今週のお話

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「十字架に隠された神を見る」

2026年2月22 日(日) 大斎節第1主日 (マタイ4:1-11)

 主のご復活のよろこびへと導く40日間の大斎節の期間は、古代教会においては洗礼志願者が、復活日の洗礼に向けて準備を行うために特別に与えられた期間でした。ですがこの大斎節は苦行の期間、厳しい修行の期間ではなく、恵みの時です。聖パウロが「今こそ、恵みの時、今こそ救いの日(Ⅱコリント6:1-2)」というように、キリスト者の人生観においては、すべての時は恵みの時、毎日が救いの日なのです。よって大斎節において重要なことは、「何をやめるか」という禁欲的に過ごすことによって賞を得ることではなく、「自分がどう変わるか」ということなのです。

 目の前には「今や恵みのとき、今こそ救いの日」とは到底思えない現実がある。それにもかかわらず、「今こそ恵みの時、今こそ救いの時」である。このように気づく恵みが、この大斎節中に与えられるということなのです。

 きょうの福音では、ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされた主イエスが、その霊によって荒れ野に導かれ、40日間悪魔から試みを受けます。荒れ野とは、見捨てられた孤独な状況、人間の無力な場をも意味します。この無力な場で、試みは一層強力になります。そこで「あなたは何者であるのか」「あなたは何によって生きるのか、自分の力によって生きるのか、それとも神によって生きるのか」と問われるのです。ですから荒れ野とは、自分が何者であるのかが問われ場であると同時に、神と出会う場、神の恵みに気づく場でもあるのです。

 主イエスが退けた悪魔の3つの試み、それは神から離れて生きよ、すなわち自分の欲望を優先し、自分の必要や自分の関心事のみを生きよ、自己保全、自己顕示のために生きよ、という試みです。すなわち悪魔は容易な道を選ぶのか、それとも困難な道を選ぶのか、を試みたのです。主イエスが神の子であるのは、自分自身のために奇跡を行い、権力の座に着くからではない。神の意思を生きるからです。十字架への道がいのちへの道であることを示すから、神の子なのです。

 大斎節の40日間は、主イエスと共に荒れ野に出かけ、試みに直面し、自分が何者であるのか問われ、苦しみと死に向き合う道です。このような道をみなさんは進みたいと思うでしょうか。キリスト教がこの現代社会を生きる人に受け入れられないのは当然です。なぜなら、一見全然良さような道ではないからです。信じればすぐにいいことがある、そういうものではないからです。ですから、苦しみのなかにあっても他では得られない豊かさやよろこびがある。苦しみの只中で、自分が何者であるかに気づく。これらのことを伝えなければ、クリスチャンが増えることはないのではないか、とわたしは思います。

「ヴァルネラビリティ(脆さ)が響き合う場」

2026年2月15 日(日) 大斎節前主日 (マタイ17:1-9)

 きょうの福音は、主イエスの変容の物語です。主イエスの姿が光り輝いたというのは、主イエスが受難と死を通ってお受けになる、その栄光の姿が、前もって示されたことを意味します。つまり、輝きと受難は、表裏一体であるということです。

 しかしながら、ペトロは主イエスのことを十分に理解していませんでした。主イエスに「あなたはわたしのことを何者だと思うか」と聞かれて、ペトロは「メシアです」と応えた。しかし主イエスが受難のことを話されると「主よ、とんでもない。そんなことがあってはなりません」といった。すると「わたしの邪魔をする者。神のこと思わず人間のことを思っている」という厳しい一言を主イエスにいわれてしまうわけです。

 わたしが聖書ってすごいなと思うのは、このような弟子たちの理解の至らなさ、弱さ、失敗、人に話すには恥ずかしいと思うようなことが赤裸々に書かれているということです。のちにペトロは、主イエスに「はっきりいっておく。あなたは、三度わたしのことを知らないというだろう」と言われて、ペトロは「たとえ一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなんていいません」という。けれども主イエスが捕えられ、「あなたはイエスと一緒にいたでしょう」といわれると、「そんな人は知らない」といってしまう。

 しかし後に復活のイエスとの出会いによって、ペトロは福音とは何か。メシア、救い主とはどういうお方であるのかをようやく知ることになりました。復活のイエスのペトロに対するまなざしは、告発するものでも、戒めるものでもありませんでした。「ペトロ、わたしはあなたがそういう者であると知っていた。そのように知りながらも、わたしはあなたを慈しみ、愛してきたのだ」とイエスはペトロにまなざしを注がれるのです。

 ですからペトロは、「わたしは最初からイエスさまのことをよく分かっていた。イエスさまにいわれたことをすべて守ってきた模範弟子だからあなたたちにいうのだ」と高みから福音を伝えたのではないのです。主イエスはどんなときにもダメだと切り捨てなかった。わたしたちに関わり続けてくださった。だから主イエスと共にもう一度生き直そう。これがペトロの宣教の原点であり、福音のよろこびであったに違いありません。このように見てきますと、教会の原点というのは、人間の持つ弱さや脆さ、不完全さに自覚的になった者の集まりであるといえるのではないでしょうか。近年、社会福祉分野においてヴァルネラビリティ(Vulnerability)という概念が注目されてきています。ヴァルネラビリティとは「脆弱性、可傷性、傷つきやすさ」などと訳される言葉です。わたしは「ヴァルネラビリティの響き合う場所」、「弱さや脆さにおいて共に在るところ」が教会なのではないかと考えます。

「『すでに在る』から始める」

2026年2月8 日(日) 顕現後第5主日 (マタイ5:13-20)

 主イエスは、自分に従ってきた弟子たちに、また取り囲む群衆に、「あなたがたは地の塩となるだろう、世の光となるだろう」、あるいは「地の塩となりなさい、世の光になりなさい」といったのではありません。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けというのではありません。むしろ、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然である。つまり、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」このことばは今ある事実の宣言であって、予定でも命令でもないのです。

 『「能力」の生きづらさをほぐす』などの本を書かれている、組織コンサルタントの勅使河原真衣さんという方がいらっしゃいます。勅使河原さんは2人目のお子さんが産まれてから、ご自身に乳がんがあることがわかりました。それまでバリバリ働いてこられたけれども、ご自身の人生を見つめ直すことになった。そこで「能力主義」というものを深く問い直すことになったというのです。

 わたしたちは、努力しているとか、能力があるという価値観、勉強ができるとか、仕事ができるとか、コミュニケーション能力があるとか、そういう出来る・出来ないという評価軸によって測られる。このような「能力主義」である限り、「競争」というものは止まらず、人が「ただそこにいてくれるだけで、ありがとう」といった世界観で暮らしていくことができない。「能力」というものさしで人に序列をつけ、「個人」に分断し、「競争」で人々の不安をあおる。これを学校や社会でやりすぎている。そこから生まれるのは、生きづらさである。「有能」になることや、「競争」するために、人は生きているのではない。人と人とが組み合わさって、助け合うことが生きることである。だから、「あれが足りない、これが足りない」というのでなく、「もうすでに在る・有る」から始める。わたしたちが「もうすでに在る・有る」ことを認め合うならば、小さくても確実な一歩が踏み出せる。こう勅使河原さんはいうのです。「能力主義」を疑う。この勅使河原さんの言説をみなさんはどう思われるでしょうか。

 光を輝かせるというのは、「清く正しく神の掟を守っている」と自負する、すなわち、できること・優れていることをアピールするのではなく、「もうすでにここに在る・有る」こと、すなわちわたしたち一人ひとりが愛され、ゆるされてここに在ることを輝かせることではないでしょうか。まず「もうすでに在る・有る」から始める。つまり、お互いに与えられたいのちを生きる。一人の弱い人間存在として、いつくしみ合うことから始める。するとそこに神の国があることが見えてくるのではないでしょうか。

「神の誠実」

2026年2月1 日(日)顕現後第4主日 (マタイ5:1-12)

 今週の福音は主イエスが山上で説教した内容の冒頭部分で、8つの幸いと呼ばれている箇所です。心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、へりくだった人々は幸いであるとわたしたちは聞きますと、心の貧しいこと、悲しむこと、へりくだることが、幸いの条件のように聞こえます。しかし、原語の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々、霊において、なぜなら 彼らのものである、天の国は」「幸い、悲しんでいる人たち、なぜなら、彼らこそは、慰められるだろう」となります。すなわちこの説教の冒頭の言葉は、目の前に集まっている人々に向かって語りかける、「祝福のことば」なのです。祝福とは、今ここに在ること肯定する。そしてそのよろこびを共にするということです。そして、いのちの可能性が開花し、成長していくことを願うことです。つまり「あなたは今のままでよい、そしてこれからもよいであろう」という意味です。主イエスは、目の前にいる、病や貧しさで、他に頼るところもなく、主イエスのもとに切実なおもいで集っている人たちに対して、「あなたがたは幸いである」と語りかけたのです。

 けれどもこんなにしんどいのに、どう考えても今を幸いだとはいうことはできない、なのになぜ主イエスは「幸いだ」というのでしょうか。それは、「天の国、神の国はあなたがたのものだから」です。神の国は近づいたのです。どうみても、いま神の国にわたしたちがいるとは思えない。神の国に近づいたとは思えない。けれど主イエスは、「喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」といいます。天に行けば、報いがある。神の国に行けるように頑張れば、大きな報いがあるというのではなく、神の国はもうわたしたちのあいだにある。幸いはこの現実の只中にある。このことに気づくのかどうか。すなわち悔い改めるかどうか。回心するかどうかなのです。

 悔い改めるというのは、方向転換です。わたしたちは、今ある現実を「足りない、満たされていない」、すなわち「欠乏」という視点から見ています。ですから目の前の現実は自分が幸いであるには十分ではない。しかし神目線に方向転換する。神がすでにわたしたちを愛で満たしてくださっている。そういう「満たされている」「自分が幸いであるには、いま十分である」と視点を方向転換したら、今ある現実はどう見えるのでしょうか。神の義、誠実さが先にある。それをわたしたちが信じるか信じないかにかかわらず、神の愛が十分に与えられている。そのことを認識する、経験する。それを知ったとき、わたしたちの側には大きなよろこびが起こる。この神の誠実さ、神の愛を感じるのは、誰もが今だとは思わない、まさに悲しむとき、飢え渇きのあまり身をかがめて絶望しているとき、その苦しみの只中で、神の誠実さを感じる。だから今、幸いなのでしょう。

「呼ばれた者として」

2026年1月25 日(日)顕現後第3主日 (マタイ4:12-23)

 今週の福音は、主イエスが4人の漁師を最初の弟子として呼ぶ場面です。「わたしについてきなさい」こう主イエスはいいます。これは、ちょうど主イエスが告げ知らせたばかりの、天の国、神の国への呼びかけです。

 世界中で争いが起こっています。また地震などの自然災害が起こっています。このような現実のなかで、わたしたちは、救いや神の国を探し求めます。しかし、キリスト教において重要なことは、わたしたちが主イエスを探して見つける前に、主イエスはもうすでにわたしたちを見出してくださっているということです。つまり救い、また神の国というのは、わたしたちが探して見つける前に、神からすでに与えられているということなのです。わたしたちが主イエスを見つける前に、主イエスのほうが先に動いてわたしたちを見つけてくださる。呼びかけてくださるのです。

 主イエスの呼びかけ、そしてわたしたちの応答は信仰においてなくてはならないものです。そして、主イエスの呼びかけに対する応答は、わたしたち一人ひとりに対する直接的なもので、他の誰にも代わりがきかないものなのです。他の人に代わって応えてくれ、とも頼めませんし、他の誰も自分に代わって応えようのないもの、それが主イエスの呼びかけです。ですから、信仰とは単に神が存在すると信じればそれでいいというものではありません。また誰かに言われたから信じるというようなのでもありません。自分と主イエスとを結ぶ直接的な関係が信仰なのです。「このわたしが呼ばれた」から始まるのです。

 主イエスに呼びかけられたことのよろこびは、それが得られるなら何を捨てても惜しくないほどの、世に二つとない、最もすばらしい宝物を見つけた人のよろこびです。なぜそこまでよろこべるのでしょうか。それは、「自分が神に見出されたものである」ということを、イエスのまなざしで、イエスの呼びかけで知る。すなわち神から、わたしたちがどのように見られているかを、イエスを通して知る、からではないでしょうか。

 みなさんは「あなたがわたしのところに来る前に、あなたのことを捜していたよ」「あなたがこれまでの人生頑張って生きてきたことをわたしは知っているよ」このように主イエスにいわれたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。自分の存在を認めてくれる人がいた。自分の心の奥底に触れてくれる方と出会った。誰にも目を留めてもらえない、こんなに頑張って生きているのに誰にも認めてもられない、そのように思っていたけれど、わたしは主イエスに見出された。そして主イエスに自分の存在を受け止めてもらった、こういう体験、出会いのよろこびが、すべてを捨てて、イエスの後に従う者へと変えるのだとわたしは思います。

「静まりに留まる」

2026年1月18 日(日)顕現後第2主日 (ヨハネ1:29-41)

 ヨハネ福音書における主イエスの第一声は「何を求めているのか」です。主イエスについていきたい、そのように願う人が、最初に主イエスに問われるのが、「あなたは何を求めているか」なのです。それではみなさんは、主イエスに何を求めているでしょうか。

 「何を求めているのか」という主イエスの問いかけに対して、二人の弟子の答えは「どこに泊まっておられるのですか」でした。このように彼らが尋ねたとき、単に主イエスの宿泊場所を尋ねたにすぎなかったかもしれません。「あなたの泊っているところにいきたい。あなたと一緒にいたい」という気持ちを表現したのかもしれません。しかしながらヨハネ福音書においては、泊まるという言葉は、ほかの箇所においても大切な使われ方をしています。「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である……わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」。また、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさい」。これら「泊まる」「つながる」「留まる」という言葉は、イエスが神のところに「泊まる」「つながる」「留まる」、そういう神と主イエスとの深い関係を表す特別な言葉だといえます。そうであるならば、「どこに泊まっていますか」という問いは、単に宿泊先を聞くことにとどまらず、「あなたはどこに留まっているのか」「あなたは神とどのような関係にあるのか」という意味であると捉えることができます。すると、主イエスは「来なさい、そうすれば分かる」といわれました。主イエスについていけば、それはおのずと分かるようになる。主イエスが生きられたようにわたしたちが生きるようになる。実際に行動を起こして他者と共に生きるようになると、主イエスがどこに留まっておられるのか、主イエスと神との関係がどのようなものなのかが、分かるようになっていく。

 そして祈りにおいて、主イエスが留まっておられるところに、わたしたちも留まる。病や障害に苦しむ人をいやし、会堂から会堂へと教えてまわる。このような息もつけないような忙しい活動のなかで、主イエスは祈っておられました。つまり行動の只中に、沈黙の祈りがあるのです。一人になれるところ、神だけがそこにおられる静けさのなかで、主イエスは自分の思いではなく、神のみ心に従う決断をする力を得たのです。宇宙、自然、人間の生活、すべてにみられるのが「静」と「動」のリズムです。この「静」と「動」のバランスをもって、いのちの調和がとれているといえます。また「動」や「スピード」が重要視される社会にあって、「静まりに留まること」「沈黙すること」、神のみ前に留まるということの意義に、わたしたちは目を向ける必要がある。沈黙に留まることの重要性を知っている。これが祈りを大切にするという教会の存在意義ではないでしょうか。

「いのちの次元があらわになる」

2026年1月11 日(日)顕現後第1・主イエス洗礼の日 (マタイ3:13-17)

 ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教は、『キリスト者として生きる』という本のなかで、洗礼について次のように述べています。「洗礼はわたしたちを他の人々と区別させる特別な地位を与えるものではありません。『私は洗礼を受けた』と言えることは、特別な威厳を主張することではなく、ましてや、他の人々から選り分けられ、優越性を与えられることでもありません。それは、他者との新しい次元での連帯を主張することなのです(17頁)」。主イエスが洗礼を受けられたのは、「他者との新しい次元での連帯」を主張するためでありました。すなわち主イエスは、罪びと、ここでいう罪びととは、犯罪者のことではなく、社会の最下層にある困窮者のことを指しますが、彼らと同じ列に並び、共に洗礼を受けた。この行いを通して、「神はあなたがたと共に在る」ということを示したのです。

 もう少しいうならば、すべての人が神のいのちにつながっているという、いのちの次元、すなわち「Doing」何かをするということで人間が評価されるのではなく、「Being」そこに生きて存在するということに価値があるという次元、それが天の国・神の国ですが、その次元を主イエスは洗礼を受けることによって示されたといるでしょう。主イエスは、神の愛を知っています。ですから、みなと同じ地平に立ちたかった、洗礼を受けずにはいられなかったのでしょう。すべての人が招かれている、神の国がすでに近づいていること、いのちの次元、Beingの次元は、目ではっきりと見ることも、ここに在ると証明することもできません。しかしながら、主イエスの洗礼において、明らかなものとなったのです。

 主イエスは洗礼を受け、神の国を宣べ伝える活動をスタートしました。わたしたちにとっても、洗礼は神の恵みとそれに対する私たちの応答の始まり、信仰の旅路の出発点です。しかしながら洗礼は、人生の一つの点、ポイントで終わるのではありません。洗礼は全生涯的な広がりをもったプロセスであり、一生続く営みなのです。その信仰の営みというのは、わたしたちが神から離れ、自分を中心にして物事を判断してしまうたびに、罪をおかすたびに胸を打って反省し、懺悔し、悔い改めることというよりも、わたしたちがすでに神の恵みが与えられていることを、わたしたちがすでに神のいのちに浸されていることに、何度も気づき直していく、そういうプロセスを歩んでいくこと。そして神のいのちにつながっているというのは自分だけのことではなく、イエスのように、すべてのひとがいのちにつながっていることを認識し直して、連帯して共に歩むこと。これがわたしたちの信仰の旅路だとわたしは思います。

「暗闇で輝く救いの光」

2026年1月4 日(日)降誕後第2主日 (ヨハネ1:1-18)

 ヨハネ福音書は、主イエス・キリストの誕生を、暗闇の中に光がともること、暗闇の只中で光を見ることだといいます。主イエスは漆黒の闇、冬至の時期の夜に生まれます。これが歴史的に正確なのかは問題ではなく、闇の中に光が生まれる、という象徴的な意味として、非常に大切なときなのです。希望が全く見出せない、生きていても仕方がない、誰も見向きもしてくれない、このように感じる暗闇の只中に、神のいのちが宿りました。暗闇のなかにあっても、神が共にいる。このような神のおもいをキリストはこの世に生まれること、そして生涯を通して伝えたのです。それでは、わたしたちは、どこに救いの光を見出すのでしょうか。見た目の華やかさのなかに神を見出すのでしょうか。つかの間の楽しみのうちに神を見出すのでしょうか。聖書は、誰も見向きもしない、誰もがそんなところに救いなどないと思うような、暗闇の中で、飼い葉桶に神の救いが現れたといいます。

 私たち人間は、神にケア・配慮されている。これが主イエスの誕生の意味でしょう。わたしたちとかかわるために、わたしたちと共に在るために、キリストは暗闇の只中にやって来た。この神の配慮への応答として、わたしたちは、神を大切にし、人を大切にする。わたしたちが互いのいのちに配慮し合い、互いの存在を大切にするかかわりを生きるとき、わたしたちのいのちは活き活きと輝く。これがイエス・キリストが示した新しいいのち、新しい生き方なのだと、わたしは考えています。わたしたちの社会においては、人は行動や能力で評価されます。「何をした」「何ができる」という効率や生産性で人を判断します。このような価値観と相反するのが、キリストの価値観です。互いのいのちに配慮し、ただ共に居るということです。ただ共に居ることには、価値がないのでしょうか。人に囲まれて生活することが当たり前ならば、誰かが横に居ること、自分が誰かとそばに居ること、そのことに注意を払うことはないでしょう。

 共に居ることによって、あなたの存在は忘れ去られてはいない。あなたはひとりではない。このことを、かかわりにおいて伝えていくのが、「存在へのケア、いのちへの配慮」です。主イエスは、暗闇の只中で、あなたは独りではない、わたしは暗闇のなかであなたと共にいると、わたしたち一人ひとりの「存在へのケア、いのちへの配慮」をしてくださいます。目の前に置かれている厳しい状況は、共に居ることだけでは、何も変わらないように思えるかもしれません。それでもわたしたちは、かかわりを持ち続けていく、何もできなくとも、困難な状況にあっても、共に居続ける。このようなかかわりこそが、暗闇の中で示されたキリストの救いの光であり、キリストの救いの光をわたしたちが目に見えるものにするのは「共に在ること」ではないか、とわたしは思います。

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