をし、主イエスに全てをささげる生き方をしていきましょうというのが、「聖書の解き明かしと勧め」というスタイルの説教の結びとなります。しかしそのように回心することをわたしたちの義務・努力目標に掲げて、わたしたちは回心することができるようになるでしょうか。
ここで回心することを考えるヒントになるのではないかというお話しをさせていただきます。「奇跡のリンゴ」をみなさんはご存じでしょうか。青森県の木村秋則さんは無農薬・自然農法でリンゴを育てています。リンゴを無農薬・自然農法で育てるのは不可能だといわれてきました。その不可能を可能にしたのが木村さんです。木村さんのつくったリンゴは何か月経ってもしぼんで小さくなっていくだけで腐らないそうです。木村さんは、農薬をまくたびに寝込む妻を見て、無農薬りんごの栽培に取り組みはじめました。それは約10年間の無収穫無収入という想像を絶する茨の道の始まりでした。害虫が大発生し次々とリンゴの木は枯れていきました。蓄えも底をつき、友人も次々と去って行きました。万策つきた木村さんは全てを終わりにするために山へ向かいました。枝に向かって一本のロープをかけたその先に見えたものは、一本のドングリの木でした。農薬も肥料もないのに豊かな葉が茂っていたのです。土は柔らかく湿っていて、香ばしいような独特の香りがしました。「この土を作ればいいんだ」とひざまずいて土を握りしめ、死のうとしていたことなど忘れて、夢中で山を駆け下りました。「自分は枝や葉など目に見えるところばかりに気を取られ、肝心の根っこや土のことをすっかり忘れていたのだ」と気づいたのです。その夜以降、木村さんは雑草を刈るのをやめました。そして自然の摂理に沿った方法で畑の土を蘇らせていきました。うさぎやねずみが走り回り、カエルが害虫を食べ、ミミズが畑の土を肥やしていきました。そして翌々年の春、満開の白いリンゴの花が咲いたそうです。木村さんは、次のように言います。「リンゴの木は、リンゴの木だけで生きているわけではない。周りの自然の中で、生かされている生き物なわけだ。人間もそうなんだよ。人間はそのことを忘れてしまって、自分独りで生きていると思っている」。
いかがでしょうか。みなさんも、ご自身をリンゴの木と見立ててみたらどうでしょうか。自分というリンゴの木に、回心の実、愛という実を実らせる。いつまでも腐らない愛の実を実らせることを想像してみてください。わたしたちは、自分という木に、へんな虫が付かないように沢山の農薬をまき、早く沢山のきれいな実がなるようにと、沢山の化学肥料を自分自身に与えてはいないでしょうか。見える枝葉や外見ばかりが気になって、自分の根がどこにはり、自分がどのような土に植わっているのか、に目が開かれているでしょうか。雑草をとることをやめて、自分という木に愛の実がなるのを、自然の摂理に任せていく。周りの自然のなかで、他の生き物、他の人々の関わりのなかで生かされている、生き物である自分にわたしたちが気づく。すると自然にいつまでも腐らない愛の実を、わたしたち一人ひとりという木は、実を結ぶようになっていくのではないでしょうか。
「神の恵みを共に分かち合う」
今日の聖書箇所は「放蕩息子」、聖書協会共同訳では「いなくなった息子」のたとえです。このたとえのテーマは回心です。回心するとは、生き方を180度方向転換する。自分を中心にして生きてきた生き方から、神と人とのかかわりを中心にして生きる生き方へと方向転換することです。
わたしたち人間は、神のもとから離れると、自分のことを第一にして生きるようになります。たとえの弟息子は、生前贈与された父の遺産、すなわち自分で稼いだのではない父に与えられたお金を、自分のためだけに全て使い果たしました。お金と自由を得て楽しく暮らすつもりだったのに、結局飢え、屈辱的な状況に置かれることとなりました。
弟息子は我に返って、自由とお金さえあれば楽しく生きていけると思ったのにそうではなかった。父に全てを与えられ、他者とのかかわりに生かされている者だということに自分は思いが至らなかった。父に詫びて父のもとでやり直そう。こうして父のもとへと帰りました。すると過剰とも思えるような対応で、父は息子が帰ってきたことを喜び祝うのでした。
放蕩の限りを尽くしたのにもかかわらず、何も咎められることなく父に抱きしめられる弟息子に、自分自身を重ねて合わせてみると、わたしたちにも注がれている父なる神の驚くべき愛と寛容さが身に染みてくるかもしれません。けれども主イエスがこのたとえを語った相手とは、徴税人や罪びとと呼ばれる者たちにではなく、ファリサイ派や律法学者たちに語ったのでした。
わたしたちは兄息子と同じように、「放蕩」を「罪」ととらえます。けれどそうであるならば、兄息子は罪を犯していない正しく立派な息子なはずです。しかしこの兄息子も「我に返って」回心することが求められています。父から離れているのは、弟も兄も同じなのです。自分では父に仕え、父の言いつけに背いたことがないつもりでいるけれど、実は父のもとから離れている。そして父のもとから離れていることに全く気づいていない。それがファリサイ派や律法学者たちだったのです。もしかすると教会に集うわたしたちにも同じようなところがあるかもしれません。なぜ貧しい人、困っている人、食事に事欠く人のために教会は奉仕するのか。なぜ貧しい人、困っている人のことを教会員よりも優先するのか。そうは思わないでしょうか。彼らが貧しいのは、自己責任じゃないか。そうは思わないでしょうか。父は兄息子にこう言います。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。神はわたしたちといつも共におられる。そしてわたしたちは神にいのちを与えられ、神の恵みによって生かされている。このように自分が何者であるのか、自分が神に生かされている者であることに、我に返って気がつくのなら、神の恵みを他の人びとと共に分かち合って生きる生き方へと、方向転換することになるのではないでしょうか。
「ホームポジションに帰る」
主イエスが生きた社会、そして2000年後の今わたしたちの生きる社会にあっても、「不幸な出来事は、その人の行いの報いである」「貧しいのは、その人の努力が足りないからである」つまり自己責任である。また「病気になったのは、わたしが何か悪いことをしたせいである」。このように考える傾向は、今も昔も変わらないのではないでしょうか。
きょうの福音では、ローマ帝国のユダヤの総督ポンティオ・ピラトが、ガリラヤの人々がエルサレムの神殿で犠牲をささげていたときに、その人々を虐殺したという出来事。またエルサレムの水源地であるシロアムにある塔が、何らかの理由で倒れるという災難。これらは被害にあった人々が罪深かったからでも、因果応報なのでもない、と主イエスはいいます。主イエスは「あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と繰り返していわれます。これは起きた出来事に対して、原因を突き止めることが大切なのではない。いま回心するのか。起こってしまった出来事をきっかけとして、神へと方向を向け直す機会、チャンスと捉えるのか否かが重要なのだ、と主イエスは言われています。
神のもとへ帰るということは、わたしたち人間には戻るべきところがある。ホームポジションがある、ということでしょう。これを言い換えるならば、いのちへと立ち戻る。わたしたちのいのちが回復され、真に人間らしく活き活きと生きることができるようになる、ということです。主イエスは、わたしたちが立ち戻る先、ホームポジションのことを「神の国」として、たとえや行いによって示したのです。
わたしがホームポジションに帰ろうとするときには、呼吸に意識を向けます。仏教ではヴィパッサナー瞑想、またマインドフルネスと呼ばれているもので、気づきの瞑想です。すべての時を気づきで満たすというのは、一日中、またいつでもどこでも行えるものです。瞑想というと構えてしまいますが、平たく言えば気づきを持って一日過ごす。自分が一日のなかで無意識で行っていることに対して、意識を向けて気づいていくということです。普段意識をしていない、呼吸に気づく。座っているときに、お尻が椅子に触れていることに気づく。食事をしているときに、素材の一つ一つの味に気づく。このようにして気づきで満たすということです。つまり無意識に行っていることに意識を向ける。すると自分が一日中いかに無意識に行っていることが多いかに気づかされます。そして、自分の意志で、自分のしたいように、自分の力で、自分の選択で生きている、と言い切るのはひどく傲慢である。自分はいのちに生かされていると気づきます。このように気づくことをわたしは何度も何度も「回心する」ことと捉えています。気づきの瞑想を別な言葉でいえば、存在の次元に帰ること、いのちの次元に帰ることです。これがわたしたちのホームポジションなのでしょう。
「神とのかかわりにおいて見えてくるもの」
今週の福音で主イエスは、自分を殺そうとしている人がいる、そのように身の危険を感じる状況にあっても、「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」といいました。主イエスは、自分の人生の最後の日々に、敵対する人びとによって逮捕され、裁判にかけられ、重い十字架を担ぎながら、ゴルゴタへと向かうことになります。そして最後には、十字架にかけられ、もはや完全に身動きすることもできない状態で、殺されていきます。けれども、主イエスについて聖書が示していることは、主イエスが一つのことだけを心にかけておられた。それは、神のみ旨、神のおもいを行うことでした。人生の最後の最後まで、神とのかかわりを生き、神のおもいを行う。それがわたしなのである。どんなに厳しい状況に置かれようとも、たとえ自分から能動的な活動ができなくなったとしても、わたしがわたしであるのは、神とのかかわりを生きているときなのだ、と主イエスは身をもって示されました。
人生いつも登り調子で、毎日がうれしいことや楽しいことだけに満たされているのなら、それに越したことはありません。けれどもわたしたちの人生は、決して楽しいことやうれしいことばかりではないでしょう。むしろ、辛いことや苦しいことのほうが多いといえるかもしれません。ですからこの大斎節という期間は、わたしたちの人生において辛いことや苦しいことを遭遇したとき、あるいは年を重ねて老いや死と向き合わざるを得なくなったとき、そのとき自分がどう生きるのか。できれば避けたいと思うような出来事と自分が向き合わざるを得なくなったときどう生きるのか、という普段向き合わない問いにあえて向かい合う、そのような期間が与えられているといえるでしょう。
主イエスは、死に至る道のりにおいても、神とのかかわりを断ち切ることはありませんでした。重い十字架を担ぎながら殺されるという、誰もが望まない道を進むわたしがわたしなのだといったのです。わたしたち人間が、できれば避けたいと思うような、苦しみ、痛み、悲しみ、裏切り、恐れ、不安のなかを生き抜いたイエス。このイエスの姿にわたしたちは何を見るのでしょうか。そのような受難や死に至る道を進むことが、神とのかかわりを生きる道だと受け止めたイエス。このイエスの生きざまから、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。受難の道においてイエスのまなざしというのは、いったいどこへと向かっていたのでしょうか。十字架への道のりにおいて、主イエスが見ていたものを想像してみましょう。また、十字架への道を進むイエスが、わたしたち一人ひとりひとりをどう見ているのかを想像してみましょう。そして、わたしたち一人ひとりが、どのように主イエスの目に映っているのかを想像ながら、自分自身のことを見つめるときをもってみましょう。
「己を見つめるチャンス」
教会の暦は先週水曜日から、主のご復活のよろこびへと導く40日間の大斎節の期間に入っています。この期間はもともと古代教会においては、洗礼志願者が、復活日の洗礼に向けて準備を行うために特別に与えられた期間でありました。その原型は、きょうの福音にあるように主イエスが公の活動を始める前に、荒れ野で40日間の断食の日々を過ごされたことにあります。しかしながら、この大斎節はわたしたちにとって苦行の期間、厳しい修行の期間なのではありません。恵みの時なのです。
主イエスは荒れ野での40日間、肉体的な飢えと渇きのうちに、「あなたは何者なのか」と問われました。そして主イエスは、自分は神の愛、神の恵みによって生きる者であるという自覚を新たにした。そのような恵みのときだったのです。わたしたちにも、「今こそ恵みの時、今こそ救いの時」このように気づく恵みが与えられます。救いへの道、すなわち神と人との関係を回復する、回心の恵みが、この大斎節にわたしたちには与えられるのです。
きょうの福音には、ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされた主イエスが、その霊によって荒れ野に導かれ、40日間悪魔から試みを受けたとあります。この主イエスの受けた誘惑というのは、かつて荒れ野を40日間さまよった、イスラエルの民の経験と関連づけられ、またそれと照らし合わせて語られています。荒れ野というのは、見捨てられた孤独な状況、また人間の無力な場でもあります。このような場で、誘惑というのは一層強力になります。極限的な状況で「あなたは何者であるのか」「あなたは何によって生きるのか、自分の力によって生きるのか、それとも神によって生きるのか」と問われるわけです。ですから荒れ野とは、自分のアイデンティティ、自分の存在根拠が問われ場であると同時に、神と出会う場、恵みの場でもあるのです。
わたしたちが生きる人生、これも「荒れ野」といえるのかもしれません。実はわたしたちは、人生の一瞬一瞬において、「あなたは何者なのか」「あなたはどう生きるか」「あなたは神と人とのつながりを生きるのか」と問われているのです。これは決して大斎節だけのテーマではないのです。しかし、大斎節はそのことに集中する期間であり、自分自身を深く見つめ直すチャンスなのです。この大斎節を、何かを節制したり、禁欲したりすることで満足するというような、表面的なことだけで終わってしまうのはもったいないと思います。わたしたちが己の死を見つめ、また自分自身と周りの人との関係を深く見つめながら、大斎節を過ごす。それがわたしたちを復活へと導くのでしょう。
「知ることが愛へと導く」
「これはわたしの子、わたしの選んだ者。これに聞け」。父なる神がこのように語るのはこれで二度目であり、また最後でもあります。最初は、主イエスがヨルダン川に身を沈めるために罪びとたちの列に交じったとき。そして最後は、十字架へと旅立つとき、受難の前です。主イエスの変容の姿は、父のおもいを余すところなくあらわす御子、神の子としての栄光の姿です。
父のおもいに耳を傾け、父に従って生きたイエス。これに「聞け」、「イエスの伝えたわたしのおもいを聞け」と、今週水曜日から大斎節をむかえるわたしたちに、神はいま語りかけます。わたしたちが主イエスに耳を傾け、主イエスを知るとき、わたしたちの変容が始まります。すなわち神のおもいを生きる、愛を生きるように、わたしたちも変わるのです。
マザー・テレサは次のようにいいます。「あなたや、わたしは、もっとすばらしいことのために創られているのです。この人生を何の目的もなく通り過ぎるために、創られたのではありません。そのもっともすばらしい目的とは、人間は、生き、そして愛されるということです。対象が何であれ、知らなければ、愛することができません。知ることが愛に導き、愛は奉仕に導きます。」
自分自身を知る。相手を知る。主イエスの伝えられた神のおもいを知る。このことがわたしたちを愛へと導きます。知らなければ、自分も、神も、そして敵をも愛することはできません。ではみなさんは自分自身のことをどれくらい深く知っているといえるでしょうか。自分の奥底にある、飢えや渇き、恐れや不安、怒り、憤り、また自分の弱さや醜さをどれほど知っているでしょうか。
聖パウロがいうように、わたしたちは目が手に向かって「お前はいらない」とはいえません。自分の弱く、脆く、醜い部分をいらないとはいえません。それどころか、体の中でつまらない、捨ててしまいたいと思える部分に、かえって尊さを見出すのです。体のもっとも大事な部分は、他よりも見栄えが悪いと思われるような部分なのです。
自分自身の弱さや脆さを知ることなしに、相手の渇きや脆さを受け止め、敵を愛することなどできないでしょう。わたしたちの弱さや醜さをゆるし、それでも愛してくださる、この神の愛を知ることなしに、わたしたちは相手の弱さや醜さをゆるし、敵を愛することはできないのです。
自分自身を知る、相手を知る、神を知ることが愛へと導きます。十字架へと向かう主イエスと共に、自分自身の弱さや脆さ、自分の限界、また死と向き合い、復活のいのちへと導かれる大斎節を共に過ごしていきたいと思います。
「いのちに敬意を払う」
日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、キリスト教の「愛」を「ご大切に」と訳して伝えたそうです。「敵を愛しなさい」という言葉を、「敵をご大切に」と言い換えてみたらどうでしょうか。敵の何をご大切にかといえば、「いのちをご大切に」です。わたしはキリスト教の愛というのは、「いのちに敬意を払うこと」だと理解しています。「いのちに敬意を払う」というのは、自分のうちに働くのと同じように、その人のうちにも神の力が働く、言い換えれば「その人にいのちの力が現れる、いのちの可能性が花開くこと」を信じてかかわることといえます。
みなさんは、「プリズン・サークル」という映画をご存じでしょうか。2020年に公開されたドキュメンタリー映画です。窃盗、詐欺、過失致死、性犯罪など、罪を犯した受刑者が、「回復共同体・セラピューティック・コミュニティ(TC)」というプログラムを通して生き直していく姿を追った、初めて日本の刑務所にカメラが入った映画です。受刑者という同じ立場の者たちが、プログラムを通して自身の生立ちや価値観、またトラウマを語り合います。受刑者同士が語り・聴き合うことによって、自分自身を受け止めなおし、自分の犯した罪に向き合っていく。他の人に自分のことを打ち明け、伝える。その語りが他の人によって聴き、受け止められる。このようにして、非人間的な状態から、一人の人間へと回復していくのです。犯罪行為を行う者たちには、行動を起こすだけの理由がある。犯罪行動として表出されるのは、「見えない傷」によるところが多くある。受刑者自身がDVやネグレクト、性的虐待の被害者である。そういう理解から、このプログラムは成り立っています。彼らがプログラムを通して、自身の罪に向き合えるようになっていく、一人の人間として回復していく場としての共同体の姿が映画では描かれています。この刑務所に回復共同体をつくる試みは、いのちに敬意を払い、受刑者のうちにもいのちの力が現れることを信じてかかわることなのではないかと思います。
しかしながら、もし自分が犯罪の被害者だったとしたら、被害者の家族だったとしたら、どうでしょうか。わたしたち人間にはなかなか難しい、敵を愛し、憎む者に親切にする、すべての人のいのちに敬意を払い、罪を憎んで人を憎まないということを、主イエスは実際になさいました。そして、人を愛すことができない、人をゆるすことができない、そのようなわたしたちを、主イエスはゆるしてくださいます。わたしたち一人ひとりのいのちに敬意を払ってくださいます。主イエスは、「わたしは、あなたがたに期待している。あなたがたのうちに神の力が働くことを、神の愛の力が働くことを、いのちの可能性が花開くことを期待している」といわれるのでしょう。
「いのちの力が現れるとき」
きょうの福音は、主イエスが山の上で12人の弟子を選んだのち、弟子たちと共に山を下りると、主イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていたおびただしい群衆を前にして、主イエスは平地、すなわち彼らと同じ地平に立って、貧しさの只中にある人、悲しみの只中にある人に向かって「あなたがたは幸いである」と語り始めました。貧しいのに幸いって、悲しんでいるのに幸いっていったいどういうことなのか。そうは思わないでしょうか。貧しいままでいたほうがよい。悲しいままでいたほうがよい。そういうことなのでしょうか。
この箇所をカトリックの本田哲朗神父は「貧しく小さくされているあなたたちは、神からの力がある。神につながる世界はあなたたちのものである。今、泣き叫んでいるあなたたちは、神からの力がある。あなたたちは笑えるようになる。」と訳しています。今までのままで幸せのはずだという現状肯定のニュアンスではなく、現状を乗り越えて、将来を切り開くための感性と力を保証する、神からの励ましの言葉であると捉え、このように訳しています。
貧しさや悲しみに直面しているとき、全然そのようには思えないけれども、実はいのちの力が現れるときに直面している。つながりを生きることのできる、神からの力、いのちの可能性が今まさに花開こうとしている。出来事と、そして人と関わり合うための、いのちの応答力が呼び覚まされようとしている。まさに今が目覚めのときである。そう意味において、幸いであるという風にわたしは捉えたいと思います。
自分は一人で生きていける。助けなど必要ない。他人には全く頼らずに、自分の持つ弱さや脆さを認めない。それは自分を絶対とし、自分を神とする行為ともいえるでしょう。貧しい人は、自分の抱える弱さや脆さを認めざるをえません。他者に援助を仰がざるをえません。しかし、自分の抱える人間としての弱さや脆さに気がつくとき、「貧しさ」が響き合い、関係が成り立つ。「貧しさ」が他者へとつなぐ媒介となる。貧しさが「つながりの源・つながりの核」となるのでしょう。
ですからわたしたち教会は貧しさの地平に立つのです。それは主イエスの教えてくださった、神と人とにつながる秘訣ともいえるものです。わたしたちの人生を判断する基準は何よりも、貧しさの地平に立ったか、貧しい人々の視点から、人生やこの社会を眺めてみたか、であることを主イエスは教えてくださいました。日々の出来事・人との関わり方、貧しさや悲しみや、死と関わる自分の態度・在り方を、今一度確認してみる1週間を、ご一緒に過ごしたいと思います。
きょうの福音では、主イエスが弟子たちを召し出す様子が描かれています。師匠に弟子入りするということを考えますと、自ら師匠に志願して、それを許可されて弟子入りするというのが一般的な流れではないでしょうか。ですが、イエスが弟子を選ぶ。これがキリスト教の特徴、イエスとの出会いの特徴だといえます。
それでは、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちのほうが、主イエスの素晴らしさを知って主イエスに従っておこう、そう思ったという面も確かにあるでしょう。しかし、イエスがこのわたしを呼んでくださった、そのように思い当たるところはあるでしょうか。
主イエスは「わたしのことばに従って、やってみなさい」とわたしたち一人ひとりに呼びかけています。「あなたがそういうなら、やってみましょう」といって、行動を起こしてみる。イエスのことば通りにすると、大漁になる。それはきっとイエスを信じて歩みを起こすと、予想を超えた多くの人との出会いがあり、想像もできないほどに人生が豊かになるということなのでしょう。
よって、クリスチャンになるとか、キリスト教を信じるということは、単に神が存在すると信じればそれでいいというものではないのです。また誰かに言われたから信じるというようなのでもないのです。わたしはイエスに呼ばれた。このイエスとの直接的な関係が信仰です。イエスの伝えた神の国の到来というよろこびの知らせは、自分に関係のないところで、神の国が実現していくというメッセージではありません。わたしたち一人ひとりが、自分へのイエスの呼びかけを聞くかどうかなのです。
イエスの弟子として生きる上で基本となることとは何か。それはイエスの「呼びかけを聴く」ことです。このわたしを呼ぶイエスの声に耳を傾ける。わたしたちが自分に与えられた使命、役割、人生の進路を知るのは、「呼びかけを聴く」ときなのだと聖書は教えています。どういう道を進むべきか。どう生きるべきか。それは自分の能力によって、自分の選択によって決めることだと、普通は考えます。しかし聖書は、「このわたしに呼びかける声を聴く」ことによって、自分の使命や生きる意味を知るというのです。イエスの呼びかける声というのは、何かイエスの肉声のようなものが突然聞こえてくるというようなものではありません。わたしたちの日常の出来事を通して、また誰か人を通して、イエスの呼びかける声が聞こえてきます。「ちょっと手を貸して」「助けて」「あなたが必要です」と自分に呼びかける声が、日々の出来事を通して、また日々出会う人を通して聞こえてくるでしょうか。「これはきっと主イエスがわたしに呼びかけている声だ」と受け止めて、行動を起こしてみる。すると、自分の使命や役割、生きる意味がこれだったんだ、と見えてくるようになる。行動を起こす前には想像もしていなかったよろこびに満たされる。そう主イエスはわたしたちに教えてくださっているのではないでしょうか。
「愛の原理」
主のご降誕から40日目にあたるきょうは、被献日、生まれたばかりの主イエスがマリアとヨセフによって神にささげられたことを記念する日です。この出来事はユダヤの伝統的な儀礼を描くとともに、そこにいる人物に目を向けるようにとわたしたちを招いています。神を自分のうちに迎え入れ、神に自らの人生を差し出した、すなわち神への奉献生活を送った人々、マリア、ヨセフ、シモン、そしてアンナです。
わたしたちも、主イエスとともに、神に自分自身をささげるようにと招かれています。しかしながら、注意が必要なのは、神に自分をささげるということが、命令や義務、努力目標になってしまうことです。イエスさまがそうされたのだから、自分をささげなければならない。自分をささげて清い生活を送らなければならない。貧しい人や困っている人に奉仕しなければならない。このように考えてしまうのは、わたしたち人間の罪性、罪の傾向であるということができるでしょう。聖パウロも、そして宗教改革者マルチン・ルターも、自分を神にささげる生活を送ろうと懸命に努力しました。けれども、どうしてもそのようにはできなかった。完璧にはできない自分の弱さ・限界を知ったのです。
自分の限界に当たって、自分を動かす源となる力となるのは、外側からきめられた命令や義務や報酬ではないことに彼らは気づきました。すなわち自分が動かされるのは、神の恵みによるのだ。すなわち自分は聖霊の導き、神の愛の力によって内側から動かされて生きる。神の愛の力に動かされるとき、自分が真に生きているといえるのだ、とパウロも、ルターも気づいたのです。自分の外側から決められる、義務や目的や努力目標によって自分が動かされる。すなわちキリスト者として自分をささげなければならない、自分をささげることが正しい。自分をささげたらその結果として何か神から報いが与えられる。この発想はいわゆる律法主義、つまり罪の原理です。しかしわたしたちは、主イエス・キリストがわたしたちの罪を贖ってくださった、罪から解放してくださった、と信じています。それは、自分の外側から決められる、命令、義務や努力目標によって自分が動かされる、罪の原理から解放されたということです。
主イエスを動かしていたのは、神からの命令や義務や報酬ではありません。神の愛に動かされて、すなわち、主イエスは愛の原理に動かされていたのです。それではわたしたちの働き、わたしたちの奉仕は、愛の原理に基づいているでしょうか。聖霊に導かれて生きること、愛の力に動かされて生きること、これが自分を神にささげることなのでしょう。
「生の充溢」
きょうの福音は、主イエスが活動を開始する場面です。この場面でルカ福音書は、主イエスの活動の「核」をどのように捉えているのかを要約しています。この活動開始時における主イエスの言葉が、これから行いと教えによって具現化されていくわけです。
ルカ福音書の主イエスの活動開始の場面は、ユダヤ人の会堂が舞台です。会堂にいる人たちは主イエスの言葉に耳を傾けています。そこで主イエスは、神の国は来ている。ただ近づいているのではなく、神の「解放」の業がもうすでにここで始まっていると告げました。主イエスは霊すなわち神の力のうちに、貧しい人や抑圧されている人、囚われとなっている人への解放の訪れを伝えたのです。
しかしながら、主イエスのことばを聴いた人たち、またわたしたちを当惑させるのは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という主イエスのことばです。いかがでしょうか。わたしたちの生き方を変える主イエスのことば、わたしたちを新たにする主イエスのいのちのことばに、わたしたちはいまここで満たされているでしょうか。今日実現したっていったって、厳しい現実は何も変わらないではないか。わたしたちの生活は良くならないではないか。世界中で戦争が起き、虐げられている人がたくさんいるのに、どこに聖書の言葉が実現しているのか、と言いたくはならないでしょうか。
主イエスが伝えた「解放」というのは、現実を劇的な仕方で神が変えてくれるということではありません。主イエスは、神の愛とゆるしを伝えたのです。新しいいのちをもたらしたのです。神と共にすべての人が食卓につく宴に招かれている。先主日の福音であるヨハネ福音書の最初の奇跡の場面、カナの婚礼の物語によって描かれていたような、よろこびに満たされた盛大な祝宴。すなわち主イエスによって結ばれる神との親しい関係が、今ここに実現していると伝えたのです。
神と人と共に生きる。それによって、「わたしは今このときを生きている」そういう実感に満たされる。このような新しいいのちへの解放を、主イエスは伝えたのです。すなわち過去の、そして未来への囚われからわたしたちを解放し、今このときを豊かに生きるいのちへとイエスは招いているわけです。わたしたちは自分自身の中に沢山の受け入れがたいものを見出します。にもかかわらず、神はわたしたちを受け入れてくださる。今日も新しい朝を与え、新しいいのちを与えてくださる。この神のわたしたちへの信頼、「今日こそ、わたしと共に、また周りの人びとと共に、あなたは生きてくれるだろう」と、神はわたしたちに信頼と期待をよせている。この神の信頼と期待を、わたしたちが受け止めるならば、自分も予想もしなかった生きるエネルギーが湧いてくるのです。
「イエスのいのちの水で満たす」
顕現節第2主日である今週の福音は、ヨハネ福音書の主イエスがガリラヤのカナにおいて行われた、最初のしるし・奇跡物語です。このカナの婚礼の物語は、主イエスが水をぶどう酒に変えたこの行い・しるしを通して神の栄光が現わされたと伝えています。この栄光という言葉ですが、わたしたちが栄光と聞きますと、光輝いているさまや、神々しい、後光が差しているさまを思い浮かべますけれども、ヘブライ語では「そのものの重さ」や「そのものの価値」という意味です。すなわち神の栄光が現れるというのは、神そのものの重さや神そのものの価値が現れるという意味です。主イエスが「わたしの時はまだ来ていません」というように、主イエスが栄光を受ける時とは、十字架と復活の時です。その時に、神の重みが十全に現れます。そう考えますと、主イエスの驚異的な力において、神の栄光が現れているのではないでしょう。
主イエスは清めのための水を、良いぶどう酒へと変えたのです。旧約の預言者は、メシアの時代には大量のぶどう酒で満ち溢れると語っていました。この大量のぶどう酒は、神の国の宴の豊かさ、神の恵みの豊かさを現していると理解できます。すなわち主イエスによって、神の恵みが豊かにもたらされる、とこの物語は伝えようとしているのでしょう。
わたしたちの信仰の母であるマリアは、わたしたち一人ひとりに、「イエスの言いつけるとおりにしなさい」といいます。それぞれの仕事場で、また家庭において、この仕事が本当に主イエスの言いつけられることなのだろうか、と思うときがあるでしょう。また、なぜこのようなことをしなければならないのか、何の意味があるのか、と思うことがあるでしょう。しかしながら、わたしたちの働き、わたしたち人生、わたしたちのすべてが、主イエスに祝福され、豊かな恵みへと変えられるのです。
そして、主イエスは、主に仕える者であるわたしたちに対して「水がめに水をいっぱい入れなさい」といわれます。ではこの水とは、わたしたちにとって何を意味するでしょうか。清めの水をいっぱいにしなさい。すなわち掟や義務でわたしたちの身をいっぱいにしなさいと主イエスはいわれているのでしょうか。いえ、決してそうではない。主イエスは私の水、すなわち主イエスのいのちの水で、わたしたちのかめ、すなわちわたしたち自身をいっぱいに満たしなさいといわれているのでしょう。
カナの婚礼の物語を文字通り読みますと、水がぶどう酒に変わった不思議な話だね、イエスさまってすごいね、で終わってしまいますが、丁寧にそこにどのような意味が込められているのかを聴いていきますと、そこには豊かな意味が込められています。これが聖書に聴く豊かさ・よろこびなのだと思います。
「神のいのちに浸される」
主イエス洗礼の日に、わたしたちは主イエスが神の子であることが明らかになった。そして主イエスが神の愛を宣べ伝えていく活動をスタートされた。このことを記念します。そして洗礼を授けられた者が、聖霊、すなわち神のいのちに浸され、神の子とされた。そして神のつながりのいのちを日々の生活の中で現わしていくようにと呼ばれた。これらのことを確認することが、主イエス洗礼の日の意味です。
ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教は、『キリスト者として生きる』という本のなかで洗礼について次のように述べています。「洗礼はわたしたちを他の人々と区別させる特別な地位を与えるものではありません。『私は洗礼を受けた』と言えることは、特別な威厳を主張することではなく、ましてや、他の人々から選り分けられ、優越性を与えられることでもありません。それは、他者との新しい次元での連帯を主張することなのです(17頁)」。主イエスが洗礼を受けられたのは、「他者との新しい次元での連帯」を主張するためでありました。すなわち主イエスは、罪びとと同じ列に並び、共に洗礼を受けた。この行為を通して、罪びととともにある、神のいのちのつながりの次元を示されたのです。主イエスは、父なる神の愛を知っているので、みなと同じ地平に立たずにはいられなかったのです。
主イエスは、すでに現実となっている「神の国」、すなわち神のつながりのいのちの現実が、目には見えないけれども、今ここにあることに、わたしたちが気づき、それを認めることを求めておられるのでしょう。洗礼を受けることによって、神のいのちに浸され、神のいのちにつながっている。それを目にみえるものとするのが、教会なのです。
神のいのちのつながりの次元、これは目ではっきりと見ることはできないものです。しかし、主イエスが洗礼を受けられた。このことにおいて、そのいのちのつながりの次元が目に見えるもの、明らかなものとなりました。そして、わたしたちが洗礼を受けるということにおいて、目には見えないけれども、ここに確かにある、神と人とのいのちのつながりの次元が、目に見える形として、現わになるのです。
違う言葉で言えば、洗礼を受けるというのは、主イエスによって明らかにされた、神の恵みを受け止めてこれから生きていきます、という宣言だといえるでしょう。これまで自分の力で何とかしよう、自分の行いによって周りのひとに認めてもらおう、と条件付きの愛を求めて生きてきた者が、回心する。生き方を変える。自分はつながりにおいてある、かけがえのないいのちであること、このことを信じてこれから生きていきます、と神の前で、そして教会のみなの前で、わたしは「神の恵みを受け止めて、新しく生まれ変わります」と公に表明すること、それが洗礼なのでしょう。
「先立つ神のおもい」
きょうの福音であるヨハネ福音書の序文は、非常に美しく整えられた表現をもって、神がわたしたちの日常の只中へと入ってこられたこと。神が弱く脆い人間の身体において現れたこと、そしてイエスが何者であるのかを伝えています。
しかしながら美しすぎるがゆえに、このヨハネ福音書のみことばがスッと自分のなかに入ってこない。なにか遠いところの出来事のようで、分かったようで分からない。そういう印象を与える面がこの箇所にあることは否めないでしょう。そこで理解の助けとして、山浦玄嗣さんの訳した東北地方の方言、ケセン語で訳した聖書を読んでみたいと思います。
はじめにあったのは、かみさまのおもいだった。おもいはかみさまのむねにあった。そのおもいこそかみさまのもの。はじめのはじめにかみさまのむねのうちにあったもの。かみさまのおもいがこごって あらゆるものがうまれ、それなしにうまれたものはひとつもない。
山浦さんの訳したヨハネ福音書の序文を読むと、ずいぶん印象が変わるのではないでしょうか。初めにあるのは、人間のおもいではなく、神のおもいなのです。目には見えない神の胸のうちにあるおもいを、見えるかたちにしたのが主イエス・キリストです。主イエスのおもいは、かみのおもいであり、主イエスのことばと行い、主イエスの存在自身が「ことば」でありますが、イエスを見れば神のおもいが分かるのです。
そして、「かみさまのおもいがこごって あらゆるものがうまれ、それなしにうまれたものはひとつもない」とあります。わたしたち人間は、そして地球上のすべてのものは、神のおもいがこごって、神のおもいが込められてできた。「あなたに生きてほしい」そういうおもいが凝ってわたしたちは生まれたとヨハネ福音書はいうのです。
わたしは「はじめに神のおもいがあった」ということが、キリスト教の特徴であると考えます。わたしたちは、努力して、頑張って頑張って、清く正しく生きる。修行して、悟るから神に認められる、天国に行くのではありません。先に神のおもいがあるのです
わたしたちは自分に力があって頑張れるときには、一生懸命頑張れます。しかしながら、頑張れない時もあります。頑張りたくても、もうこれ以上頑張れない人もいます。でも「頑張りたい。でもこれ以上頑張れない」そういう自分の思いに先だって、神のおもいがあるのです。あなたは頑張るから、あなたなのではない。かみさまのおもいが凝って、あなたなんだ。あなたという存在があるんだ。そこから生き始めなさい。これが、新しいいのちを生きる、神のおもいを生きる、神の恵みを生きるということではないでしょうか。


